地表から隔離された大深度地下施設の内部では、意識せずに時の移ろいを知る事は困難であった。
陽の光も虫の声も届かぬ中、それでも一日の作業は進み、やがて『施設』内に業務の区切りを知らせるチャイムが鳴り響いた。
重厚そうな響きを含ませた鐘の音を耳にして、大成は机の前で背筋を伸ばした。
この日もまた、日頃と特段の差異が在る訳でも無く、大成達『第七管制室』の職員達は銘々に息をついたり、談話を始めたりの緩んだ気色を覗かせ始めたのだった。
「おつかれっ」
さばさばとした口調で、席を離れた大前田が大成の背に声を掛けた。
「特にトラブる事も無い一日で良かったが、尚更荷物の受け入れだけが余計だった気がすんなぁ。暑い中、汗だくんなってよぉ……」
大成がパソコンを落としながら、後ろでぼやく中年男へとやんわりと言葉を返す。
「気分転換とでも思えばいいんじゃないっすか? 偶にゃ外の空気も吸っとかないとね」
「ウランとかストロンチウムとかが絶妙にブレンドされた素敵な空気をぉ?」
大前田が眉根を寄せて言うと、大成もまた顔を顰めた。
「そりゃ終戦直後の話でしょ? あれから七年も経ってりゃ、流石に大気中の汚染物質だって落ち着いて来てるでしょうが。少なくとも政府広報の通知じゃあ、都心でマスクを付ける必要はもう無いって……」
「おいおい、近頃の若い者は大本営発表って言葉も知らんのか?」
腕組みまでして勿体付けて言い放った大前田へ、大成が椅子に座ったまま肩越しに細めた目を向けた。
「知ってますって、それぐらい。うちらの代は戦時下でもきちんと学校通ってたんすから。共通テストだってわざわざ受けに行ったんすよ? やってる最中に空襲警報が来て二度も中断が入ったけども」
少し不機嫌そうに言った後、大成は机上のディスプレイが完全に暗転したのを見届けて椅子から立ち上がる。
「どの道『休眠期』は軍隊が回してくれる情報を信じるしかないでしょ。マスコミも大学もお昼寝の真っ最中じゃあ、寝ずの番してる俺らはお手上げなんですから。それに、『施設』の観測機器にもそんな変な数値は出て来なかったでしょ?」
「まあ、そうだけど……確かにそうではあるけどよぉ、風ん乗って他所の汚染物質がこっちに流れて来るって事もあるかも知んないよぉ?」
大前田は腕組みをしたまま、何処か不貞腐れた態度を覗かせ始めた。
こんな調子でよくこの仕事を続けてられるなぁ、と大成は内心で呆れつつ言葉を差し挟む。
「それこそ神様にお祈りするぐらいしか手立てが無いでしょうが。それに、全国的にも汚染のレベルは下がってるって話ですけどね。この際大本営でも何でも、それが共通認識って事でいいんじゃないっすか、もう? 俺だって休みの日にそこいらを散歩したりとかしてますし、現に外で暮らしてる連中だっているぐらいなんだから」
だが、大成が自説を締め括ろうとした矢先、大前田はぴくりと眉を動かしたのだった。
「いや、あっちを引き合いに出しちゃいかんだろ……」
それまでとは声の質を異にした、咎めるような物言いであった。
同時に、そこに抑え切れない忌避の響きが含まれている事を感じ取って、大成も苦い面持ちを浮かべた。
「あれと比べちゃいけねえよ、流石に……」
仕事場を去って行く他の職員達の足音が、両者の間に差し挟まれる。
それからおよそ三十分程の後、大成は自室のシャワールームを出たのであった。
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、部屋着姿の大成は弱い照明が照らし出す室内を見回す。1LDKのゆとりある室内には窓が無く、廊下と同じ真っ白な壁が四方を囲っていた。
職場から階を二つ跨いだ先に、『墓守』達の生活空間が連なっていた。
そこそこ名の知れたホテルの一室のような、清潔感と整然さが湛えられた自室を、だが、大成は面白くもなさそうに一瞥した。
ベッド、クローゼット、ソファに化粧机など、生活に必要な家具一式は揃えられている。然るに、だからこそであろうか、光の差し込む窓も設けず、鳥の囀りも虫の声も届かない、外界との接点の無い部屋は余計に白々しさを見せ付けて来るのであった。
湿った鼻息を一つつくと、大成は壁際の机の方へと歩いて行く。そのまま備え付けの椅子に腰を下ろし、彼は机上に置かれていたノートパソコンを立ち上げたのであった。
空調の稼働音が、穏やかかつ淡白に時を刻んだ。
ややあって、大成はノートパソコンの画面に表示される写真に、静かに眼差しを注いでいた。
液晶画面に映し出されていたのは、崩れ掛けた街並みであった。
即ち、自身が身を置く『施設』の外の景観である。かつてこの国の都心と呼ばれた地域、その成れの果ての残骸が、机に置かれたノートパソコンの画面に収まっていたのであった。
戦災の痕も未だ生々しく、人っ子一人見当たらぬ崩れ掛けた街並みが、黒いまでの空を天上に頂いて広がっていた。
何処かの定点カメラが捉えた画像であったろうか。大成は大した感慨も無さそうに、ディスプレイに表示される廃墟の写真を捲り続けた。その双眸の表に画像が映り込むのと一緒に、瞳の裏では先程の大前田の表情が映し出される。
「……地獄ってな地面の下にある筈だったのに、今じゃ地上の方が死の世界か……」
青年の口元から微かな呟きが零れ落ちた。
マウスのクリック音が白い壁に撥ね返り、空調の空気を揺らす音だけが暫し部屋を満たした。
どれ程の後の事であっただろうか。
やがての末に、小さな声が上がった。
「あっ……」
パソコンの前で、大成は思わず吃驚の声を漏らしていたのであった。
椅子に座ったまま全身の動きを止めた彼が注視する画面には、一枚の写真が映し出されていた。
それまでと変わらぬ廃墟の写真。
主達が地下で永い眠りに就いてからも、使われる事も無いままに愚直に聳え続けるビル街の写真である。その多くが崩れ、罅割れ、足元に無惨な残骸を積み重ねながら、それでも尚在りし日の面影を辛うじて保っている。
そんな壊れ掛けた景観の片隅に、在る筈の無いものが紛れ込んでいたのであった。
活動を停止した街並みで、絶対的な異端となる唯一の存在。
それは即ち人間である。
写真の左の隅に、白い服を着た何者かの姿が映り込んでいた。
昼の日差しの中、瓦礫の中に朧に浮かび上がっているのは人の影姿であった。
一つきり、たった一人で、その誰かは誰もいない街並みに佇んでいた。
小さく映ったその孤影を、大成は食い入るように凝視した。
白い服を纏った一人の少女の姿が、画面に映り込んでいた。
或いは白昼を彷徨う亡霊のような、また或いは機器が偶然浮かび上がらせた幻像のような彼女は、俄には確たる存在感を抱けぬ映像に過ぎない。
だが、それでも彼女は廃墟の中に立っていた。
白昼の崩れ掛けた街並み、その端に佇む一人の少女の姿を、手元のノートパソコンの画面に映し出された朧げな姿を、大成はじっと見つめていた。
夜はいよいよ更け行こうとしていた。
地下の奥深く、時が経つのも忘れて、『墓守』の青年は打ち捨てられた墓地の如き地表の様子に只々見入っていたのであった。
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