ばちん、と大きな音を立てて火の粉が散った。
周囲に何も灯りの無い中で、篝火より舞い散った朱色の粒は、底知れぬ暗闇に実に鮮烈な光を刻み付けたのであった。
刻々と形を変え、輪郭を絶えず揺らめかせる炎はそれ自体が意思を持っているかのようである。
原始時代より変わらぬであろう飾らぬ有様を、大成は黙して凝視した。
闇の中で踊る炎は美しかった。
炎の美しさはは取りも直さず『夜』の、『夜』という時間の美しさであった。
土の上に直に腰を下ろしたまま、大成は己が周囲へと視線を散らす。
原初の闇が辺りを覆い尽くしていた。
全く視界の利かぬ漆黒の闇は数え切れぬ程の生けるものの声で満ち溢れ、片時も静まる事は無い。その懐に多くの命の息吹を抱いた宵闇は決して恐ろしいだけの存在ではなく、安らぎと懐かしさをも近付く者へ与えるのであった。
私は闇を信じる。
遠い昔、そんな詩を詠んだ詩人が外国にいたっけな、と大成は宵闇に燃え盛る篝火を見つめて思い返した。
次いで、彼は空を仰いだ。
辺りに人家の明かりが全く無い中では夜空は大小様々の星々で埋め尽くされ、星と星の間を微細な流れ星が頻繁に通り過ぎて行く。瞬く無数の星々は今にも地上へ落ちて来そうなまでに鮮やかに輝き、細かな光が寄り集まって天に一筋の道を形作っていた。
耳を澄ませば遠くから川のせせらぎが聞こえ、それを蛙や虫、鳥など諸々の生き物の奏でる生命の息吹が銘々に伴奏を添える。一切は混沌として尚泰然と流れ行くようでもあり、時に大地の鼓動のように規則正しく聞こえても来るのだった。
夜とはこんなにも美しいものだったのか。
大成は頭上を仰いだまま、ただ静かに息をついた。
或いは、美しいのは時の移ろいそのものであるやも知れぬ。
あらゆる生命の活動が、それによって織り成される生きた『時間』そのものが、淀み無く流れ去って行っても決して消える事の無い残像を一瞬一瞬に刻み付けている。視界の利かぬ夜であるからこそ、そうした万象のありのままの営みが耳と肌に絶えず訴え掛けて来るからかも知れなかった。
時よ止まれ。汝は余りに美しい。
思わずそう呼び掛けたくなる程に。
『施設』の自室、地下深くの墓穴の中では決して得られぬであろう実感に暫し耽った後、大成は顔を前に戻した。
ばちん、と大きな音を立てて、篝火がまた火の粉を噴き上げる。
赤々と燃え盛る炎の周囲を、数人の人影が囲っていた。
夜も更け行く中、河川敷の集落もまた一日の終わりを迎えようとしていた。半数以上の『村人』達は既にバラック小屋の中へと引っ込み、表で炎を眺めているのは極少数である。居残った誰もが自分と同じ感慨に浸っているのかは定かではなかったが、ややあって、大成は徐に右へ首を巡らせた。
彼の隣に、『彼女』が腰を下ろしていた。
周囲と同じく闇の中にうねる炎を見つめ、白い服を纏った少女が物も言わずに地べたに座り込んでいる。火影に照らし出されるその面持ちは昼間以上に朧に見えて、声を掛ければその弾みで消えて行ってしまいそうですらある。
傍らに座る南海子の面持ちを、大成はじっと凝視していた。
近い距離にありながら互いに沈黙する両者を、篝火だけが見つめていた。
どれ程の間、炎の爆ぜる音だけが両者の隙間へ差し込まれていただろうか。
大成はゆっくりと口を開いた。
「……生きてるって、楽しいもんだな」
隣に座った南海子は何を答える事もせず、炎の揺らめきのみを見つめていた。
大成もまた目の前の篝火を見据えて、穏やかな口調で述懐する。
「そっちが『外』に残り続けるのも、やっぱり『それ』が理由なのか? 多くの命に囲まれて、一緒にいると安心するから。自分は独りじゃないって実感出来るから……」
そこまで言った所で、大成は南海子の横顔を一瞥した。
朱色の炎に照らし出される少女の面差しは普段よりも細まって見え、その双眸には小さな輝きが宿っていた。白昼を彷徨う幽霊の如き少女は、夜の闇の中では逆に確たる実体を得たかの如く、炎の煌めきによってその輪郭を削り出されていた。
『眠り』を拒絶した今、彼女もまた『外』の世界の一部となっているのかも知れない。
『人間』本来の形を含む、しかし、『今』の人間には決して手の届かぬものへと。
それでも青年は、自分の傍らに現に座る一人の少女へと呼び掛け続ける。
「こうして『外』に惹かれ続けるのは、『施設』の中が耐え難い場所だったからか? それとも、元からこういう環境にいるのが好きだから、だから『眠り』に入る事が出来なかったのか?」
夜風が流れて、篝火がゆらりと揺らめいた。
南海子は炎をじっと見つめたまま、うっすらと口を開く。
「……あすこは冷たいんだもの……冷たい所に閉じ篭ってたら、本当に冷たくなっちゃうよ……」
音も無く吹き抜けた夜風と通ずる、穏やかな言葉であった。
大成は、そんな相手を改めて凝視した。
「『外』だって、冬になれば充分冷たいだろ?」
青年の指摘に、少女は首を横に振る。
「暖かいよ。こうやってれば……」
言って、南海子は目の前の篝火に片手を掲げたのだった。
暗がりの中でもあまり血色の良くない事が判る細い手を、少女は燃え盛る炎へと翳した。
じっと、ただじっと眼前の火を見つめる彼女を、青年は悲しげに見遣った。
もっと器用に生きられるだろ、と大成は傍らに腰を下ろした『彼女』へ呼び掛けたかった。
声を大にしてはっきりと伝えたかった。
けれど、どうしても出来なかった。
古来より『眠り』は常に『死』に喩えられて来た。『眠り』を司る神と『死』を司る神は双子の兄弟であり、不可分の事象であると昔から捉えられて来たのである。隣に座る『彼女』もまた、先の見えない『眠り』に『死』の影を色濃く見出してしまったのかも知れない。
しかし、それは単純な恐怖や強迫観念から齎された反応とは異なるように、大成には思えたのだった。
けだし『彼女』は『生』に対する執着、或いは渇望が誰よりも強いのではないだろうか。最初に出会った時に聞いたあの言葉、自分は死にたくないという血を吐くような叫びは決して錯乱して出たものなどではなく、『彼女』の中核を為す『意志』が物の弾みで表れたものであったのかも知れない。
たとえ白昼を当て所も無く彷徨っているように見えても、『彼女』自身は己の『生』を懸命に繋ぎ止めようと人知れず足掻いていたのかも知れなかった。大半の人間が『眠り』に就いた街で尚一人歩き回りながら、『現代型遊牧民』の者達が高らかに詠うような宗旨とも異なる、自己の『芯』の部分から湧き出る衝動にただ従って。
永い微睡の先に待つのが『生』であるか『死』となるか誰にも判らぬ五里霧中の世の中で、『彼女』に出来る事はたとえ無益と判っていてもひたぶるに叫び続ける事のみであったのかも知れない。
そんな『彼女』を暫し見つめた末、大成は顔を前へ戻した。河川敷の集落、その中央に設けられた広場で今も燃え盛る篝火を、『墓守』の青年もまた見据えたのである。
「そうか。冷たくなるのが嫌なら、眠るのなんか嫌だよな……」
大成は至って穏やかにそう評した後、やおら頭を振った。
「……御免。俺、一個嘘ついてた」
傍らの南海子が微動だにしない中、大成は言葉を紡ぎ続ける。
「俺がこうやって眠らずにいるのは、本当は眠る事で昔の思い出が途切れるんじゃないかって不安になるからなんだ。誰もいなくなった街を眺めて回るのも同じ……『過去』が完全に切り離されたものになって、手の届かないものに変わってくのが怖いんだよ」
告白する内、大成の目は徐々に細まって行った。
「延々と眠り続けてたら、その内忘れちゃうかも知れないからな。昔の事も、家族の事も、何もかも……」
大成がそう告げた刹那、南海子は緩やかに首を巡らせたのであった。
前方の炎から隣に寄り添う一人の青年へと目を移した少女は、徐に口を開いた。
「……忘れちゃ駄目だよ」
寝息のような、さもなくば誰かを寝かし付けるような和らいだ声が、夜の一角に漏れ出た。宵闇そのものが発したような声に引かれるようにして、大成もまた隣に座る少女へと顔を向けた。
『彼女』は、食い入るようにこちらを見つめていた。
目前の炎とは異なる、しかしそれにも勝るような『彼女』の強い眼差しに、大成は思わず見惚れていた。正しく吸い込むような眼差しであり、それは取りも直さず肯定の眼差しでもあったのだった。
半ば無意識、無自覚に、大成は頷いていた。
「……ああ。忘れたりはしない……」
炎から鮮やかに火の粉が舞い、周囲を包む闇へとすぐに溶け消える。
辺りに満ちる自然の息遣いは途絶える事を知らず、夜は益々更けて行くのだった。
篝火がまた、ばちん、と大きな音を立てた。
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