脛の半ばまでを水に沈めながら、大成は街灯も灯されていない車道を河川敷へと向けて懸命に歩み続けた。
僅かでも気を緩めれば、力を抜けば、吹き荒れる風に容易く押し倒されそうになる。正に一瞬の油断が命取りであり、人一人の命など一瞬で吹き消される程度の代物に過ぎない事を、青年はこの夜に自らの身を以って思い知らされたのだった。
戦乱によって齎される生命の危機とは即ち顔の見えない誰かに対する恐怖であるが、災害が遣すそれはより根源的な恐怖、普段は心の奥底に眠っている畏怖を呼び覚ますのである。大成が今正に相対しているのは形を持たぬ暴威そのものであり、矮小な人間など初めから歯牙にも掛けぬ圧倒的な力の奔流であった。
日頃地中深くに篭っている身としては尚更、剥き出しの自然の力に対して畏怖と畏敬とを抱かざるを得ない。慣れない真似をするもんじゃないな、と大成は若干蒼褪めながら、それでも嵐の中を前へと進んだ。
やはり『墓守』は墓穴から出るべきではなかったのか。
そう思うのと一緒に、大成の脳裏に別の声が過ぎる。
「あなたも『こちら』へ来ればいいのに……」
幾日か前、河川敷の集落を去る間際に言われた事を、大成は思い返した。
バラック小屋の建ち並ぶ『村』の端に立って、黒い襤褸を着た壮年の女は、立ち去ろうとする大成へと向けて未練の滲む言葉を遣したのであった。
集落の中心に設けられた広場では、篝火が尚も闇の中で舞い踊っている。半身をうっすらと朱に照らされた『墓守』の青年を、寄る辺を持たない女は恨めしげに、そして悔しげに見遣ったのであった。
あの時遣された眼差しと声が、大成の意識に凝りとなって今も残っていた。
『彼ら』の時間感覚自体が既に曖昧なものと化している為、正確な日数は不明ではあるが、南海子がこの集落に現れたのがおよそ三四年前の事であったらしい。それ以来ずっと身近で世話を焼いて来たのが、あの壮年の女であった。
或る意味ではあの女の存在こそが、南海子を『外』に縛り付けているのだとも言える。
大成は風雨の向こうに尚も淀む、何の光明も見出せぬ闇の奥へ鋭い眼差しを送り付けた。
最も質の悪い悪意とは、取りも直さず一方的な善意に他ならない。この先何年、何十年、あんな暮らしを続けさせてあの少女が持つ筈が無い事ぐらい、あの連中には判らないのだろうか。
周囲に歳の近い人間もおらず、得られる知識や教養も酷く限られたものになる。これから更に成長しようとしてる人間を、成長出来る人間をいつまでも置いておいていい環境ではない。
ましてや、『彼女』はまだ『死』を受け入れて平然と生きて行けるような歳でもないのだ。やりたい事や、なりたいものがあって然るべき年頃なのである。絶えず傍で様子を見ていて、本当に何も気付かないのだろうか。
いや、少なくともあの女は実際には察しているのかも知れない。だからこそ、こちらに自分達のコミュニティに加わるようにと遠回しに訴えて来たのかも知れない。
南海子の意思を尊重しつつ、その未来を拓いてやるようにと。
極め付けに虫のいい話だと、大成は土砂降りの雨に顔を打たれる中で歯を食い縛った。
本当に相手を思い遣っているのなら、時に突き放す態度を示す事も必要だろうに。
本当に、心から『彼女』の事を心配しているのなら。
煩悶するようにそこまで思案を巡らせた後、大成は吹き荒ぶ風の中でまたも表情を歪めた。
結局これもまた、呆れる程に多数派の理屈であるに違いは無い。あの少女に限らず『眠り』を受け入れられなかった者達に対して、こちらがこれまで何をして来たというのだろうか。
自分が今ここでこうして足掻いている現状にしてみても、所詮は自分一人の気紛れに根差したものに過ぎないのだ。たまたま目に付くようになるまではまるで意識も向けなかった癖に、今になって急に良識を振り翳して保護者を気取った所で、それが一体何になるというのだろうか。
その時、溢れる水に足元を取られて大成は大きくよろめいた。
縋る物も無い車道の真ん中で、青年はそのまま無様に転倒する。水飛沫の飛び散る音が、激しい雨音の合間に一瞬だけ差し挟まれた。
最早立派な小川と化している車道の路面に両手を付いて、大成はどうにか上体を持ち上げた。虚ろな眼光を湛えた青年の頬を、雨水が間断無く流れ落ちて行く。
現実として、『施設』へ入るよう促す以外に、こちらがあの少女に出来る事など何も無いのである。
『彼女』に与えられるものなど一つも無い。
たった一つの拠り所、即ち『安心』を与える事すら自分達には儘ならない。『眠り』に就いた先にはきっと明るい未来が待っていると、自信を以って伝える事が未だ出来ずにいるのだから。
俺は一体何をしているのだろう。
これまで何をして来たのだろう。
果たしてこの先、何をしたいのだろう。
路面を走る真っ黒な水の流れを見下ろして、大成は暫し蹲った。
結局、自分はただ幻を追い掛けているだけなのかも知れない。自分が好きに思い描いた理想の残像の如き、全き虚ろなるものを。
然るに、当の『彼女』からすればこちらこそが透明な幻、過ぎ去った日々の残像に等しい空虚な存在であるかも判らない。
多くの人々が眠り続ける『墓所』を護る『墓守』。
それすらも詰まる所は、墓場をうろつく亡霊と大差が無いではないか。
決して戻り来ぬ『過去』に縋って現世にしがみ付いているだけの、矮小で哀れな『亡霊』達の代表。
その中でも取り分け無様な、眠るべき『墓所』から迷い出て徘徊を続ける一匹の惨めな『亡霊』。
それが『お前』だ。
暗闇に独り蹲る青年の背中を、大粒の雨が容赦無く打ち据える。
あの時、『彼女』は答えを返さなかった。
共に篝火を見つめる中、大成が口に出した呼び掛けに対して。
「明日を、楽しい『明日』を創る為に、もう一度『眠り』に就いてみる気はないか?」
地べたに腰を下ろしたまま、大成は隣に座る南海子へと穏やかに訴えた。
「『明日』の事を考えて生きて行けるのは人間だけだ。『今日』を楽しむ事が悪いとは言わない。だけど、『未来』に希望を賭けてみないか? もう一度……」
白い服を纏った少女は、闇の中でじっと炎を見つめ続けた。その面を朱に染めながらも、まるで大理石から削り出された彫像の如くに。
そんな『彼女』へと向け、『墓所』を預かる『墓守』の青年は真摯な口調で呼び掛けた。
「……次に目覚める時、傍にいるのが『俺』っていうんじゃ駄目なのか?」
刹那、少女は炎を見据える目を僅かに細めたようだった。
大きな音を立てて、火の粉が波飛沫のように暗闇に舞い上がる。
闇の奥より届く無数の生き物の声が、沈黙した二人を包んだ。
そして今、大成は再び立ち上がった。
水中に落としても尚も消えぬ懐中電灯を拾い直し、青年はまた闇の向こうを目指して歩き出したのであった。
横殴りの雨は時と共に益々激しさを増して行く。
咆哮の如き唸りを発する暴風が、か細い光を手に進む孤影の頭上で渦を巻いた。
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