一九九九年 三月
東京都 渋谷区 MKEホール
「ちょ、まっ!貴さん!待って!」
おれの今の上司、この現場では職長まで務める真佐人が悲鳴に近い声を上げておれの肩をがっちりと掴んだ。
「なんだよ真佐人、贔屓すんなっつったじゃん」
そう言っておれは上司に楯突いた。いくらおれの方が年上だからってこの仕事については、言ってしまえばおれはペーペーだ。他の人間より優遇されて良い訳がない。
とは言うものの、正確に言うとおれは株式会社GRAMのアルバイトで、真佐人は株式会社EDITIONの社員だ。
我がGRAMが取り仕切るロックイベントにローディーとして、提携会社であるEDITIONに仕事を依頼している。我が社GRAMとEDITIONの社長同士が夫婦なので色々と事を運び易いらしい。商流としてはEDITIONよりも上流に位置するGRAMだが、結局のところアルバイトという立場のおれは、EDITIONから派遣されたローディーチームの手伝いをするのが仕事なので、チームの長である真佐人には従わなければならない。
「TPOです」
「なん?」
聞き慣れない横文字にわざと不思議顔を作ってやる。
「いいですか?今日のイベントにはsty-xさんも出演するんです。貴さんの労働意欲には、それはそれは頭が下がる思いですけれども、今日の俺の立場として、sty-xさんたちの目の前で元The Guadian's BlueのTAKAをローディーとしてコキ使う訳にはいかないんです」
真佐人ってホントに良い奴だし凄く親切なんだけどさ、時々おれのこと馬鹿だと思ってもの凄く丁寧に状況説明すんだよね。まぁ判りやすくて助かってるから良いんだけれども。
まぁそれはそれとしてだ。
「TAKAタカ……」
おれもちょっと大人になったから判るようになったけどさ、マジくそハズいよね、名前のアルファベット表記って。バンドの方針とか当時の雰囲気がそうだったから仕方ないにしたってさ、抹消したい黒歴史だよね。水沢貴之がTAKAだなんて。言いたかないけどイイ年こいた大人になってもこれやってる奴、ぶっちゃけヤバい奴しかいないよね。
っと、そんなことを考えてる場合じゃないな。本当は真佐人が言わんとしてることも判らない訳じゃないんだ。
おれは数年前まで今真佐人が言ったThe Guardian's Blueというそれはそれは、とてもとても有名だった、もしかしたら日本では指折りの人気を誇った(かもしれない)ロックバンドでベースを弾いていた過去がある。一応、いわゆる一つの元有名(かもしれない)人でもあったりする訳だ。
だから真佐人の危惧も少しは判る。でもちょびっとだけ食い下がってみる。
「な、何ですか?」
「なんでもない!そうそう!sty-xの姐さん!だから今日わざわざシフト入れてもらったんだよ。行ってくる!もう入ってるよな!」
「ぎゃー!待って!」
一旦は離れた真佐人の手が再びがしっ、とおれの肩を掴んだ。……駄目だった。
因みにsty-xというバンドは女性だけで編成されたバンドとしては日本のロックシーンに於て先駆者的なバンドで、それもLAメタルやハードロックをお家芸とする、硬派なお姉様方だ。今では女帝なんて呼ばれている、おれなんかただのバンド小僧でしかないくらいの、それはそれは、とてもとても凄い存在なのである。
長い歴史の中で色々とメンバーチェンジ等もあって、今は第三期と呼ばれるメンバー編成だ。初代のギタリスト、獅子倉史織さんには過去に世話になったことがあったんで挨拶したかったんだけど、残念なことに第一期が活動休止になったときに脱退してしまったんだよな。
それでも最初期からのリーダーでシンセサイザーの千々石千織さん、ベースの沙々崎沙織さん、ドラムの真間田麻織さんも健在なので、是非とも挨拶をしたくて、今日のイベントにシフトを組んでもらったのだ。
「なんだよもー」
真佐人の悲鳴にも近い嘆きに足を止める。
「行くのは構わないんですけど、ローディーとして行っちゃダメです!」
それな。判っちゃいるんだけれどもさ。
「おれが今プーなのは変わんねぇだろーがよー」
「貴さんが元The Guardian's Blueだったのも事実です」
そのThe Guardian's Blueは、それはそれは、とてもとても色々な、表沙汰にはならなかったごたごたと、表沙汰になったあれこれがあって三年前に解散した。かくしておれはプー太郎になった訳だが、The Guardian's Blueの元ドラマーでもあり、中学時代からの親友でもある谷崎諒が立ち上げた音楽事務所、株式会社GRAMのアルバイト要員として働かせてもらっている。働かせてもらっているからには全力尽力だ。
という訳で今日のようにGRAMに所属している若いバンドのライブがあればローディーとして働くし、レコーディングがあれば裏方スタッフとしてバリバリ働いているし、何もなければ諒の嫁さんの夕香が経営している楽器店兼音楽スタジオ、EDITIONでスタジオやフロアの清掃、機材の手入れなんかをしているって訳だ。
「それに諒さんが社長なんですから、諒さんの顔に泥も塗れないですよね」
おためごかしと言ってしまうと意地が悪いが、真佐人だって諒がどんな人間かなんてとっくに判ってるくせに、わざとそういうこと言ってくるんだからなぁ。
「奴ぁそんなくだらねぇこと気にしないけどなぁ。ま、判ったよ。挨拶は作業が終わってからにする。んで仕事は車の方に行くわ。ステージの方行っちゃうと誰に出会すか判ったもんじゃないし」
諒は当然として、同じく真佐人の顔にも泥は塗れない。今日この現場の職長は真佐人だ。自分で贔屓するなと言っておいておれが正面切って職長に楯突く訳にもいかない。
「すみません」
「や、こっちこそ」
例えば、だ。
何だアイツ、元The Guardian's BlueのTAKAをローディーでコキ使っていやがる。何様だ?とくだらない考え方をする奴は事実、存在する。諒はもちろんsty-xの姐さん達なら笑い飛ばして理解してくれるだろうけれど、残念ながらこの世の中、くだらないモノの見方しかできない人間、外見からの個人的心象でしか物事を判断しない人間が大多数だ。諒のことにしても、何故元同じバンドのメンバーをバイトなんかで使ってるんだ、などと事情も知らず、調べようともせず、騒ぎ出す人間は必ず出てくる。おれも外見からの個人的心象が大きな間違いだと言うつもりはないし、見た目に依らず、という言葉は例外があることを表す言葉だと判っている。だから人に悪い印象を与えてしまう可能性がある格好はしなくなったし、どんな悪意に晒されているかも少しは考えるようになった。
だけれどそうした、いわゆる悪意なき悪意は、おれ自身が自ら望んでこの立場を取っていることなどまるで理解はしてくれない。まぁされたところで困るのも事実ではあるけれど、ごく個人的な偏った正義感と倫理観で突っ込める所があれば突っ込みたい、それが悪意だと気付けもしないくだらない奴らだらけだ。もちろんおれは諒や真佐人に迷惑をかけたい訳じゃない。
The Guardian's Blueが解散してからこっち、おれはまだ迷っている。
アルバイト生活が気楽で良いというのが一面の事実であることは認めるが、だからアルバイトをしている訳ではない。おれは諒やほかの元メンバーのように、すぐに自分のやるべきことを定められなかった。諒はすぐに自分の好きにやるために音楽事務所を設立した。その際にも一緒にやろうと誘われはしたが、即答はできなかった。
The Guadian's Blueのギタリストだった二人、草羽少平と大沢淳也は、今年初めにThe Guardian's Knightというバンドを立ち上げた。その時にもおれは誘われはしたものの、断ってしまった。
今もってまだ、おれは決めかねている。自分の行動を、行くべき途を。だからこうして少しだけ、今は周囲に甘えさせてもらっている。
「ゆうっし!んじゃあいっちょ頑張りますかね!」
音楽から離れることは出来そうもなかった。だから諒に頼んでアルバイトをさせて貰うことにした。おれがもう一度楽器を持って、表舞台に立てるのか。
あの時の、The Guadian's Blueの時のように、全力で自分がやるべきことを、再び全力でやれるのか。
その答えが出るまでの、ほんの少しの間だけ……。
二〇一八年八月二〇日
七本槍市 七本槍南商店街 バー Ranunculus
「-P.S.Y-結成前の頃ですね。もう少し昔の話かと思いました」
ふ、とジャスミンの吐息と共に、六花は静かに言う。おれ以外の客の追加注文などは落ち着き、もっぱらおれとサシで話している状態だが他の客に迷惑がかかる訳ではない。それに六花も客からの注文があれば即座にそれに対応するので何ら心配はない。
「それもあるにはあるんだけどね、さて六花さんに聞いてもらって楽しくなるかどうか」
特にオジサンの昔話なんて多少関連のある人間になら興味に掠ることもあるだろうが、六花とは音楽的な繋がりは何もない。バーのオーナーと客という立場ももちろんあろうが、だからと言って六花が全く興味を示さない話を続けるには勇気もいるし、気も引ける。
「実際のところ、本当に興味が沸いてきましたよ」
そう笑顔になる六花に、見上げた商売魂だ、と言ってしまうのも意地が悪かろう。さて、どうしたものか。つまらない話を笑顔で聞くのも仕事のうち。それは確かにあるのかもしれないが、一応は馴染みの客として、六花にそんな気遣いをさせたくないという気持ちもある。
「付き合わせた甲斐があった、かな?」
なので探りを入れてみることにした。完全に興味の外の話ならば、中途半端に終えたところでどうということはない。しかし六花もまた、普通のバーテンダーと客、という気の遣い合いは恐らくおれには求めていないはずだ。
「聞かせてもらってるのは私、ですけれどね」
「とは言ってもさ」
苦笑するおれから何を読み取るかな、この機知に富む美女オーナーは。
「奥様がいらしたときに肴にできるお話なら存分に聞いておきたいところですよ」
……なるほど。おれの奥様である涼子も時折、親友である夕香と二人でここに来ることがある。涼子もまた六花と話すのは心地良いらしく、いたく気に入っているようだった。
「なるほどねぇ、じゃもうちょっとお付き合い願いましょうかね」
そのネタに使われるんだったらそれは良いことじゃないか。愛する妻とお気に入りのお店のために自らが肴になるなんてちょっと乙な振舞いってもんさ。
おれはグラスの中のバランタインを飲み干してグラスを置くと、いつの間にかテーブルに置いてくれていたチェイサーを一口。さすがの気遣いだねぇ。
「次は少し刺激のあるノアーズミルなんてどうですか?」
「お、それは知らない酒だねぇ。スコッチ?バーボン?」
この店に通い始めたばかりの頃は、自分の好きな酒ばかりを飲んでいたのだけれど、顔馴染みの客が六花にお任せの注文をしているのを見ていて、それも面白そうだと思い、おれも倣い始めた。それが古舘六花という人物の、人を見る目や審美眼が確かなものだと実感することになる。六花が選んでくれる酒はどれも旨かったし、この店に来れば必ず気分上々で帰ることができた。それは六花の選んでくれた酒がその時その時で合っている酒だったからだ。以降、おれがこの店に来る時はほぼほぼ六花にお任せとなってしまっている。
「貴さんのお好きなバーボンですよ。ケンタッキー州産です」
言った六花が棚から出してきたのは渋いデザインのラベルのビン。確かに見た目からしてバーボン、といった佇まいだ。おれはスコッチウイスキーも好きだが、どちらかというとバーボンウイスキーの方が好きな酒が多い。何しろスコッチウイスキーはその名の通り、少しずつ呑まなければならないからだ。
……勿論おれは我が相棒の諒ちゃんと違って六花から白い眼で見られたくない訳で、そんなくだらない駄洒落など思い出しはしても、口にはしない訳だけれども。そこがあの馬鹿とは違うところだ。
六花が選んでくれた酒に期待を込めておれはグラスを差し出した。
「そいつは良さそうだなぁ。いただきます」
「はい、じゃ次はダブルにしますか?」
そう言って六花は楽しそうに笑ってくれた。
01:大人になると判る気恥ずかしさって、あるよね 終り
読み終わったら、ポイントを付けましょう!