夜半。
浮遊する馬車の中で、クディカは束ねられた書類に目を落としていた。
王国の斥候部隊がまとめた報告書だ。デルニエールにおける戦いの一部始終が事細かに記されている。読み進めるうちに眉間に皴が寄っていくのも仕方ない内容であった。
「戦況は思わしくないか」
「ええ」
クディカの呟きに答えたのはリーティア。すでに報告書に目を通していた彼女は、眼鏡の位置を直し、窓から宵闇の森を眺める。
「明朝までに打開策を練らねばなりませんね」
「ああ。このまま私達が合流したところで、大して役に立たんだろう」
乱暴な溜息を吐き出すクディカ。
彼女の向かいに座るカイトが、組んでいた腕を解く。
「そんなにまずいことになってるんですか?」
声にはっきりと不安が表れていた。自覚はある。これから向かう戦場をそんな風に聞かされれば、心配になって当然だ。
「初戦の被害。デルニエール側はおよそ七から八百。敵側は一万超だ」
「え? めっちゃ勝ってるじゃないですか」
「数字だけ見ればな」
胸を撫で下ろしかけたカイトを、クディカの鋭い目線が一喝する。
「デルニエールはメイホーンの術士隊とジークヴァルド将軍の重騎兵隊を失った。生き残った兵も疲弊している。無論、魔族側も少なくない死者は出ているが……」
「二人の四神将が、いまだ健在なのです」
言い淀んだクディカの後を、リーティアが引き継いだ。
「ふたり? ソーニャ・コワールだけじゃないんですか?」
リーティアが頷く。
「彼女とは別にもう一人。ルーク・ヴェルーシェが戦場に現れたとのこと」
カイトの鼓動が一拍、強かに鳴り響いた。
ルーク・ヴェルーシェ。その名を聞いた途端、頭の中を引っ掻き回されるような感覚に陥る。
脳裏を過るのは漆黒の鎧。黄金の瞳。それは頭蓋にひびが入るような頭痛をもたらす。
重たい剣戟の音が、耳鳴りとなってカイトを襲っていた。
なんだ。
何を思い出しているんだ。
ルーク・ヴェルーシェ。その名を知っている。
いつかの記憶の中に、確かに刻み込まれている。
これはいったい誰の記憶なんだ。
「カイトさん? どうかされましたか?」
リーティアの呼びかけで、カイトはようやく元の感覚を取り戻す。
「ああ。いや、なんでも。大丈夫です」
愛想笑いを浮かべ、頭を振る。
頭痛も耳鳴りも、最初からなかったかのように消えている。気のせいだったのかもしれない。こんなことでリーティアやクディカに心配をかける必要もないだろう。
「それで、そのルークなんとかってのが厄介だってことですか?」
「厄介」
クディカが一段と声を大きくした。
「そんな言葉で済めばどれほどよかっただろうな」
そして、深刻そうに俯いてしまう。
リーティアはそんな幼馴染を横目で見つめ、すぐにカイトに向き直った。
「こと戦闘力において、四神将の中で頭一つ抜きん出ている。名実ともに魔王軍最強の将。それが、ルーク・ヴェルーシェです」
「最強……」
その響きは、今更のようにカイトの琴線に触れる。
「奴が戦場にいる限り、デルニエールに平穏は訪れん。想定しうる中で最悪の展開だ」
「俺が倒しますよ」
放った一言が、場の視線を一挙に集める。
「何を言っている」
クディカはしばし驚愕と戸惑いを示してから、長い金髪をかき上げる。どうやら呆れているようだ。
「気張るのは結構だが限度がある。戦い方を覚えたばかりのお前が勝てる相手ではない。一合で斬り殺されるのがオチだ」
そうだ。普通に考えればそうに違いない。
この時、強気の言動に一番驚いているのは他でもないカイト本人であった。何故そのようなことを口にしたのか、自分にもまったくわからない。
けれど、どうしてか。
ルーク・ヴェルーシェと、戦わなければならないと思うのだ。自分をおいて他に誰も奴には勝てないと、そう感じてしまうのだ。
これは予感でも妄想でもなく、確信だった。
故にカイトは繰り返す。
「俺が、倒します」
決意と覚悟に満ちた声。
冗談でないことは、クディカにもリーティアにも伝わっていた。
「気負いすぎだ馬鹿者。陛下はああ仰ったが……初陣で敵将を討ち取れるものか。お前は英雄ではない。めざめの騎士を騙る凡人なのだぞ」
「わかってます。でも俺は」
敵がどれほど強大であろうと、どれほど過酷な状況であっても。
「もう逃げないって、決めたんです」
カイトは多くを語らなかった。
周りの人達はよくしてくれる。慮り、鍛え、慕い、守ろうとしてくれる。だが、はたして自分はそんな価値のある人間なのか。
もちろん戦って死ぬのは恐ろしい。けれどそれよりも怖いのは、自分が無価値な存在だと思ったまま生き続けることだ。
元の世界では、生きているだけで尊いとか、ありのままの自分でいいんだとか、そんな励ましの言葉が飛び交っていた。当時のカイトは、その言葉を額面どおりに受け取って、何も考えず真に受けていた。嫌いな自分を肯定されているように感じ、仮初の安堵を得て、気ままに日々を生きていた。都合よく解釈し、ただ怠惰の口実にしているだけだと気付かず。
けど今は違う。自分はこれだけのことをやった。自信を持ってそう言える自分になりたい。心の底から胸を張って生きるには、たとえ無謀に思えても行動を起こすしかない。
ネキュレーに誓った、魔王を倒すという願い。
誰かの為に戦うという決意。今この時に当てはめるなら、危機に瀕したデルニエールの人々の為に戦うということに他ならない。
ならばソーニャ・コワールも、ルーク・ヴェルーシェも、避けて通れぬ障害だろう。
「生き急いでいるようにしか聞こえん。おいリーティア。お前からも言ってやれ。前に進むだけが戦いではないと」
「あなたがそれを言うのですか?」
リーティアはからかうように微笑む。
「少なくとも私が知る中では、あなたが一番生き急ぎ、退くことをしない性質の持ち主ですが」
「おい。今はそういうことを言っているのでは――」
「クディカ。私の考えは違います」
だしぬけに、リーティアの声が張りを帯びた。
「思うに、ルーク・ヴェルーシェを討ち取るには、カイトさんのお力が不可欠かと」
真剣味を帯びた言葉に、カイトは唾を呑み込む。
「本気か? カイトの体質に関しては聞いたが、強化魔法がよく効くというだけで奴に勝てるというのか」
「もちろん一騎討ちなんて考えてはいません。真っ当な戦闘力では敵うはずもありませんから。ただ……一撃の爆発力においてカイトさんに勝る人物は、おそらく今の王国軍にはいないでしょう」
カイトは隣で眠りにつくヘイスを一瞥する。カイトの肩に頭を寄せて、静かに寝息を立てていた。
「ルーク・ヴェルーシェは勇猛ですが、一介の戦士に過ぎません。彼は戦士としての矜持を重んじるあまり、搦め手を極端に嫌うと聞きます。それは美徳でもありますが、戦場において致命的な欠点にもなりうる」
「む。耳が痛いな」
クディカも同じ信念の持ち主だ。自身が戒められているようにも感じるのだろう。
だが、クディカとルークには大きな違いがある。それは、勝利を先とするか、信念を先とするか。クディカは勝利の為なら信念を曲げてでも策を用いるが、ルークはたとえ敗北し命を落とそうとも、正々堂々と戦う道を貫くだろう。
「そこに付け入る隙があるのです。故に私達が模索すべきは、いかにしてカイトさんの一撃を命中させるかということ。致命の威力も、防がれてしまえば何の意味もありません」
「確かに」
細い顎を押さえ、クディカがふむと息を吐く。
「ならば、勝利の鍵は連携にあるか」
「その通り」
人間にあって魔族にないもの。それが団結だ。
「力を合わせるってことですね」
カイトの声は弾んでいた。努めて落ち着いた声を出したつもりだったが、高鳴る胸の内を隠しきれていない。
仲間と手を取り合い、強敵を打ち倒す。まるで物語の英雄のようだ。
国王に四神将討伐の命を下された時、カイトは自分一人でそれを成し遂げなければならないと感じていた。そうでなければ、自分の力を証明したと言えないと思っていた。
けれどそうじゃない。皆がいる。
リーティア。クディカ。デュール。ヘイス。数百人からなる軍隊も一緒だ。過酷な戦場に向かおうというのに心が弾むのは、それに気付いたからこそ。
リーティアの優しげな微笑みと、クディカの凛とした笑みが、同時にカイトに向けられた。彼女達も同じ気持ちを共有しているのだ。
自分は決して、一人じゃないと。
それまで沈鬱だった車内の空気は、いつの間にか暖かく希望あるものに変わりつつあった。まるで一家の団欒のように。
「四神将だ!」
「戦闘準備! 急げ!」
馬車の外から聞こえて来た兵士の怒鳴り声が、場の空気を一変させた。
瞬時に表情を引き締めたクディカが、剣を手に馬車を飛び出していく。壁に掛けられた杖を取って、リーティアもそのすぐ後に続いた。
ひとときカイトは呆然となる。だが、すぐに我を取り戻した。
「ヘイス! 起きろ!」
華奢な両肩を揺さぶる。寝ている場合でない。
「ふぁ……カイトさま? なんですかぁ?」
「敵襲だ」
「へ?」
瞼をこすっていたヘイスの手がぴたりと止まる。
「この中にいろ。絶対外に出るなよ」
「あの! カイトさまは?」
「戦う。その為に来たんだからな」
胸に手を当て、深呼吸を一つ。ざわめく心を落ち着かせる。
そしてヘイスの目をじっと見つめる。ここに守るべき少女がいるのだと、自らを鼓舞するために。
「大丈夫。すぐ戻る」
「カイトさまっ」
ヘイスの手が、カイトの服の裾を掴む。
「お気をつけてっ……!」
不安げなヘイスの手を握り、笑いかける。下手な作り笑いだったかもしれない。
「行ってくる」
見つめ合いもそこそこに、カイトは剣を携え馬車を飛び降りた。
隊はすでに臨戦態勢であった。誰もが武器を抜き、前方の敵に備えている。彼らには既に強化魔法がかけられているようで、全身及び武器、跨る馬に魔力の光がほのめいている。
隊列の最前に向かうクディカの背中を追う。今はとにかく前に行かなければ。
「待って」
前方でクディカが立ち止まったのとほぼ同時に、横合いからリーティアに腕を掴まれた。
「迂闊に前に出てはいけません。機を図ってください」
耳打ちする彼女に、カイトはしかと頷く。独断で動くつもりはない。クディカやリーティアの指示には必ず従うつもりだ。
カイトは最前列から十数歩の後方で、剣の柄を握り締める。体の震えは恐怖のせいじゃなく武者震いだと、そう自分に言い聞かせて。
宵闇の森の中。クディカの背中越しに、敵の影がうっすらと見て取れた。
馬に酷似した闇色の獣に跨る、一人の騎士。闇に溶けるような漆黒の甲冑は、ところどころ傷付き欠け、煤けている。
「闇夜に紛れて奇襲とは、魔族の将にしては姑息だな!」
「そんなつもりはない」
勇ましく声を張ったクディカとは対照的に、敵の調子はやけに落ち着いていた。
「俺は戦士だ。戦に不純物は不要。ただ己が力を示すのみ」
剣を構えたわけでもない。魔力を帯びたわけでもない。ただそこにいるだけで放つ尋常ならざる存在感。圧倒的な強者の覇気が、カイトの呼吸を阻害する。敵の悠々とした佇まいは、力を持つ者の余裕を体現しているようだ。
ふと、兜のスリットから覗く金の隻眼と目が合った。
――瞬間。
カイトの視界に、今ここでない景色が割り込んでくる。強制的に、暴力的なまでの勢いで。
何度も切り替わる場面。静止画の連続。付随する感情。
安息と闘争。
愛念と友情。
罪悪感と無力感。
そして、ついに訪れる死。
「なんだ、これ」
まただ。知らない誰かの記憶が、フラッシュバックする。
目の前の魔族に覚える、あまりにも不可解な既視感。
「アーシィ・イーサム……」
直感的に理解する。
今は亡き先代めざめの騎士。この記憶は、紛れもなく彼のものだと。
「駄目だ」
「カイトさん?」
ただならぬカイトの変化を、リーティアは敏感に察した。
いくら王国軍が精強であろうと、クディカやデュールが勇猛であろうと、それはあくまで人間という括りの中での話。
「全滅する……!」
ルークの強さは常識の外にある。理すら超越するかもしれない。
「なんとか、しないと」
このままでは全員殺される。まともに戦ったところで勝ち目などない。
焦燥が全身に浸透していく。剣の柄を握り締め、痛いほどに高鳴る胸を押さえる。
「落ち着いてください。いったい何を感じたのですか」
柄を握る手に、そっとリーティアが触れた。それだけで、張り詰めた緊張の糸が幾分か和らいだ。
「リーティアさん、戦っちゃだめだ。勝てっこない」
カイトの慄然とした表情を覗き込んでいたリーティアは、静かな眼差しをルークに移す。次いで、視線を周囲に巡らせた。
「伏兵がいるのですか?」
「そんなんじゃありません。ただ……あいつは」
「わかっています。ルーク・ヴェルーシェの武勇は桁外れ。ですが敵は一人。戦いようはあります」
「違うんだリーティアさん。あいつはそういうレベルじゃない。作戦とか、戦術とか連携とか、そんなのが通じる相手じゃないんだよ」
敵は一人。こちらは数百人。それがなんだ。
兎が何百羽集まろうと、一頭の獅子には敵わない。
「だからと言って退くわけにもいきません。カイトさんの仰る通りなら、尚のこと手を打たなければ」
同じ四神将のソーニャ・コワールも、騎馬隊の巧みな連携によって抑えることができた。今回はあの時の数十倍の戦力がある。四神将最強とはいえ、勝算は十分にあるはず。
リーティアとてそう思っていた。だが、あまりにも不自然なカイトの反応を目の当たりにし、考えを改める必要を悟る。彼女は決してカイトの言動を軽視しなかった。むしろ、真に重んじるべき感覚であると知っていた。
しかしその警戒心も、カイトが抱く危機感に比べれば些細なものだ。
最前線では、油断なく剣を抜いたクディカがその切っ先をルークに向けている。
「たった一人で何をしに現れた? 使者というには品のない訪問だ」
だめだ。そいつを刺激したら。
「卿が指揮官か」
「そうだ」
「この軍で最も強き戦士を出せ」
「なんだと?」
「一騎討ちを望む。卿らが勝てば、デルニエールからの撤退を約そう」
「ふ……面白い」
クディカの口角が吊り上がる。彼女はこれを絶好の機会と受け取った。
「この白将軍クディカ・イキシュが相手をする! 他の者は下がっていろ!」
正々堂々の勝負はクディカの最も望むところである。それによってデルニエールを救えるというのなら、これ以上ないほどの好条件だ。彼女は自らの腕に自負があり、戦い様には誇りがある。敵が四神将最強だと頭では分かっていても、これだけの都合のいい条件を捨てられる気質ではない。
「卿が白将軍か」
騎乗していないクディカと対等に戦うため、ルークは跨っていた眷属から降り、地に足をつけた。
じりじりと後退する兵士達。彼らの間には安堵、あるいは弛緩の雰囲気が生まれ始めていた。白将軍が戦ってくれるなら安心だ。勝利は間違いない。そんな認識が蔓延している。それは自分達の将に対する信頼の表れであったが、あまりにも無責任な振る舞いでもあった。
カイトはクディカの蛮勇と兵士達の楽観に、半ば怒りのような感情を抱く。
「リーティアさん。何かいい方法はないんですか」
「……今のところ、クディカが戦うのが最善といえるでしょう。この軍では彼女が最も強い」
「勝てないのをわかって行かせるんですか!」
強くなった声に周囲の兵達が注目する。縁起でもないことを言うなと、顰蹙を買っているのだ。
「全員で戦っても、こちらは全滅なのでしょう? 少なくとも一騎討ちに応じれば、被害は最小限に抑えられます」
馬鹿な。クディカを見殺しにするというのか。
「幼馴染なんでしょうが! 黙って見てるってんですか!」
「カイトさん……」
湧き出る感情を抑えることはできない。
出会った頃は恨んだこともあったが、今となってはクディカは恩人だ。恩ある人間を犠牲に、自分が助かろうなどとは思わない。
分かっている。リーティアとて苦渋の決断なのだ。将一人の喪失か、全滅か。選ぶまでもない。彼女の心痛は理解できる。理解はできるが、そう簡単に納得できるものか。
カイトの言動は、端から見れば奇怪であろう。勇猛であると噂には聞くが、戦ったこともなければ、窮地に陥っているわけでもない。そんな敵を前に勝てないと決めつけて、一人で恐慌状態に陥っている。周囲が訝しむのも無理はない。
だが、この場の誰が分かっていなくとも、カイトだけは知っている。他でもないアーシィ・イーサムが教えてくれた。
ルーク・ヴェルーシェは、まともな生き物ではないと。
「俺が行く」
カイトは覚束ない足取りで前に進み始める。
止めようとしたリーティアの手が、どうしてか空振った。
カイトは振り返らない。もし誰かが死ななければならないというのなら、それは自分であるべきだ。一度は失ったはずの命なのだから。
「リーティアさん。俺に英雄の資質があるってんなら、今はそれに賭ける時だ」
独断で動かないと決めていたというのに、こうなってしまってはその戒めを反故にするしかない。
呟く背中を、リーティアは一時唖然として見つめる。
「ああ……灰の乙女よ。もしかしたら私は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれません」
祈るように紡いだ声。同時に、リーティアの体に翡翠の輝きが灯る。
「彼は、偽りなんかじゃなかった」
そして彼女は一人の後衛術士として、覚悟を決めた。
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