夜明け前。
魔王軍の野営地。司令部となる天幕に、鈍い打撃音が鳴り響く。
「帰るってどーゆーことよ!」
ソーニャの小さな拳が、分厚い円卓に叩きつけられていた。
「言葉の通りだ。俺は北へ帰る」
「だからどーして!」
「約束だ」
淡々として言葉足らずのルーク。ソーニャの整った眉がひくひくと上下する。
急にいなくなったかと思えば傷だらけで帰還し、更には突然帰るなどと言い始める。いくら個人主義の文化であっても、易々と見過ごせる事態ではない。今は大義名分を掲げた戦争の最中であり、ルークは将の肩書を背負う者だ。
「あーもうっ」
ソーニャは文字通り頭を抱える。実質的な指揮官である彼女にとって、これ以上なく面倒な問題の発生であった。
「デルニエールはどうするつもりなのよ」
「お前がいれば落とせる」
「あのね! そーゆーことじゃないでしょうが」
落とすだけなら不足はない。けれども、ルークがいるかいないかで攻略の難度は大きく変わる。時間と物資、味方の被害、攻略後の展開。すべてルークが戦場に立つ前提で計画されている。
「ちょっとはあたしの身にもなってよ」
必要以上の損害を出すことは、すなわち魔王の心労に繋がる。ソーニャはそれをなにより嫌っているのだ。
とはいえ、ここまで言うからにはルークも決して意思を曲げないだろう。頑固で自己中心的。典型的な魔族の生き方だ。
「後は任せる」
それだけを残して、ルークは静かに天幕を去っていった。
呼び止める気力すら湧いてこない。
「ほんっと勝手なやつ」
ソーニャは無造作に椅子に腰かけ、天井から吊り下がる魔導灯を仰いだ。
憤懣やる方ない思いを溜息に乗せて吐き出す。これでも努めて冷静を保とうとしているつもりだった。
こういう時には決まってフォローを入れるシェリンが、今ばかりは何故か大人しい。天幕の隅で両手を組み、俯いたままそわそわと落ち着かない様子である。
「あんたは行かないの?」
苛立ちを孕んだ声に、シェリンがぴくりと肩を震わせる。
「ソーニャちゃん……」
ふと顔を上げるシェリン。その銀の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと落ちていた。
「え、なに泣いて――」
「どぉしよぉソーニャちゃぁぁぁん!」
泣き喚きながら駆け寄ってきたシェリンに真正面から抱きつかれる。その勢いで椅子が倒れ、二人して床に転がり落ちた。不意打ちのような出来事に、ソーニャはしばし呆気にとられる。
「ちょ、ちょっとなによあんたまで」
「ルークに嫌われちゃったかもぉぉ!」
「はぁ?」
小柄なソーニャはシェリンに抱きしめられて身動きが取れず、じたばたと手足を振り回す。
「とりあえず離れなさいって……!」
「どうしたらいいのぉ~!」
「聞くから! 話聞くから、離れて……離せっ」
シェリンの顔面を押し離し、やっとのことで脱出するソーニャ。
「なんなのよもう」
立ち上がり、スカートについた埃を払う。
おろおろと泣くシェリンを椅子に座らせて、とりあえず二人分の飲み物を用意することにした。熟成させた果汁を元に作られた弱めの酒。古くから魔族の文化に根強く残る逸品である。
「ったく……で? 何があったのか話してみなさいよ」
隣あう椅子に腰かけたソーニャは、その瑞々しい脚を組んだ。
シェリンがここまで取り乱すのは珍しい。まず間違いなく、ルークの突飛な行動に関係しているはずだ。
「あのね……」
グラスを包み込むように持ったシェリンは、事の顛末をしずしずと語り始める。
ルークが人間の援軍を襲撃したこと。そこで一騎討ちが始まったこと。その相手が予想以上に強く、ルークの勝利が揺らいだこと。そして、感情的になったシェリンが戦いを邪魔してしまったこと。そのせいで、デルニエールの戦いから手を引かなければならなくなったこと。
そんな一夜の出来事を聞き終えたのは、ソーニャが何度か脚を組み替え、なみなみ注いだグラスがちょうど空になる頃だった。
「えーっと、なに? じゃああんたは、あいつの戦いに水を差したせいで嫌われたんじゃないかって思ってるわけ?」
頷くシェリン。
「戦いは、ルークの生きる意味なのよ。それを邪魔しちゃったんだもの。ぜったい怒ってる。私、ルークに嫌われちゃったらもう生きてけない」
この世の終わりを感じさせる声色。
ソーニャの口から深呼吸にも似た長い嘆息が落下した。
「くっだらな」
率直な感想を吐き捨てる。
大袈裟にもほどがある。今の話に比べれば、路傍の石の方がまだ興味をそそられるというものだ。
「あのね。ルークの奴がそれくらいであんたを嫌うわけないでしょーが。いつもべたべた鬱陶しいくらいイチャついているくせしてそんなこともわかんないの?」
「だって」
ぽろぽろと涙をこぼすシェリンの肩に、ソーニャの手がそっと乗せられる。
「あーはいはい。ぜんぜん大丈夫だから。嫌われてないって」
「……本当?」
「ほんとほんと。あたしが保証するわ」
そもそも魔族が恋愛感情を抱くことは稀である。長命種であることと、個としての優秀さを重視するためか、異性とつがう欲求に乏しいのだ。故に彼らは積極的に子孫を残そうとはせず、魔族が種として繁栄しない原因の一つとなっている。
翻せば、魔族が抱く恋心は人間よりもはるかに重く純粋だ。自己を殺し、特定の相手を慮る。それは自らの個を捧げるにも等しい。
シェリン然り、ルーク然り。初めから、一騎討ちを止めたくらいで崩れるような繋がりではないのだ。
「もうこの話は終わりでいいでしょ」
あと半刻もしないうちにデルニエールへの攻撃を再開しようというのに、くだらない痴話を聞いている場合ではない。
「うん。そっか……そうよね。ありがとうソーニャちゃん」
どうやら納得してくれたようだ。
「私、ルークと話してくる」
涙を拭って立ち上がったシェリンは、そのまま駆け足で天幕を出て行ってしまう。
一人残されたソーニャは、目頭を押さえて眉間を寄せるしかなかった。
「約束ねぇ。そんなの、無視しちゃえばいいのに」
相変わらず頭でっかちな男だ。ルークが重んじる戦いへの誠意は、ソーニャにとって決して美徳ではない。彼の行動は結果的に魔王の損となるからだ。
「……ちょっと待って」
そこでソーニャはあることに気づく。
シェリンの話が真実ならば、デルニエールの増援にルークと互角に渡り合う猛者がいるということになる。
「あの戦バカと真正面から斬り合う人間? なにかの間違いじゃないの」
そんな人間がいたとして、はたしてそれを人間と呼べるのだろうか。
ソーニャは慌てて天幕を飛び出す。
ルークとシェリンを帰らせるわけにはいかない。あの二人がいなくなったら、一体誰がその人間の相手をするというのか。
だが、時すでに遅し。日の出の兆しがある空に、飛空魔法の軌跡が二つ伸びていた。今から追いかける余裕はない。
「嘘でしょ……?」
紅い瞳を丸くして、ソーニャは呆然と空を見上げる。
まもなく夜明けの訪れだ。
デルニエール攻防戦。今後の趨勢を決定づける二日目の始まりであった。
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