その時、戦場の空気が一変した。
城塞の内側にいながらそれを感じ取れたのは、ジークヴァルドをはじめとする歴戦の猛者だけであった。
「将軍、どうかしたかい?」
城壁の上。表情を強張らせた老将軍に、ソーンが訝しげな表情を向ける。
「若。おそらく魔族の連中ですな。警戒めされよ」
「ああ、やっと出てきたか」
ソーンは平原に視線を移す。
相変わらずの優勢だ。敵のほとんどはデルニエールに近づくことさえできない。準備した旧式兵器は効果覿面だった。
徴兵された者達には兵器の使い方だけを叩き込んだ。各々に武器を持たせるわけではなく、数人一組で一つの兵器を機能させることで安定した防衛力を備えさせたのである。
ソーンの見立ては正しかった。魔王の眷属は魔力の塊であるが故に、攻撃魔法に対してはめっぽう強い。だが物理的な攻撃力の前には、ただの獣となんら変わらないのだ。城壁の上に等間隔で並べられた投石機や大型弩砲。それらによる連続斉射は、雨の如く降り注いで魔獣達を蹂躙した。この戦況を変えようと、そろそろ敵が何か仕掛けてくる頃合いだと思っていたところだ。
城壁の将兵達は、遠方の空を飛翔する数十の魔族を視認する。
一時、兵達は騒然となった。空を飛んで急速接近する魔族の軍団を見れば、新兵らが動揺するのも当然といえる。
狙いすましたように、ティミドゥス公の哄笑が響いた。
「馬鹿正直に正面からやって来るとは! 魔族が愚鈍であるとはまことらしいな!」
彼は城壁の最も高いところでふんぞり返っていた。豪奢な鎧が、公爵に威厳漂う君主の風格を与えている。
「何の策も講じず前に出てくるとは、なんと愚かな連中だ! お望み通り撃ち落としてやれい!」
ソーンは思わず口角を吊り上げた。
ティミドゥス公はこの優勢に慢心している。それでいい。総大将が怯えていては兵隊の士気にも関わる。
さらに言えば、ティミドゥス公の発言は紛れもない事実であった。どれだけ力があろうとも、頭を使わない者など恐るるに足らず。
「若。油断は禁物ですぞ」
ジークヴァルドの言葉に、ソーンは頬を引き締めて頷く。
「わかっているよ。よし……メイホーン」
「ここに」
ソーンのすぐ後ろで、メイホーンが敬礼をとった。
「術士隊の出番だ。手筈通り頼む」
「御意」
メイホーン率いる術士隊は総勢三百を超える。皆が一流の術士達だ。その中から選抜された数十の精鋭達が、兵器の間に配置された。
「対空魔法、用意」
メイホーンを中央として並び立った術士達の足下に、ルーン文字で刻まれた複雑な魔法陣が浮かび上がる。輝くルーン文字の色合いは様々で、あたかも虹のように城壁を飾った。
魔族達はみるみるうちにデルニエールに接近してくる。メイホーンの青い瞳は、敵が対空魔法の射程内に入る瞬間を見逃さない。
「撃て」
魔法陣が一際強い輝きを放つ。対空魔法は絶妙のタイミングで射出された。
色とりどりの光芒が空に伸び、別々の魔族に向かってそれぞれの軌道を描く様は、幼子が好き勝手に筆を動かした絵画のようにも見えた。
迫りくる対空魔法に対し、魔族は空中で急速旋回を行い華麗に回避する。
直後、魔族の至近で光芒が次々と爆散した。魔力によって形成された破壊のエネルギーが爆炎となって魔族を呑み込む。数十の爆発が空を満たし、膨れ上がった黒煙が日光さえも遮った。
「おぉ、凄まじい威力だな! 流石は我が術士隊! 魔族など話にもならぬ!」
ティミディス公が大いに称賛すると、周囲の兵達も同様に声を上げた。
「弩砲隊!」
緩んだ空気を一喝したのは、ジークヴァルドの鋭い発声。
大型弩砲を操る兵達は思い出したように動き出し、黒煙に向けて照準を定める。
「放て!」
引き絞られた弦が、分厚い音を立てて巨大な太矢を射出する。風を斬り裂き黒煙に潜り込んだ無数の太矢こそ、魔族を仕留める本命の一手である。
対空魔法はあくまで牽制。目くらましに過ぎない。致命的なダメージを期待できる弩砲を命中させるための布石だ。
「どうだ……?」
ソーンは黒煙を見つめる。胴体を撃ち抜かれて落下していく一人の魔族を捉え、舌打ちを漏らした。仕留められたのはたった一人だけ。
「効果が薄い」
濃い弾幕を張ったつもりだったが、敵もそう甘くはないらしい。城壁に肉薄される前に出来るだけ数を減らしておきたかったというのに。
「ここからが本番だ! 各々、奮闘せよ!」
ソーンに代わり、ジークヴァルドが軍を鼓舞する。それに呼応して、兵達も鬨の声をあげた。
デルニエール側の士気は高い。彼らには守るべき故郷と家族があるからだ。
「若。重騎兵隊、出撃してもよろしいか」
「許可する。地上は任せるよ。あの有象無象を蹴散らしてくれ」
「必ずや」
言うや否や、老将軍はこの場の指揮を副官に引き継ぎ、勇み足で城壁を去る。
「メイホーン」
「はっ」
「奴らにはどう対処する?」
間もなく魔族は城壁上空に到達するだろう。飛行する者にとって、高い城壁は障害にならない。地上の獣とは異なる対策が必要だ。
「予定通り、真正面から迎え撃ちます」
「なんだって?」
メイホーンの強い言葉に、ソーンは些か驚いた。
「想定より敵を減らせていないんだよ?」
「多少の狂いで作戦を変更しては兵に要らぬ誤解を与えます。士気の維持を優先させた方がよろしいかと」
「……なるほど。一理あるね」
効果的な策ばかりを考えて、頭でっかちになっていたかもしれない。戦において何より大切なのは士気の高さである。士気旺盛であればこそ、作戦の遂行も上手くいくというものだ。
「わかった。なら予定通り術士隊は飛空戦を展開しよう。弩砲の一部を支援に回す」
「感謝します、若。ですが支援は無用。弩砲は地上の支援にお使いください」
メイホーンは、率いる隊に絶対の自信を持っているようだった。彼の言葉と表情には並々ならぬ自負が見て取れる。
ソーンはじっとメイホーンを見つめる。彼が抱いているのは自信か。それとも慢心か。
おそらく半々といったところ。それを正確に見抜いたソーンは、しかしメイホーンの進言を受け入れた。彼は優秀だ。ならば思う存分その力を発揮できるよう後押しするのが指揮官の務めだろう。
「よし。デルニエール術士隊の晴れ舞台だ。その雄姿、しかと僕に見せてくれ」
「御意!」
メイホーンはローブを翻し、歯を剥き出しにして力強い笑みを浮かべた。
「これより術士隊は飛空戦に移行する! 全員私に続け! 遅れるなよ!」
ルーン文字を纏い勢いよく上昇したメイホーンを追って、三百人の術士隊が一斉に飛び立った。
彼らは六十個の五人編隊となり、矢じり型の隊形を作りながら高度を上げる。ルーン文字の輝きを引いて飛翔する術士隊は、まさに空に虹を描くが如く。
空を飛ぶことは長らく魔族の専売特許であった。彼らが強者である所以の一つに、この飛空魔法の存在がある。人間は対空魔法を開発したが、その有用性は見ての通りだ。
王国の術士達はこぞって飛空魔法の研究開発に勤しんだが、ついぞ魔族の侵攻には間に合わなかった。それをつい数日前に、デルニエール術士隊が完成させたのだ。すべてはソーンの支援と、メイホーン含む新進気鋭の術士達の不眠不休の研鑽あってこその成果であった。
「この戦いは王国史に残る。人間が初めて飛空魔法を実戦投入した記念日としてね」
上空を舞う術士達を見上げ、ソーンは感慨深げに呟いた。
旧式兵器や飛空魔法だけではない。彼が用意した手札はまだまだある。
事前の準備が、戦いの八割を決める。
その持論を、今証明する時だ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!