灰の乙女への拝謁は、煩雑な手続きと儀礼的作法が絡み合う。
これは宮廷と神殿の利権が折り重なり、互いに牽制し合った末の妥協点だが、今回に限ってはその全てが省略されていた。
異例のスピードで乙女への拝謁にこぎつけた主な理由として、リーティアが持つ宮廷と神殿への影響力と、白将軍クディカの口添え、なにより国王カイン三世の勅令が下されたことが挙げられる。
乙女がいるという神殿に辿り着いた時、その佇まいにカイトはしばし呆然とした。
「なんか、思ってたより……こじんまりとしてるんだな」
言葉を選びながら感想を口にする。
城壁に囲まれた王の宮廷。その最奥、緑豊かな庭園のど真ん中に、灰の乙女の神殿はあった。
神殿というからには巨大な城や教会のようなものをイメージしていたが、実際の大きさは現代日本における平均的な一軒家とそう変わらない。大理石とは似て非なる純白の石材を建材とし、簡素で洗練された装飾が施されている。外周は塀で覆われているが、敵の襲撃を防ぐにはあまりにも心もとないものだった。
雰囲気的には古代ギリシャ建築みたいだなと、カイトは勝手な連想をする。
「私がご案内できるのはここまでです。カイトさん、心の準備はよろしいですか?」
同行してくれたのは、リーティアとクディカ、そしてヘイス。この中で乙女への拝謁を許されているのは、カイトただ一人であった。
「まさか、お前が乙女にお会いするとはな。出会った時には想像もしなかった」
カイトの複雑な表情を見たクディカが、感慨深げに呟いた。彼女は運命の数奇を実感しているのだ。
「私達はここで待っています。まずはマナ中毒を克服できるよう、乙女にお願いするのですよ」
リーティアの安心させるような声に、カイトは首肯で答えた。
「カイト様、ふぁいとですっ」
「ありがとな。けど別に戦うわけじゃないぞ」
ヘイスの健気な励ましに思わず笑みが零れる。
「それじゃ、行ってきます」
カイトは覚悟を決め、門をくぐる。
神殿に近づくと、目の前の壁が音もなく薄まり、人一人が通れるほどの四角い穴が生まれた。
なるほど。扉がないと思っていたが、こういう仕組みだったのか。
「よし」
迷うことはない。カイトは躊躇いなく神殿へ足を踏み入れる。
直後、視界が暗転した。
「ようこそ。灰の神殿へ」
透き通るような声。幼さを感じさせながらもどこか厳かな響きは、人の声とは思えないほどに心地よい。
聞き間違うはずがない。彼女の声だ。
暗かった視界に明るさが生まれる。目に映った少女の姿に、カイトはやはり息を呑んだ。
神殿の奥。彫刻に彩られた祭壇に立つ少女。花嫁にも見紛う純白の法衣を身に纏い、小さな頭の上には金の冠が載っている。
「やっと会えたな」
たった一言。その中には、あらゆる感情がないまぜになっていた。
自分は今どんな目をしているのか。どんな顔をしているのか。
「近くに」
乙女が口を開く。相変わらずの平坦な声だ。
足が、乙女の方へ動き出す。
「ネキュレー」
何の疑問も持たず、彼女の名を呼んでいた。
「カイト」
深い闇色の瞳。無機質に思えたその目に、確かな感情の揺らぎが見て取れる。
「恨み言の一つや二つ、考えてたはずなんだけどな。なんかもう、どうでもよくなっちまった」
正直、彼女を目の前にしたら激昂する自信があった。こんな世界に連れてきやがって。酷い目に遭わせやがって。鬱屈した恨みが、カイトの中で淀んでいたからだ。
いざ彼女を目にすると、そんな思いはどこかへ消えてしまった。
否。心の奥底から込み上げてくる何かが、負の感情を押し流したのだ。
「……そう」
いつか聞いた無関心な相槌じゃない。
ネキュレーがカイトを見る目は、あの時とは明らかに違う。なんというか、妙に熱がこもっているような気がした。
「俺、これがないとマナ中毒ってのになるみたいでさ。そいつをどうにかして欲しくて、ここまで来た」
ネキュレーは視線を動かし、カイトの胸元を見た。
「耐魔のタリスマン。どこでそれを?」
「リーティアっていう人に貰った。知ってるか?」
返事はない。
ネキュレーは緩慢な動作で祭壇を下り、カイトの目の前に歩み寄る。
「見せて」
タリスマンを手に取ってじっと観察する彼女に、カイトは不覚にもどぎまぎしてしまった。人の身をとって生まれてきたらしいが、やはり神々しいまでの美貌は隠せるものではない。カイトの好みど真ん中だし、髪からはいい匂いがするしで、眩暈がしそうだった。
「加護が尽きかけている」
言いながら、ネキュレーはタリスマンを両手で包み込んだ。
「ああ。明日か明後日には効果がなくなるって聞いたんだけど、それってマジ?」
「マジ。間に合ってよかった」
小さな手の中でマナの光が明滅している。柔らかな翡翠の輝きには見覚えがあった。
「これで大丈夫」
「え! もう終わったのか?」
「おわった」
上目遣いのネキュレーはほとんど無表情である。それでもどこか誇らしげに見えるのは、カイトの錯覚なのだろうか。
「なんか……意外とあっさり解決したな」
この世界で生きていくにあたり、最大の課題がマナ中毒の克服であった。それがこうも簡単に達成できたのは、拍子抜けもいいところだ。
「解決してない」
しかしながら、ネキュレーはゆっくりと首を振る。
「これは問題の先延ばし。あなたにとってマナが猛毒なことに変わりはない」
「そりゃあ……うん、まぁ。そっか。やっぱそんなもんだよな」
「何かの拍子に落としたり、失くしたり、戦いで壊されたりしたら……マナは容赦なくあなたを殺す」
「怖い言い方するなよ。ちゃんとわかってるって」
いささかの落胆はあったが、戸惑いや文句はなかった。ひとまず余命を伸ばせただけでも万々歳。感謝して然るべきだろう。
ただ不思議なのは、灰の乙女ならカイトの体質を根本から改善できるとのリーティアの推測が外れたことだ。ネキュレーの力を過大評価していたか、あるいはカイトの抱える問題が想像以上に厄介であったか。
「俺の体質は改善できないのか?」
「ほぼ不可能。そもそもあなたに問題はない。改善しなければならないのはマナの方。長い年月で、たくさんの不純物が混ざってしまった」
「不純物……」
灰の巡礼が滞れば、世界にマナの淀みが生まれると聞いた。カイトのマナ中毒はそれが原因なのかもしれない。ならば、カイトが真に安心して生きるためには、灰の巡礼を再開させねばならぬということか。
「キミは、好きにすればいいって言ったよな。転生に目的はないって。それってさ、何の為に召喚されたとか、何の為に生きるのかとか、そういうのを自分で決めなくちゃいけないってことなのか?」
ネキュレーは答えない。ただ、カイトの目をじっと見つめていた。
「そうだよな。これを聞いたら意味ないか」
「すべてあなた次第」
彼女が放った一言は、間違いなく最大の激励だった。
自分の人生は自分で決める。環境や境遇ではない。重要なのは、目の前の問題とどう向き合い、どこまで真剣に立ち向かえるか。
すべて自分次第。今のカイトなら、その本質を理解できる。
苦しみ、悩み、耐え、戦ってこそ拓ける道があるのだと、身をもって証明したのだから。
「俺は、魔王を倒すよ」
女神を害し、人々を傷つけ、世界の調和を乱す存在。そんなものを、放っておくわけにはいかない。
「誰かの為に戦うって、妹と約束したしな」
魔王を打ち倒し、この国を救うことが、亡き妹への手向けにもなるはずだ。
「そう」
ネキュレーは俯く。
しばらく、閉ざされた神殿が無言で満たされた。
窓も扉もない。外界と隔絶されたこの場所に、彼女はずっと一人ぼっちだったのだろうか。
「ところでさ、どうしてこんなところに? もっと他に、例えば街とか城で暮らすっていうのもアリなんじゃ」
魔族から守るためなら、別にこんなところでなくてもいい。安全な場所くらい王都にはいくらでもあるだろうに。
「へいき」
何か事情があるのか、ネキュレーは俯いたままそう漏らした。
ここにきて、カイトは妙な胸騒ぎを覚える。
目の前の小さな少女は、神と呼ぶにはあまりにも儚げに思えた。このまま消えてしまうのではないか。ここからいなくなってしまうのではないか。
わからない。心が軋む。彼女と会えて嬉しいはずなのに、どうしようもない悲哀が湧き水のように溢れてくる。
この感情はなんだ。本当に自分のものなのか。
想いのままに、カイトはネキュレーを抱きしめた。
「カイト」
抵抗はない。身を委ねてくる彼女を一層強く抱きしめる。
少しでも、胸の痛みを癒そうと。
「何か事情があるなら言ってくれ」
もし彼女が苦しんでいるのなら、助けになりたい。
一時は憎みもした相手にこんなことを想うのは不自然だろうか。いや、自然だろうが不自然だろうがこの気持ちは本物だ。意地を張るのは、自分に対して誠実じゃない。
「私は、あなたを導けない」
それは沈痛な、小さな叫びだった。
「あなたは、あなた自身の力で真実に辿りつかないといけない」
ネキュレーは、そっとカイトの胸を押す。
体を離すのは名残惜しく、しかしカイトは未練を見せなかった。
「わかった。今は、決めたことをやり遂げる」
魔王を倒せば、彼女もここから出られるはずだ。
そしてまた、使命の旅を始められる。
カイトとネキュレーは、互いの姿を目に焼き付けんばかりに、まっすぐに見つめ合った。
やがてカイトは、踵を返す。
やるべきことは決まった。これ以上ここに留まっては、せっかく定めた決意が揺らいでしまう。
「カイト」
背中にかけられた声に足を止める。
振り返るかどうか考えて、やはりカイトは振り返らない。
「待ってる」
心震わせる信頼の言葉だった。
ネキュレーからの贈り物。それは無限の勇気に他ならない。
背中越しに手を挙げ、カイトは神殿を去った。
この場所で誓った願いを、決して破らぬと心に決めて。
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