モルディック砦、陥落。
魔族の策によって砦の内外から攻撃を受けたメック・アデケー王国軍は、為す術もなく惨敗し、早々に砦を放棄して散り散りに敗走することを余儀なくされた。
「脱出できた者はどれだけいる!」
夜半。森に切り開かれた道路。鎧馬を駆るクディカが、副官のデュールに怒鳴りつけるが如く尋ねた。
「隊列を組めたのはおよそ三十! その他は各部隊長指揮の下、別々の方角に撤退しております!」
「分断されたか……!」
通信魔法で各隊との連絡は取れるものの、士気は底まで落ちている。辛うじて組織的な行動を維持できているのが救いだが、いま指示を飛ばしたところで正確に遂行されることはないだろう。
背後からの奇襲で後衛術士の大半を失ったのは極めて大きな痛手であった。後衛術士の支援があればこそ、人は魔族とまともに戦うことができる。背後を取られた時点で、すでに勝敗は決していたのだ。
「リーティア」
「はい」
隣で馬を走らせる幼馴染に、クディカは決意に満ちた目つきを向けた。
「お前は隊を率いてデルニエールまで駆け抜けろ」
もはや撤退以外に道はない。ならば、追撃を食い止める殿が必要だ。
敗北の責任は将軍のクディカにこそある。そう思う故に、彼女は自らその任を務めるつもりだった。
「クディカ」
リーティアの声には咎めるような、あるいは諫めるような心があった。
「そんな顔をするな。適当に相手をして切り上げるさ」
「念願の寿退役までは、死ねませんものね」
「おいっ。その話は忘れろと言っただろう」
酒の席でうっかり口にしてしまった似合わない憧れだ。
ばつの悪そうなクディカに、リーティアはくすりと笑みをこぼした。
「まずは恋人を作るところからですよ。生き延びてお相手を見つけてください。まぁ、これでまた武勇伝が増えてしまいますから、生半な殿方はどんどん離れてしまうでしょうけれど」
「ええいうるさいな。そう言うお前とて万年男日照りではないか」
「私は仕事が恋人ですからよいのです」
「言い訳とは見苦しいな。お前が高給取り過ぎて男共が引け目を感じていると専らの噂だぞ」
「うそ。誰がそんなこと」
全速力で馬を走らせながら言い合っているのは、端から見れば滑稽にも見える。周囲の兵士達は必死で撤退しながらも彼女達のやり取りに耳を澄まし、ある者は笑い、ある者は呆れ、またある者は憤然としていた。
ふと背後に気配を感じ、クディカが振り返る。夜更けの闇に紛れて、漆黒の獣が迫りつつあった。数は三。猫科の動物を彷彿とさせるしなやかな形状の魔獣だ。
「馬の脚に追いつくか……!」
急制動をかけ、反転。クディカは腰の剣を抜き放つ。
「デュール! リーティアをしかと守れよ!」
「はっ!」
握った剣が白光を纏い、クディカの鎧に浸透していく。
そして、煌めく刃を大上段に構えた。
「灰の乙女よ。我とわが剣に戦う力を与えたまえ!」
一閃。裂帛の気合。
振るった剣から撃ち出された眩いばかりの斬撃が、一頭の黒き豹を両断する。
強烈な魔力に反応し、残った二頭がクディカに顔を向けた。木々を蹴って縦横無尽に跳び回り、クディカの意識を撹乱せんとする。
速い。虚空に残像が映り、風切り音が反響する。
だがこの程度で敵を見失うようであれば、誇りある王国の将軍ではない。
僅かにタイミングをずらして飛びかかった漆黒の獣を、
「遅いッ!」
目にも留まらぬ十字の剣閃が斬り裂いた。
一寸の違いなく頸部を切り落とされ、魔獣はその活動を停止。直後、獣の骸は黒々とした粒子と乾いた灰に二分された。粒子は虚空へ、灰は大地へと溶け、間もなく消滅する。
剣を構え直し、クディカは周囲を警戒する。まさか追撃が三匹だけというわけではあるまい。
案の定、正面に無数の獣達が姿を現した。大きさも形も様々だが、全身黒塗りという部分は共通している。
獣達はクディカの間合いのすぐ外で足を止めた。威嚇だろうか。ギラギラとした真っ赤な目を点々と光らせている。
「やだ。パンティラスがやられちゃったの?」
遅れてやって来たのは、頭のない巨人と、その肩の上で優雅に脚を組むソーニャ・コワールだ。
「もー! まーた魔王様に言い訳しなきゃじゃない!」
ソーニャは憂鬱そうに柳眉を歪め、蝶の羽ばたきのような吐息を漏らした。
「貴様か。露出狂の変態女」
クディカの鋭利な剣尖と眼光が、ソーニャに向けられる。
「あら、あなただったの。偏屈女騎士さん」
髪に櫛を通しながら、ソーニャはクディカを見ようともしなかった。
相変わらずふざけた態度だ。だが実力は侮れない。少女のような容姿でもれっきとした魔王軍の将である。殿を務めると啖呵を切ったものの、一体どれほど耐えられるか。
「一人だなんて寂しいわねー。あ、わかった。あんまり無能なものだから、部下に見捨てられちゃったんでしょ」
「似たようなものだ」
「えーかわいそー。人望ないのね。剣を振るしか能がないくせに、調子に乗って将軍になんかなるから」
クディカの額に血管が浮いた。剣を握り締め、奥歯を噛み締める。
「よほど、死にたいようだな……!」
怒りの衝動に任せて、白光の剣を振り抜いた。飛翔した濃密な魔力は瞬く間に敵の戦列に着弾し、凄絶な光の爆発を生み出す。十数の魔獣が激しく宙に吹き飛び、まとめて消滅した。
「あはっ。怒らせちゃった」
爆心地の至近にいたソーニャと巨人は、魔力によって形成された球形の障壁に包まれ、悠然と無傷の姿を見せている。
クディカは眉を顰めた。これまで何度かやり合ったことがあるが、やはりソーニャは手強い。乗り物にしている巨人も一筋縄ではいかなさそうだ。加えて、従える獣は目算で三十は超えている。
どう考えても無謀だ。しかし退くわけにはいかない。指揮官としてより多くの部下を生かすためにも。
クディカは決意を胸に剣を構える。手綱を強く握り直すと、彼女の鎧が仄かな光に包まれた。
人の肉体は脆弱だ。彼女の纏う白い光は、弱い身体に強化を施す魔法の顕れであった。
クディカが大きく息を吸い込む。
「あ、そうそう」
突撃の出鼻を挫くように、ソーニャがぽんと両手を叩く。
「砦の地下にいた彼。逃がしておいたから」
「……なんだと?」
「ごめんねー勝手しちゃって。でもほら、悪い子じゃなさそーだったし」
にっこり笑ったソーニャに対し、クディカはお見通しといった風に鼻を鳴らした。
「やはり貴様らの送り込んだ間者だったか」
「んー?」
一瞬、ソーニャの顔がぽかんとして、すぐに妖しげな笑みを取り戻す。
「あぁー、そうそう。そういうことにしときましょっか。そっちの方が面白そう」
「間者を使って地下牢を掘り当てるとは。貴様達はついに己の信念を捨て去ったようだ」
クディカの剣に、再び光が灯る。
「我こそは七将軍が一騎! クディカ・イキシュ! 乙女より賜わりしこの剣に懸けて、断じて魔族の好きにはさせん!」
名乗り口上と共に白馬が嘶く。長い金髪を残光のようになびかせ、魔獣の群へと突撃した。
「はぁ。人間どもが勝手に作ったイメージなんて知ったこっちゃないけど、あたし達はあたし達できちんと考えて戦争やってるから」
接近するクディカを、ソーニャの紅い瞳がようやく捉えた。
「思い知らせてあげる」
ソーニャが細い腕を掲げるや否や、獣達は一斉に動き出す。
それは総指揮官が単騎で殿を務めるという、メック・アデケー王国にとって異例の撤退戦であった。
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