木々の隙間を縫って飛翔した火炎の砲弾が、闇色の巨人を正確に捉えた。
直撃。爆炎が拡がり、衝撃の余波が周囲の枝葉をなびかせる。
「ちょっとなに!」
この唐突な攻撃には、流石のソーニャも慌てふためいた。咄嗟に展開した魔法障壁が容易く貫かれたことも、彼女の平静さを欠く大きな要因となる。こんなことは彼女の長い人生において初めての経験だ。
砲弾が飛来した方向を向いたソーニャは、騎乗し杖を構える女性の姿を見た。
翡翠の髪と緋色の瞳。人間にしては特徴的な容姿のせいか、その顔と名は魔王軍にも広く浸透していた。
リーティア・フューディメイム。
「捉えました」
十数の騎兵を従えるリーティアは、身の丈ほどある杖で大地を打った。打点を中心に魔法陣が形成され、騎兵隊の足下を輝かせる。翡翠の光で描かれたのは、身体強化の効能を表すルーン文字だ。
直後、騎士と戦馬がほのかな翡翠の光を纏う。
「突撃です!」
鋭い号令。
途端、十数の騎兵が鬨の声を唸らせて疾駆する。蹄鉄が土を叩き、重低音が土埃を舞い上げた。
「あはっ」
ソーニャが相好を崩す。
「いいわいいわ! 面白くなってきたじゃない! わざわざこんな森に残った甲斐があったってもんよ! って……へ?」
その気になったソーニャであったが、巨人の反応がなくなっていることに気付いて目を丸くした。
先程リーティアが放った砲弾の仕業だ。大きく抉り取られた巨人の胴体。その断面から闇色の粒子と渇いた灰が零れていく。拳を振り上げた姿勢のまま、完全に活動を停止していた。
「ああっ。うそうそちょっとまって――」
バランスを崩して後ろに傾いた巨人から、慌てて跳び降りるソーニャ。
「デュール殿!」
「はっ!」
好機は逃さない。倒れ行く巨人に肉薄する騎兵が一騎。
一人隊列から突出したデュールは剣を抜き、巨人の手首を斬り落とす。
解放され宙に投げ出されたクディカを、デュールはしっかりと抱き留め、すぐさま反転。彼は早々に後方へと離脱した。
「今! 敵を包囲してください!」
リーティアの声に応え、騎兵達が各々の軌道で疾走する。魔法によって強化された戦馬はまるで神話に語られる天馬のように軽快だ。縦横無尽に駆け回り、やがてソーニャを何重にも囲むような渦の軌道が出来上がった。
「むー。ちょっと深追いしすぎちゃったかなー。魔王様になんて言い訳しようかしら」
塵となって消えていく巨人を眺めるソーニャ。その薄い唇から、蝶の羽ばたきのような溜息が漏れた。
「あーもー。つまんない」
完全に包囲されて尚、彼女は自分が負けるとは微塵も考えていなかった。頭に浮かぶのは主君である魔王の、良心に訴えかけるような哀しげな表情だけだ。
「ま、しょーがないか。予定通り砦は落としたし、ぱぱっと片付けて帰りましょ」
騎兵達はソーニャを取り囲む軌道を描き続けている。各々が武器を構え、いつでも攻撃に移れる状態だ。少し離れた位置にはリーティアがじっと控えている。
ソーニャが警戒しているのはリーティアただ一人。強化されているとはいえ、その他の雑兵など取るに足りない。ソーニャは完全に興ざめしていた。
一方リーティアの視界には、血だらけで息絶えた兵士や、辛うじて人間だったっと分かる亡骸が映り込んでいる。何故もっと早く駆けつけられなかったのか。沈痛な思いを隠し切れない。
尻もちをついて動けなくなっている若い兵士だけが、唯一の生存者のように見える。
しかしリーティアは、ソーニャの至近に何かを発見した。この国では珍しい黒い頭髪と、特徴的な意匠の着衣。
「あれは」
間違いない。例の少年。カイト・イセだ。
顔に被せられたハンカチが僅かに動いているのを見て、太めの眉がきつく寄った。
「そんな……あんな状態で、生きているというの?」
なんという生き地獄。惨たらしいにも程がある。
リーティアの感情が烈火のごとく燃え上がった。それは義憤というにはあまりにも苛烈な怒りである。
敵を討て。非道な行いを許すな。
そう叫びたい心を必死に抑えつける。
作戦の目的はあくまでクディカの救出。ソーニャを包囲したのは、救出したクディカを安全な場所に連れていくまでの時間を稼ぐためであり、決して討伐のためではない。そもそもソーニャを討つには絶望的に戦力が不足している。
ここは退くべきだ。兵を無駄死にさせるのは、指揮官として愚かな選択なのだから。
「弓! 撃ち方!」
号令とほぼ同時に、数名の弓兵達が騎射を開始する。
四方からショートボウによる連射を浴びせられたソーニャは、障壁の中であくびを押さえていた。飛来した矢の悉くは不可視の障壁に遮られ、地に突き刺さったりあらぬ方向へ飛んで行ったりしている。
すでにリーティアは動いていた。馬を走らせ、生き残りの若い兵士のもとに駆け付ける。
「乗りなさい。早く!」
兵士の腕を引っ張り上げるリーティア。だが兵士の腰は抜けており、思うように後ろに乗せられない。
「たすけて……たすけてください!」
「わかっています。ですから早く」
「違うんですっ!」
兵士の視線は、死にゆくカイトに向けられた。
「あの人を、たすけてください!」
明らかに冷静さを欠いた、懸命な懇願だった。落ち着いて確認すれば、彼がすでに処置の施しようもない状態だとわかるはずだ。
「ボクを助けてくれたんですっ。みんなを、助けようとしてくれたんですっ」
「あなた……」
脚に縋りついてくる兵士の頭に、リーティアは優しく手を置いた。
「私も同じ思いです。できることなら彼を救いたい。ですが肉体の損傷があそこまで激しくては、助かる見込みは――」
そこまで言って、彼女はふと一つの可能性に思い至った。顔を上げてカイトの方を見やると、彼の首にかかる耐魔のタリスマンが陽光を受けて煌めく。
「試す価値は、ありますね」
リーティアは心を定めると、強い眼差しを兵士に向けて頷いた。
「さあ、早く。彼を助けましょう」
「は、はいっ」
改めて兵士を引っ張り上げる。二人乗りになった馬を走らせて包囲網の一部に合流したところで、リーティアは並走する一人の騎兵に指示を投げかけた。
「作戦を一部変更します。私が合図をしたら、敵の近くに倒れている黒い服の男性を回収してください。その後は計画通り、速やかに離脱します」
「はっ……は?」
カイトの姿を目視して、騎兵は表情を驚かせた。
「回収とは、あの死体をですか?」
「まだ生きています。ですが猶予はありません。迅速にお願いします」
「了解。やってみます」
話している間も、射撃による牽制は続いている。矢はソーニャにかすりもしないが、足止めが目的なのだから問題はない。
「あのさー。いつまで続けるの、これ」
それはソーニャもわかっているようで、いい加減飽き飽きした様子だった。
「そろそろ終わりにしてほしいんだけど」
「言われずとも、そうします」
馬をソーニャの方へ急旋回させるリーティア。その杖に、攻撃魔法の発動を表す紅蓮の輝きが宿った。
「今!」
合図と共に放たれたのは、揺らめく火炎の砲弾。これが障壁を破るに十分な威力があることはすでに実証済みだ。
予想通り、ソーニャは回避行動に移った。とん、と軽く地を蹴り、全身のフリルをなびかせて宙を舞う。外れた砲弾は一本の木に命中し、爆炎を巻いて周囲の草木ごとなぎ倒していった。
「当たんないってー。そんな見え見えの攻撃」
頭を下にしてふわふわと宙に浮いたまま、ソーニャは溜息を吐く。
「さっきは不意打ちくらっちゃったけど、あなたの魔法はもうわかったから」
「ええ、そうでしょうとも!」
リーティアは追撃を放つ。連続で撃ち込んだ二発の炎弾は、吸い込まれるようにソーニャに迫り、直撃。轟音をたてて派手な爆発を巻き起こした。
「だーかーらー」
激しく拡がった爆炎の中から、ソーニャの呆れ声が響いた。
「無駄だって言ってるでしょーが」
爆炎を斬り裂いてリーティアへ飛来したのは、輝きのない漆黒の火炎。姿形こそリーティアの炎弾に似通っているが、その色彩は闇そのものであった。
咄嗟に杖をかざして魔法障壁を展開するリーティア。闇の炎を正面から受け止める。ソーニャの炎は爆発を伴わず、輪郭を揺らめかせながら障壁を破らんと進み続けようとする。リーティアの障壁が、破壊に耐えるように何度も閃いた。
魔力によって生み出される火炎。それは実際の炎ではなく、魔法術式によって生み出された破壊のエネルギーである。故に熱を持たず、水で消えることもない。マナによってもたらされた単純なエネルギーに、破壊という属性を与えた結果、炎の形をとって具現化しているのだ。
闇の炎とリーティアの障壁は互いに相殺し合い、マナの粒子となって霧散する。
「へぇ。やるじゃない」
ソーニャは素直に感心していた。先程の炎弾にしても今の障壁にしても、称賛に値する威力である。
魔族とは、魔力の扱いに長ける故にそう呼ばれる。その中でも将軍の地位にあるソーニャの炎を防いだ事実は、リーティアが人並外れた術士であることの証左であった。
「このあたしと張り合えるなんて。人間のくせにすごいわねーあなた」
ソーニャは、余裕の笑みでようやく大地に降り立った。
対するリーティアは、額に汗を浮かべて荒い息を吐いている。
「えー、もう限界なの? 前言撤回。拍子抜けね」
騎兵達の強化に、数発の炎弾。たったそれだけで魔力切れを起こすとは、惰弱に過ぎる。
「ほら、そんなぜーぜー言ってないで。もうちょっとくらい頑張れるでしょ?」
「残念ながら、ご期待には添えません」
リーティアは挑発には乗らない。彼女は聡明だ。これ以上の攻撃が無意味であると理解しており、目的を忘れる愚も犯さない。カイトを抱えて去っていく部下の背中を視界の端に捉えると、彼女はひとまず安堵し、そして大きく息を吸い込む。
「撤退!」
言うや否や、彼女は馬を転進させ、嘶きと共に駆け飛んだ。
「逃がすわけないっての!」
ソーニャの対応は速かった。リーティアの行動は読めていたし、攻撃魔法の発動準備もすでに終えていた。
だが、ソーニャとってはその先読みが仇となる。
撤退命令を受けたはずの騎兵達は、あろうことかその進路を一斉にソーニャに向けていた。
「へっ?」
四方八方から接近する十数の騎兵に、ソーニャは些か以上に虚を衝かれた。背を向けて逃げると思った敵が突撃してきたのだから、驚くのも無理はない。
騎兵達は各々の武器を振るい、瞬時にしてソーニャに肉薄、巧みな連携をもって攻撃を加える。
攻撃魔法を構築していた故に、障壁の展開は間に合わない。地を蹴って中空に逃れたソーニャだったが、待っていたとばかりに数発の矢が射かけられ、そのいくつかがドレスの裾やフリルを斬り裂いていった。
「あー! お気に入りなのに!」
頬を膨らませたソーニャは、眼下にきつい視線を落とす。
「もー許さないんだから」
構築した攻撃魔法の狙いを騎兵達に向ける。適当に放っても二、三人は消し飛ばせるだろう。彼女の顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
だが、その魔法が撃たれることはなかった。
唐突に空が翳り、ソーニャの直下に巨大な円形の影を落としたからだ。
「なにこれ?」
頭上を見やる。
そこにあるのは、視界を埋め尽くさんばかりの紅蓮の塊。
「うそ――」
避けられない。回避のタイミングはとうに失われている。
「え、ちょっ」
ここでソーニャはようやく悟る。
これがリーティアの狙いだったのだ。何度かの手加減した攻撃で油断させ、あたかもそれが限界であるかのように演じ、偽りの号令でソーニャを欺き、冷静さを奪ったところで本命の一撃を確定させる。
「退避ーッ!」
騎兵達は即座に転進、その場から撤退する。
落下する紅蓮を辛うじて受け止めたソーニャは、しかしその勢いを殺せず、大地に圧し潰されて身動きを失った。
刹那。
龍にも見紛うほどの壮絶な火柱が、天まで届かんばかりの勢いで立ち昇った。
すんでのところで逃れる騎兵達は、背後で消滅する一帯の様子に戦慄を禁じえない。
森の中、リーティアの細い腰にしがみ付く兵士は、轟々と燃え盛る火柱の苛烈さに圧倒されていた。
「上手くいって、よかった」
ほぼすべての魔力をつぎ込んだ乾坤一擲の大魔法。
いちかばちかの賭けに勝ったリーティアは、豊かな胸をほっと撫で下ろしていた。
「あの、フューディメイム卿」
若い兵士が、おずおずと口を開く。
「さっきの人、助かりますか……?」
ほとんど上の空のような一言だったが、その声には僅かな諦めの響きが混ざっていた。
リーティアは答えない。カイトの容体は、もってあと数分といったところだ。本来なら死んでいてもおかしくない状態である。まだ息があることは奇跡的といえるが、本人は地獄の苦しみの中にいるだろう。
「やっぱり……無理ですよね」
幼さの残る顔が、痛ましい表情に歪む。
「申し訳、ありません。ボクが余計なお願いをしたばかりに、皆さんにご迷惑を」
「気に病む必要はありません」
「でも」
「今後はこのようなことにならぬよう、ゆめゆめ精進なさい」
リーティアは淡々と言い切る。未熟な兵士への厳愛の言葉。
それは同時に、自らへの戒めでもあった。
「心配は無用です」
緋色の瞳に強き意志を宿して、彼女は馬を走らせる。
「救ってみせますとも。必ず」
リーティア率いる部隊はただ一騎の損害も出さず、将軍と兵士、そしてカイトの救出を達成したのだった。
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