薄暗い地下牢の中で、カイトは途方に暮れていた。
湿っぽく淀んだ空気のせいで、どんどん気が滅入ってくる。溜息が出るのもしょうがない。
「どうしてこんなことになったんだ」
時折見回りにやってくる看守の軽薄な視線がやけに腹立たしい。
「あーくそ。腐ってても仕方ないか」
せっかく異世界に来たんだ。この世界について色々と考えてみてもいいかもしれない。なんとか気を紛らわせようと無理矢理にでもそんなことを思う。
カイトは罅割れた天井を見上げ、硬い石の床に身体を投げ出した。
「さて」
どうやらクディカやリーティア達は、魔族と呼ばれる存在と戦争をしているらしい。ここは砦。つまりは、防衛戦の最中ということか。
マナや後衛術士など、滅多に聞かないのに聞き慣れたような単語もあった。この世界に魔法か、あるいはそれに準ずるものがある証拠だろう。
戦場でカイトを襲った身体の異変を、彼女達はマナ中毒と呼んでいた。マナとは人体に有害な物質なのかもしれない。
「魔族。魔法。マナ。馴染みはある。いいじゃないか」
ある程度考えが煮詰まってきたところで、カイトはふと胸に違和感を覚えた。シャツの襟元を開けると、今更ながら見慣れないペンダントがあることに気が付く。
はて、こんなものを身に着けていただろうか。
「耐魔のタリスマン」
カイトの疑問を察したかのように、穏やかな声が地下に響いた。
「あなたをマナ中毒から守ってくれます。いつどんな時でも、肌身離さず身に着けていてください。絶対に手放してはいけません」
カイトは体を起こして鉄格子の方を見やる。
翡翠の髪に臙脂の法衣。声の主は緋色の瞳を細めて、柔らかな微笑を湛えていた。
「えっと。たしか、リーティア、さん……だっけ」
彼女の手にはランタンのような物があり、十分な光源となっている。しかし灯っているのは火でも電気でもない。とても明るく、しかし眩しさを感じない。カイトが初めて目にする不思議な輝きであった。
「あら。名前を憶えて下さったのですね。嬉しいですわ」
「いや、まぁ」
一応、この世界のことを知ろうとアンテナを高くしていたのだ。会話に出てきた人物の名前くらいは憶えている。
「そんなことより。耐魔のタリスマンって、これのことですか?」
「ええ。それのことです」
カイトの問いに、リーティアは優しく頷いた。
ペンダントを手に取ってまじまじを観察してみる。光沢のある銀の台座にアーモンド大の石が三つ埋め込まれている。青、黄、赤の横並びは図らずも信号機を連想させた。
「マナ中毒っていうのは? 病気みたいなもんですか?」
身体が震えているのは、牢が肌寒いせいではないだろう。カイトは努めて平静を装って尋ねた。
「どちらかと言うと、毒を飲んだ時の状態に近いでしょうか。そのあたりも含めて、すこしお話しさせて下さい」
リーティアはゆっくりと、鉄格子際に置かれた丸椅子に腰を下ろす。ランタンを床に置き、空いた手を胸の高さまで持ち上げた。すると天井に向いた掌の上に、仄かに光るビー玉大の粒が現れる。
「これが、マナです」
現れた光は翡翠のような鮮やかな緑であり、リーティアの髪色によく似ていた。
「おお」
素直に感動した。幻想的な現象はCGで見慣れたと思っていたが、いざ本物を目の前にするとその感動は一味違う。
「魔法みたいだ」
「仰る通り。マナは我々が魔法を用いるのに不可欠なもの。大気中にあまねくマナは常に物質の内外を循環し、生物にとっては魔力の源となります。しかしながらいいことばかりではありません。マナが人体に有害な影響を及ぼす場合もあるのです」
「それがマナ中毒ですか?」
リーティアは頷く。
「人は誰しもマナへの抵抗力を持っています。今は分かりやすくマナ耐性とでも呼びましょうか。もちろん個人差はありますが、普段の生活で中毒になることはまずあり得ません」
そうは言っても、実際にカイトは中毒になった。
「あの場所のマナが特に濃かったとか?」
「確かに戦場ではマナ濃度が高くなる傾向にあります。けれど、普通の人間が影響を受けるほどではありません」
「普通の人間」
カイトの鼻息が一瞬だけ荒くなった。
「もしかして俺は、その普通ってのに入ってない?」
「カイトさん。落ち着いて聞いてください」
改まって、リーティアは真剣な表情で前置きする。
「あなたには魔力がありません。それはつまり、マナ耐性を持たないということ。強い弱いということではなく、耐性そのものがまったく存在しないのです」
何か重大な宣告を受けたような気がした。しかしながらカイトがその意味をすぐ理解するには、マナに関する知識と心の準備が甚だ不足していた。
というよりは、普通じゃないというその一点にしか興味がなかったのだ。
「特殊体質か。なんだかんだ言ってあるんじゃないか。そういうの」
女神様も人が悪い。人じゃなくて神が悪いと言うべきか。
「笑い事ではありません」
へらへらと笑うカイトを、リーティアが一喝する。
「マナに耐性がないということは、この世のありとあらゆるものが致死の猛毒であるのと同じなのです。タリスマンを失ったあなたは陸に打ち上げられた魚にも等しいでしょう」
リーティアの神妙な表情が、事の深刻さを物語っていた。
「いいですかカイトさん。あなたはマナ中毒で命を落としかけたのですよ? その意味をもっとよく、しっかりと考えてください」
どうして叱られているのか。
「そりゃまぁ、確かに死ぬほど苦しかったけど。こいつがあれば大丈夫って言ったじゃないですか」
ペンダントをいじってみる。命を繋ぐアイテムっていうのも、なんだかそれっぽくてかっこいい。ようやく異世界転移っぽくなってきた。顔に浮かんだニヤニヤが消えない。
剛毅か、あるいは愚鈍なのか。つい先刻感じた苦痛を、カイトはすっかり忘れていた。
ランタンの光が、リーティアの痛ましい表情を照らしている。
「カイトさん。言いにくいことですが……隠しても仕方のないことなので、お話しします」
「その言い方、なんか怖いな」
言いつつも、カイトの顔には未だ薄い笑みがあった。だがそれも、次にリーティアが発した言葉で凍りつく。
「そのタリスマンの加護はもって十日。短ければ一週間で、マナ中毒を退ける効力は失われてしまいます」
「……え?」
「率直に申し上げれば、それがあなたの余命なのです」
憂いのある、躊躇いのない声。
「えっと……冗談、ですよね?」
苦笑が漏れる。流石にそんなハードな展開は勘弁願いたい。
リーティアはゆっくりと首を振るだけで、気休めを口にしようとはしなかった。
「いやそんな」
自分が今どんな顔をしているのか、カイトにはわからない。だが、平静でないことだけははっきりしていた。
「死ぬったって……」
まさか異世界生活初日に余命を宣告されるとは思ってもみなかった。多少の苦労は覚悟していたけれど、こんな仕打ちは求めていない。
「事の重大さをわかって頂けましたか?」
リーティアの表情ははどこまでも真剣だ。嘘を言っているようには聞こえない。彼女の言う通り、カイトに残された時間は僅かなのだろう。
「いきなりそんなこと言われてもな」
実感が湧かない、というのが正直なところだ。
思えば、急に牢屋にぶちこまれて余命を宣告され、訳も分からず叱られている。どうしてこんな理不尽な扱いを受けなくてはならないのか。今更のように、カイトの中に沸々と怒りが込み上げてきた。
「どうか、危機感を持ってください。このままでは取り返しのつかないことになってしまうのですよ」
「だったらここから出してくれよ」
自分でも驚くほど刺々しい声が出た。自身の境遇に苛立ちを覚えるカイトは、リーティアの沈痛な面持ちの意味に思い至らない。
「私には、その権限がありません。ごめんなさい」
彼女は言い訳もせず頭を下げた。
何か文句を言ってやろうと考えていたカイトは、喉まで出かかっていた言葉をぐっと飲み込んだ。
ここでリーティアを責めるのは筋違いだ。それくらいはカイトにもわかる。
だが頭では理解できても、感情を納得させるのは難しい。
「近いうちに必ず解放させて頂きます。それまで、今しばらく辛抱をお願いできませんでしょうか?」
「嫌だって言っても出してくれないんだろ」
そう吐き捨てて、カイトはリーティアに背を向けた。
ふてくされているという自覚はある。けれど、そうする以外に心を守る方法を知らなかった。
「本当にごめんなさい」
リーティアはしばらくその場に留まっていたが、カイトが頑なにそっぽを向いたままでいると、立ち上がって腰を折った。
「また、来ます。あなたに乙女の加護のあらんことを」
小さな足音が遠ざかっていく。
突き放しておきながら、カイトはそれを寂しく感じていた。
なんと子供じみた、情けない振る舞いだろうか。
「くそっ!」
カイトは固い壁を叩く。冷たい石壁は、拳をじんじんと痛ませた。
聞きたいことはたくさんあった。異世界から召喚された人間を知っているかとか、この世界にあの女神の信仰はあるのかとか、マナ中毒を克服する方法があるのかとか。
頭の中にあったそれらの疑問全ては、いつのまにかどこかへ飛んで行ってしまった。
「ふざけやがって」
誰に対しての悪態か、自分にもわからない。
牢にぶち込んだクディカか。善人ぶったリーティアか。
こんな世界に送り込んだあの女神か。
それとも、無力な自身に対してか。
自らの焦燥を自覚して、カイトは力を抜いた。深呼吸を一つ。感情を整える。
「ま、いいさ」
主人公が惨めな目に遭うのは最初だけだ。少なくとも、カイトの知る物語にそれ以外の展開は存在しない。
「なんとかなるだろ」
楽天的な呟きは、自身への慰めに過ぎない。
首にかけられたタリスマンを握り締め、カイトは力なく床に倒れ込んだ。
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