その日の訓練を終える頃には、空に赤みが差していた。
今は束の間の休息。邸宅の風呂で熱い湯に身を浸している。広々とした石造りの大浴場は立ち上る湯気で満たされており、疲労困憊のカイトはぼうっと天井を仰いでいた。
長時間の立ち合い、走り込みによる疲れが全身の力を奪い去っている。ここまで疲れると、疲れたという言葉も出てこない。無気力な吐息だけがカイトの口から漏れていた。
「精魂尽き果てた、という感じだな。明日はさらに訓練の強度を上げるぞ。今はしっかりと休むといい」
「へい」
中肉中背のカイトに対し、デュールの肉体は筋骨隆々だ。浅黒い肌には多くの傷痕が刻まれ、幾多の修羅場をくぐってきたことを物語っている。
彼の鍛え上げられた肉体美を見て、いずれ自分もあのような逞しい体になれるのかと想像する。男として生まれた以上、カイトにも少なからず筋肉への憧れがあった。
「それにしても奇妙なものだな。そのタリスマンという代物は」
カイトの首にかけられたタリスマンをまじまじと見るデュール。
「マナ中毒を抑えるというが、一体どんな仕組みなんだ?」
「さぁ」
考えたこともなかった。異世界ならではの超自然的な魔法の力が云々ではないか。今のカイトにものを考える余力はなかった。
「まったく……だらしがない。疲れているのはわかるが、勇者として振る舞う努力を怠るな。今に君は、国中の注目を集める存在になるんだからな」
もっともだ。カイトに課せられた役目は、ただ魔王を倒すだけではなく、魔王に怯える人々に希望を与えることでもある。頼りなく情けない姿を晒すわけにはいかない。人に見られていない時こそ、勇者に相応しい立ち振る舞いを身に着けるべきだ。
といっても、流石に今は無理である。
「そろそろ僕は帰る。明日の日の出にまた来るから、しっかり体を休めておけ」
「あれ。デュールさんはここに住まないんでしたっけ」
「帰る家があるからな。妻と娘が待っている」
「ええ?」
ちょっとした驚きだった。クディカの副官であるということ以外、彼については何も知らなかったが、まさか妻子持ちだとは。
「なんかすみません。せっかく王都に帰ってこれたのに、俺に付き合ってもらって」
「気にすることはない」
それまで厳めしいだけだったデュールの表情が、ふと和らいだ。
「そもそも君に付き合わなければ、僕はまだデルニエールにいただろう。君には感謝しているくらいだ」
そう言ってもらえるとカイトの気も楽になる。他人の一家団欒を邪魔するのは流石に気が引ける。
「また明日な。溺れるなよ」
デュールは湯船から上がって浴場を出ていく。彼の背中はどことなく浮かれていて、家族に会えるのを心待ちにしているようだ。
一人になったカイトは、肩まで浸かった湯船の中で一段と大きな溜息を吐く。
家族か。
この世界に来てからこちら、頭の片隅にあっても考える余裕などなかった。いや、考えないようにしていた。亡くなったカイリばかり思い出したのも、元の世界に残してきた両親やもう一人の妹のことを考えるのが辛いからだ。
カイリに続き、カイトも死んだ。両親の悲しみを思うと、胸が締め付けられる。だがカイトにできることは何もない。異世界で生きているということを伝える手段もない。
だから、家族のことを考えるのはよそう。どれだけ彼らを想っても、もう遅いのだ。
割り切ったわけでも、開き直ったわけでもない。過去を戒めとして、これからこの世界を精一杯生きる。今のカイトにできるのはそれだけなのだから。
「よしっ」
頬を叩き、立ち上がる。体が悲鳴をあげてもかまうものか。これから魔王を倒そうというのに、疲労や筋肉痛に負けている場合ではない。
風呂から上がったカイトは、その足でリーティアの私室に向かった。
訓練後は、リーティアによる座学が待っている。この世界の知識を少しでも頭に叩き込まなければ、日常生活もままならないからだ。
「こんばんはカイトさん。時間どおりですね」
彼女はいつもの優しい微笑みでカイトを迎えた。
一人で使うには広すぎると感じる部屋だ。壁一面には本棚が並べられ、ぎっしりと分厚い書物が並んでいる。調度品も豊富に揃っており、ベッドとサイドテーブルしかないカイトの部屋とは大違いだ。
「お身体はいかがですか? さぞお疲れでしょう」
「なんのこれしき。大したことないですよ」
正直、立っているだけで膝が抜けそうだし、腕は上がらないし、ペンを掴むのさえ苦労しそうな状態だ。けれど、美人の前では格好をつける。それが男というものだろう。
「それはよかった。ですがご無理はなさらないでください」
すでに限界突破の様相を呈しているが、カイトはとりあえず頷いておいた。
「では、さっそく始めましょうか。あ、その前にお茶を淹れますね」
カイトの強がりなどお見通しのリーティアだが、それに言及するような野暮な真似はしない。てきぱきと紅茶を淹れる。見慣れない器具は魔法由来のものだろうか。紋章の刻まされた茶器に茶葉と水を入れると、十秒もしないうちに紅茶のいい香りが漂ってきた。
「すごいですね。それ」
「手づくりなんですよ。茶葉によって最適な温度にしてくれる自慢の品です」
コンロや電気ケトルを使うより早い。改めて魔法の便利さに感心させられる。
「それでは講義を始めますね。飲みながらで結構です。気になるところがあれば質問してください」
カイトはテーブルにつき、腕を震わせながら紅茶を口にする。うまい。
リーティアは満足げに微笑むと、一枚の紙を片手に講義を開始した。
「ではまず、ここメック・アデケー王国について――」
学ぶことは多い。この国の歴史や文化から、法律、制度、常識、人種や宗教に至るまで。マナと魔法に関する知識と、戦争の背景と現状も一取り押さえることとなった。
リーティアの講義は実に明快であった。要点を押さえ、冗長でない。時にユーモアを加え、難解な事柄は分かりやすいたとえ話をもって解説する。高校の授業に比べ、何百倍も楽しい講義だ。
地頭の悪くないカイトは砂が水を吸うように知識を吸収していった。ふとした疑問を口にすると、リーティアが納得できる答えをもたらしてくれる。その度に、カイトは深く頷いた。
反面、一抹の寂しさを覚えていた。知れば知るほど、元の世界とは無縁であることがわかる。郷愁の念も致し方ない。
「では、最後におさらいです」
約二時間の講義を終え、リーティアはまとめに入った。
「この国の通貨は?」
「ジール」
「では、この国の人口は?」
「およそ二千八百万です」
「この国の身分制度を答えなさい」
「高い順に、王族、貴族、騎士、学士、市民、穢れ人。この六つです。騎士と学士は同等で、準貴族とも呼ばれます。家名を名乗ることが許されるのも準貴族からです」
「次。魔力保有量と魔力耐性の関係、そして魔法から受ける影響について述べよ」
「原則、魔力保有量が多いほど魔力耐性が高く、攻撃魔法や治癒魔法の影響を受けにくい。また魔力保有量は男性より女性の方が高い傾向にある」
「よろしい。この大陸の種族を三分し、それぞれどの地域に勢力があるかを答えなさい」
「北の森林地帯には魔族。中央に人間のメック・アデケー王国。南部には獣人の部族連合がワイアットと呼ばれる連合国家を形成しています」
「はい、完璧ですね。ちなみに魔族に国という概念はありません。文明はありますが、個を重要視する彼らは血族以外の集団を作ることを良しとしませんでした。魔王軍というものができたのも、魔王が現れた一年前です」
「魔王が魔族を纏めたってことですか?」
「ええ。ですから魔王と名乗っているのでしょう。魔族が王を戴くのは、歴史上初めての出来事です。他種族が受けた衝撃は大きかった」
そこまで言うと、リーティアは乾いた喉を潤そうと、冷めた紅茶を口にした。
「今日はここまでにしましょう。根を詰めても忘れてしまったら意味がありません」
カイトは肩の力を抜く。楽しかったのは間違いないが、やはり何かを学ぶというのは神経を使う行為だ。我ながら居眠りしなかったのが信じられない。
「あ、そうだ。最後に二つだけ」
席を立とうとしたカイトの傍で、リーティアがぴんと二本指を立てた。
「この国における女性の結婚適齢期は?」
「えっと……十二歳から二十歳まで、でしたっけ? 若いですよね。俺のいた世界じゃ、そんな歳で結婚する人はほとんどいませんでしたよ」
「そうですか。ではこれで最後です。私の年齢は?」
カイトは首を捻る。彼女に年齢を教えてもらった記憶はない。憶測で口にして、外したら失礼な気もする。カイトは口を噤んだ。
そんな心中を察して、リーティアはくすりと笑う。
「十九です」
「じゅうく!」
思わず変な声が出てしまった。
「そんな驚くことかしら?」
「いえ……」
てっきりもっと年上だと思っていた。老けているとかそういうわけではなく、カイトが抱く十九歳女性のイメージと大きくかけ離れているからだ。落ち着きがあり大人びていて、優雅で気品ある物腰は同じ十代とは思えない。
「どうして急に年齢なんか」
「あら。わかりませんか?」
リーティアの形のいい眉が下がる。
「知らないより知っている方が、親しみがもてるでしょう?」
「まぁ、たしかに」
それにしてもなぜ結婚適齢期を尋ねられたのか。
変わらぬ微笑みのリーティアを前に、カイトは首を捻るばかりであった。
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