夜半。
月明かりが照らす平原を、颯爽と駆け抜ける一両の馬車。重なり合う重厚な蹄鉄の音が夜の闇へと溶けていく。
車輪の音は無い。四頭の馬に引かれる屋根付きの大きな車両は、地上数十センチでふわふわと浮遊しながら高速で飛行していた。
車内のカイトは、宙に浮かぶ車両が魔法の賜物であることを聞いて、サスペンションなんかよりもよほど便利で乗り心地が良いものだと感心していた。
ワンボックスカーほどの広さがある車内は、魔法の照明が焚かれ仄かに明るい。ゆったりとしたシートの上、カイトとヘイスが隣り合い、向かいにリーティアとクディカが腰を落ち着けている。車外の御者席ではデュールが手綱を握り、周囲には騎兵達が隊列を組んで護衛の任に就いていた。
「カイトさん、眠っていてもよいのですよ」
眼鏡の位置を直しながら言うリーティアに、カイトは愛想笑いで応えた。
「分かってはいるんですけど、なんか目が冴えちゃって」
ヘイスはカイトの肩に寄りかかって寝入っている。クディカは腕を組んで目を閉じ、静かに下を向いていた。寝ているわけではなく、負傷した体を休めているだけのようだ。
「それより、将軍は大丈夫なんですか? デルニエールにいた方がよかったんじゃ」
クディカの傷は昼に比べて幾分マシになっているが、それでもまだ休息が必要なのは間違いない。こんなところにいて治療に支障はないのだろうか。
「お前に心配されるほどヤワではない。兵卒の頃は同じような傷で戦場に出たこともあるのだぞ。これくらいの馬車旅、どうということはない」
目を閉じたまま得意げに答えたクディカに対し、リーティアが呆れたような視線を向けた。
「自慢するようなことですか。あの時無理をして死にかけたのはどこの誰です? 私が傍にいなければどうなっていたか」
「む。忘れたな、そんな昔のことは」
「今回だってそうです。運よく救出できたからよかったものの、一歩間違えれば今度こそ命を落としていたかもしれないのですよ」
「あーあー。わかっている。感謝しているとも」
「……もっと自分の身を大切にしてください」
「もういいだろう。他の者もいるのだ」
カイトは、会話をする二人を交互に見る。なんとなくこの二人の関係性がわかってきた気がする。猪突猛進型のクディカと、思慮深いリーティア。いいコンビだと思う。女性同士だが、熟年夫婦のような雰囲気がある。
カイトの視線に気付いたリーティアは、クスリと可愛らしく笑った。
「ぶっきらぼうに見えて、この子はこの子なりにカイトさんのことを気にかけています。わかってあげてくださいね」
「私とて責任を感じていないわけではない。それにだ。灰の乙女とお会いするには王のご承認を賜る必要がある。私がいた方が話が円滑に進むだろう」
カイト達の行先は、王都アルカ・パティーロ。デルニエールの十倍以上の規模を誇るメック・アデケー王国最大の都市である。
カイトがマナ中毒を克服するためには、マナの調律を司る灰の乙女に会うのが最も確実である。他の方法では先延ばしにすることはできても、根本的な解決に至らない。それがリーティアの結論であった。
「会えますかね。ヘイスが言うには、王族か偉い聖職者しか会えないって話でしたけど」
「平時ではそうですが、今は国家の存亡を賭けた一大事です。適当な事情をでっち上げて、特例の措置を取って頂ければよいのです」
「できるんですか? そんなこと」
少し意外だった。こうも堂々と主君を欺く旨の発言を、まさかリーティアの口から聞こうとは。
「かまいません。カイトさんを救うには他に方法がありませんから」
「問題は、国家の一大事とカイトをどう結び付けるか、だな」
この話にはクディカも乗り気なようだ。彼女こそ、将軍らしく王に固い忠誠を誓っていそうなものだが。
「いくつか案はありますが……どれも決定打には欠けますね。王に納得して頂くには、よほど強い説得力がありませんと」
車内に沈黙が生まれる。ヘイスの寝息を聞きながら、カイト達は各々それらしい理由を考えていた。
「新たなめざめの騎士が現れた、というのはどうだ」
「カイトさんがそうだと主張するのですか? それは流石に無理があるでしょう。年月の辻褄が合いませんし、そもそも証明できません」
「ううむ……いい考えだと思ったんだが」
「乙女に連なる存在であると謳うのはいい発想かもしれませんね。一国の王とはいえ、乙女の歴史全て把握しているわけではないでしょうし」
カイトは次第に不安になってきた。本当に王様を騙してもいいのだろうか。出来ることなら嘘は吐きたくない。リーティアもクディカも同じ思いのはずだ。自分のせいで彼女達に要らぬ嫌疑がかかるのは、なんとしても避けたかった。
「えっと、いいですか?」
カイトは遠慮がちに手を挙げる。
「何か妙案がおありですか?」
「案っていうわけじゃなくて。なんていうか。俺をこの世界に召喚したのは、たぶんその灰の乙女ってやつです」
「なんだと?」
声を漏らしたのはクディカだったが、驚いているのはリーティアも同様だった。
「この世界に来る前に、俺は灰の乙女に会ってます。なんか、行きたい世界を思い浮かべろとか、その世界で好きに生きろとか。そんなことを言われました」
「なんという」
クディカが天井を仰ぎ、額を押さえていた。
「お前もつくづくもったいぶる男だな。そういう大事なことは最初に話せ」
「すみません……」
異世界から来たという事実ばかり重要視していて、女神のことはすっかり頭から抜け落ちていた。この世界において彼女が重要人物として扱われているかもしれないと、もっと早く考えるべきだったのに。
「たぶんあの女神は、魔王を倒すために俺をこの世界に連れてきたんだと思います」
「ほう? それはまた随分と自惚れた考えだな。乙女がそのように仰ったわけではないのだろう?」
「自分の意思で決めろってことなんですよ。誰かに指示されたから戦う。そんなんじゃ勝てるはずもありませんから」
度重なる苦難の中で、カイトは自身の内に戦う理由を見出した。それこそが、あの女神が望んだことなのではないか。奇しくもカイトが勇者と呼ばれ、敵の親玉が魔王と名乗っている。単なる偶然かもしれない。けれど、カイトが何と戦うかを定めるには十分な理屈であった。
「知った風な口をきくじゃないか」
腕を組んだまま、クディカはふむと息を吐く。
「こう言ってはなんだが……乙女が遣わされたというにはお前はあまりにも頼りない。魔王に対抗するどころか、マナに負けて死にかけるような身なのだぞ」
彼女はあえて率直な言葉を用いた。今のカイトなど吹けば飛ぶような存在だ。魔王にとっては何の障害にもならない。彼の前に厳然と横たわる事実を、自覚してるのか否か。その如何によってクディカの取るべき対応も変わってくる。
カイトは膝の上で拳を握り締めた。自分が弱いことなど、文字通り死ぬほどわかっている。惰弱な体質に留まらず、戦う力もなければ知恵も知識もない。無力な凡人に過ぎない。
だからこそ、才ある者には想像もし得ぬ、強固な決意ができるのだ。彼の心情は顔に表れ、双眸に浮かび上がっていた。
「まぁ、なんだ。理解しているのならこれ以上は言わん。弱さを自覚することは、強さへの最初の一歩だからな」
クディカはカイトの目に相応の覚悟を見て取った。胸の奥底で抱いた彼に対する期待を表に出すことはなかったが。
「異世界から召喚された勇者。まるでおとぎ話のような聞き心地ですが、存外使えるかもしれませんね」
眼鏡を押さえたリーティアが、思案顔で呟いた。
「乙女は秘密主義です。決して多くを語らない。それこそ、王族ですら知らない真実、歴史、秘儀。そんなものはいくらでもあるでしょう。学ある者は、そんな人間の無知を重々承知です」
カイトは頷いた。確かにそうだ。あの女神は無口で不愛想。説明不足も甚だしい。彼女の十分な説明があったなら、この世界で味わった苦悩ももう少しマシなものになっていたかもしれない。
「リーティア。お前までもったいぶった言い方をするな。私も乙女を信仰してはいるが、神学にはあまり詳しくないのだ」
「端的に言うならば、言った者勝ちということです。たとえそれが作り話だとしても、乙女以外には否定のしようがない。権威ある神学者が言うなら尚のこと」
「ならばどうする?」
「クディカの案を採用しましょう。メック・アデケー王国、ひいては世界の危機を救う為、乙女は新たなめざめの騎士を異世界より召喚した、と」
「なるほど。確かにとんだおとぎ話だな」
事実の中に紛れ込んだ嘘を見抜くのは難しい。
リーティアは巧妙な手口で、灰の乙女に会う算段をつけていた。
めざめの騎士。灰の乙女が失ったという騎士のことだろう。特定の人物を指すのか。それとも灰の乙女に仕える者に与えられる称号なのか。
カイトの疑問が顔に書いてあったのか、リーティアが察したように微笑んだ。
「乙女の生まれ落ちる時――誓願の騎士、また目覚む」
語感よく唱えられた言葉は、カイトの耳に障りなく、あたかも溶け込むような響きであった。
「灰の預言書に記された一節です。めざめの騎士を象徴する有名な御文ですね。人の身を具して生まれる以上、乙女といえど老いや病からは逃れられない。故に彼女は悠久の輪廻を繰り返し、巡礼の旅にその身を捧げておられます。めざめの騎士とは、ただ一人彼女に付き従うことを許された騎士であり、終わることのない輪廻の中を生き続けるまことの英雄なのです」
急に話が難しくなった。カイトの頭上にはてなが浮かぶ。
「乙女と騎士は、何度も何度も生まれ変わっては一緒に旅を続けている。ということですよ」
「へぇ。なんかロマンチックですね」
「ええ、同感です。二人を題材にした物語は、古今東西で創作されています。いつの世も、人の心を惹きつけるものは同じなのですね」
元の世界でも、歴史上の偉人や架空の人物をモデルに様々な創作がなされている。神の実在が確定している世界といっても、物語が人の生活を豊かにするという本質的な部分は同じなのだろう。
柔和な面持ちのリーティアの隣で、クディカは険しい様相になっていた。
「しかし、めざめの騎士は五年前に魔族の手にかかり、乙女の旅は途絶えてしまった。この国でも各地にマナの淀みが発生し、生態系に大きな悪影響を及ぼしている。我々は何としても、魔王と魔族を討ち滅ぼさねばならん」
灰の乙女はマナの調律を司る。永きに渡り放置された地には、大気中のマナに不純物が混ざり、偏りが生じて淀みとなる。それは生命を蝕む毒となり、あらゆる生命体を変質させてしまうのだ。灰の巡礼の使命とは、マナの淀みを解消し、正常な環境を保つことに他ならない。
「巡礼が滞った今、世界は緩やかな破滅の一途を辿っている。もしお前が魔王を倒すほどの勇者であれば、陛下もお前をぞんざいには扱わんだろう」
「その為には、カイトさん。あなたの力を陛下の御前で示さなければなりませんね?」
リーティアの一言が、カイトの背筋を震わせた。
「力?」
動揺を隠せぬまま、思わず聞き返してしまう。
カイトに戦う力がないことはこの場にいる全員が分かっているはずだ。それなのに力を示せとは一体どういうことか。
クディカも同じ感想を抱いているようで、訝しげにリーティアを見つめていた。
「おい。こいつが強くなるのはこれからだと、ついさっき言ったばかりではないか」
「例えば、王都に着くまでにとてつもなく強くなることができればどうでしょう?」
「一晩でか? 現実的ではない」
「できると言ったら?」
眼鏡の奥の意味深な瞳が、困惑するカイトを映す。
これはカイトの私見だが、この世界の住人と比べてもリーティアはどこか異質な雰囲気を纏っている。具体的にどこがどう違うのかはわからない。容姿や言動によらず、あくまで感覚的なものだ。
故にカイトは彼女の婉曲な言い回しにも安心感を抱いていた。出会って間もないというのに、効果的な打開策を講じてくれるとの信頼があったのだ。
「私の考えが正しければ、カイトさんは英雄の資質、真の勇者の資質を備えている。それこそ武と勇を兼ね備え、たった一人で魔王と渡り合えるほどの」
「お前らしくもない。何を根拠に」
真の勇者の資質。その言葉はカイトの心を揺さぶった。胸の奥底から湧き水のように溢れた歓喜に、呼吸が二、三度荒くなる。
何故ここまで自分を評価してくれるのか。その理由には一つ心当たりがあった。
「もしかして、あの獣が俺に反応しないからですか?」
魔王の眷属は人間の魔力を敵性情報として反応する。魔力を持たないカイトからすれば非常に都合のいい性質だ。実際は眷属にも自己防衛機能があり、魔力を持たない存在を脅威とみなす場合もある。カイトに蹴り飛ばされた狼型の眷属が反撃を行ったのがわかりやすい実例だ。逆説的には、獣共は攻撃されるまでカイトを知覚できない。
たとえ魔王がどれほどの眷属を従えていたとしても、唯一カイトにとっては無にも等しいのだ。
「ああ、そういうことか」
クディカが得心したように手を叩く。
「なるほど魔王に一撃いれるには、うってつけの人材だな」
この時、カイトの中で自身の体質が持つ意味が変化した。
この世界から拒絶されていたとさえ思っていた惰弱な体質が、魔王を倒すための一手に繋がるのだ。
最弱かつ最強。相反する二つの属性が、カイトの中に共存していた。
「それだけではありませんよ」
リーティアは人差し指をぴんと立て、したり顔で言い加えた。
「カイトさんの秘めたる力はまだまだ底知れない。私はそこに目をつけているのです」
カイトもクディカも、もう口を挟まない。
ただ神妙に、リーティアの次の言葉を待つ。
束の間の無言。ヘイスの幼げな寝息がやけに大きく聞こえた。
「いいですか。よく聞いてください」
リーティアが口にした推測。それはカイトは更なる驚愕を与え、強烈な期待を抱かせることとなった。
夜は更けていく。
満天の星々。その隙間に蹄鉄の音が溶けていった。
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