その日は朝から奏と銀狐がいなかった。
いつもなら銀狐が起こしに来てくれるのだが、今朝は違った。
ドカドカと歩く音がして、部屋のドアが音をたてて勢いよく開いた。
「柚葉!朝だぞ。起きろ!」
大声で、金狐が言った。
「もう…何よ。うるさいな…」
目覚めたばかりで重い頭を抱えながら、ゆっくりと起き上がる。
「おっ!起きた!」
金狐は子供のように目を輝かせて嬉しそうに笑った。
「金狐…」
銀狐なら、もっと静かに起こしてくれるのに…。
「あれ?そういえば銀狐は…?」
「奏様と出かけた。だから、今日はオレが柚葉の護衛だ」
金狐はニコニコしながら言った。
「出かけたって、どこへ?」
「この前、退治した物の怪は式神だったんだ。式神なら主がいるはず。その主に繋がる手がかりを探しに行ったんだ」
「そうなの?でも、何で銀狐が一緒なの?」
「銀狐には探査能力があるんだ。妖力の痕跡を見つけて、主にたどり着くんだ」
「そんな能力があるの…。すごいね」
「式神だからな!」
金狐は自慢げに胸を張った。
銀狐のことを褒めたんだけど…。
柚葉は金狐の顔をじっと見つめる。
「なんだよ?」
「銀狐と顔が似てる。でも、銀狐の方が大人びた顔してる。兄弟?」
「よくわかったな。オレたちは双子だ」
「え…⁉うそ!」
似てるけど、双子という程じゃ…。
兄弟ならわかるけど。
「銀狐は老けて見えるからな。オレは若く見えるんだ」
金狐は得意げに言った。
「若く見えるって、何歳なの?」
「1300歳」
金狐は子供のような無邪気な笑顔で言った。
「…」
かなりの歳…。
なのに子供みたいって…。
大人げないってこと?
銀狐の方が年相応だったわ。
「どうした?」
「結構、長生きだね」
柚葉は笑って誤魔化した。
それから、柚葉は金狐を部屋から出し着替えを終えると、スクールバッグを持ってダイニングへ向かった。
ダイニングでは兄の玄弥と金狐が朝食を食べていた。
人間の朝食は目玉焼きとベーコンに野菜の付け合わせ野菜スープにトースト、式神の朝食は油揚げのカリカリ焼きだった。
細い短冊型に切ってカリカリに焼いた油揚げを金狐がパリポリと食べている。
玄弥は朝食を食べながらテレビを見ていた。
「あら、おはよう。柚葉。早く座って、今スープ持ってくから」
キッチンにいた母親が言った。
「うん」
柚葉はダイニングテーブルのいつもの自分の席に座った。
そこには、すでに目玉焼きが乗った皿とトーストの皿があった。
「おはよう」
玄弥が笑顔で言った。
「おはよう」
柚葉が言うと、母親がスープを持ってきた。
「はい。どうぞ」
ニッコリ笑って、スープを置くとキッチンに戻って行く。
そして、先に食器を洗い始める。
それを見送ると、柚葉は朝食を食べ始める。
向かい側の席にいる玄弥はテレビを見ている。
柚葉もつられるようにテレビを見た。
テレビでは、川辺で起きた溺死事故のニュースが流れていた。
「何?溺死?最近よく聞くような…」
トーストを食べながら柚葉が言った。
「暖かくなってきたからね」
玄弥はテレビの画面を見たまま言う。
「おっ!溺死のことなら、奏様も言ってたぞ!」
会話に金狐も加わってきた。
「この時期、水遊びして溺死する話って、ちらほらあるよね」
そう言うと、柚葉はスープをスプーンで口に運んだ。
「…朝からする話題じゃないな」
そう言うと、玄弥は食べ終わった食器を重ねた。
「境内の掃除でもしてくるか」
「あ、ごめん!」
いつもなら、朝食前に柚葉は境内の掃除をしていた。
しかし、最近はなぜか朝起きれなくなっていた。
それで、毎朝、銀狐が起こしにきていたのだ。
「いいよ。最近、物の怪につけ狙わられたせいで、疲れてるんだろう。無理するなよ」
そう言うと、玄弥は食器をキッチンまで持っていく。
「…」
どうしてだろう?
何で、起きれなくなったんだろう?
そんな疑問を抱えながら、柚葉は朝食を食べた。
朝食を終えて、数十分後、柚葉は学校への道を歩いていた。
隣には金狐がいた。
金髪に狐の耳、平安時代の狩衣姿、更に狐の尻尾。
目立ちすぎるし、現代では浮いて見える格好でしかない。
「他の人に見えなくて良かった」
「何がだ?」
「金狐の姿が誰にも見えなくて」
「それが、なんでいいんだ?」
「現実には、そんな姿の…というより、物の怪はいないと思われてるからよ」
「それって、何の力もなくて見えない奴らが思ってることだろ?」
「そうよ。でも、人間は自分の目には見えないものは信じないの」
「そんなの、おかしい。オレたちは、ちゃんと存在してる」
「そうだよね…。でも、いないことにされてる。もし、見えても怖がられるか、何かのイベントのスタッフだと思われるだけかも…」
柚葉はため息混じりに言う。
「昔は人間にも見えたんだ。でも、いつからかオレ達が見えなくなっていった…。なんか寂しい…」
「そうだね。いないことにされるって寂しいよね…」
「でも、柚葉のお母さんは恐がってないし、見えてる。信じてくれる」
「それは…家と神社の敷地なら天狐の結界があるから、お母さんには金狐が見えるし、ずっと、天狐がいたから慣れてるのよ」
「そうか…。でも、お母さんが信じてくれるならいいや。油揚げくれるから」
金狐は満面の笑みで言った。
完全にお母さんに餌付けされている。
お母さんって、物の怪の世話が得意なのかも…。
「そう。良かったね」
「うん。それに、もし神社の外で会って姿が見えなくても、わかるように合図を決めてあるんだ」
金狐は嬉しそうに言った。
「合図…?」
金狐は柚葉の肩を人差し指で三回つついた。
「これだ。いいだろ?」
金狐は得意げな満面の笑みで言った。
これで…1300歳?
子供みたい…。
「…うん?」
苦笑いをした。
「でも…いないことにされるって寂しいな」
ポツリという。
「え…」
柚葉が金狐を見ると、何事もなかったかのようにニッコリ笑っている。
「さあ、学校行こう」
そう言って、元気に歩き出す。
式神も寂しいって思うんだ。
人間と同じように心があるの…?
そもそも式神ってなんなんだろう?
あたし、何も知らない。
そう思いながら、柚葉は金狐の後ろ姿を見ていた。
早朝から出かけていた奏と銀狐は、とある公園にいた。
公園の砂場に人が倒れていた。
「奏様、あれです。あれから、管狐から感じ取った力と同じ質の霊力が感じられます」
「管狐の主のか…」
「はい」
それは人だが、陰陽師が絡んでいる以上人とは限らない。
人を装った式神を使った罠の可能性だってある。
「…妖力を感じない?」
「妙ですね」
奏と銀狐が砂場に近づいて、倒れている人をよく見てみた。
「これは…」
「人間ですね」
それはずぶ濡れになった人間の男の遺体だった。
どこかで溺れて水死体になったのだろう。
水を吸って、体はパンパンに浮腫んでいた。
「水死…」
奏は公園の中を見回した。
しかし、どこにも人間が溺れそうな池のようなものは見つからなかった。
「どうやって、こんな死に方を…」
「奏様。…服装からして、学生のようです」
「学生か…」
奏は、しゃがみ込む。
そして、男の服を調べ始めた。
ブレザーのジャケットの内ポケットに学生証が入っていた。
学生証には郁南高校二年生の栗田松明と書いていあった。
「郁南高校の二年生か…」
「学校は違いますが、柚葉様と同じ学年ですね」
「…そうなのか?」
奏は銀狐を見上げた。
「はい」
「そうか…」
奏は再び水死体を見る。
「俺は何も知らないな。柚葉のことを…」
「接点がないのですから、しかたありませんよ」
「そうだよな」
言いながら、寂しそうな目をする。
「…しかたないよな」
そう言いながらも、本心ではないようだった。
奏はジャケットの内ポケットに学生証を戻そうとした。
その瞬間、手首を水死体のはずの男に掴まれた。
「奏様!その男、鬼になってます」
男の目は赤く、頭には角が生え、口から牙が生えていた。
奏の腕を掴んだ手の指先の爪も刃物のように尖り、人を傷つける武器として十分な程の長さに伸びていた。
そして、その姿が完全に鬼になると、唸り始める。
「グルルルル」
鬼になった男の力は尋常ではなく、振りほどくことができなかった。
「油断した…。光狐!」
奏の目の前に光でできた狐が現れる。
「この鬼の手を焼け」
光狐は口を開けると、鬼の手に向かって光線を放った。
一瞬にして、鬼の手は燃え尽きた。
奏の腕にも多少の火傷が残ったが、燃え尽きる程ではない。
それは、奏が物の怪ではないため呪の力の影響を受けにくいからだった。
式神の術は、禍々しい力に操られる物の怪にこそ絶大な威力を発揮する退魔の術。
正反対の神聖な災厄を除く力〝呪〟を扱う者への影響は少なくなる。
しかし、力を感知できる者への影響がまったくないわけではない。
すぐに奏は鬼から離れた。
「我が月よ。出でよ」
銀狐が目の前に広げた手の平の上にスイカほどの大きさの月が現れる。
「光の刃をその身に受けよ」
銀狐が、そう言うと月から無数の光の刃が鬼に向かって放たれる。
その時には立ち上がっていた鬼は無数の光の刃を体に受けて、その傷口が火を噴いて煙を出し始める。
やがて、無数の傷から光が漏れ、内側から破裂するようにして吹き飛ぶ。
そこには鬼の体の破片さえ残らない。
「あ…申し訳ありません。奏様。つい、吹き飛ばしてしまいました。せっかくの手がかりが…」
銀狐はため息をつきながら、奏を見た。
「気にするな。手がかりならある」
奏は笑って、学生証を見せた。
「さすが、奏様」
「…にしても、人間の死体が鬼に変わるなんて」
「この人間を殺した陰陽師は、余程強い負の感情を持っているようですね」
「そうだな。強い負の感情こそが鬼そのもの。殺した相手にさえ、その禍々しい力は残り、鬼に変えてしまうことができる」
「何かへの恨みの念に満ちた陰陽師のようです」
「強い呪の力を感じる」
「はい。このままでは呪の犠牲者が絶えませんね」
「そう。このまま、殺し続ければ自分の負の感情に呑み込まれ、陰陽師自身もただではすまないだろうな」
「人ではなくなりますね」
「その前に止めないとな」
そう言った奏の眼差しは切なそうに見えた。
「そうですね。人ではなくなったら方法は一つ…」
そこまで言って、銀狐は言葉を詰まらせた。
これまで、何度も目にしてきた負の感情に呑み込まれた者達の末路を思い出しているのだろう。
その度に奏達は…。
「殺すしかない」
奏の瞳が哀しみに揺れる。
「おかしいよな。今まで何度も、そうしてきたのに…。まだ、胸が痛む」
苦しそうに奏は言った。
「同じ人間を殺すのですから、当然です。それに奏様はお優しい、そんなことに慣れることなんてできるはずがありません」
「それはいいことなのか…?陰陽師としては失格じゃないのか?」
「いいことなのではないでしょうか。陰陽師である前に奏様は人間です。人間である限り人の心を失ってはいけません。失えば鬼になってしまいますから」
「そうだな…」
奏は少しホッとしたように笑った。
その奏の腕の火傷はすでに跡形もなく消えていた。
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