平安の世。月夜の晩に、とある寂れた屋敷に一人の巫女の姿があった。
庭は長い間手入れされてなく雑草が生い茂り、建物も荒れ果てボロボロだった。
不気味に月明かりに照らし出された、その屋敷の敷地の中で巫女の姿だけが月の光に照らされ、美しく浮かび上がって見えた。
人のようで、人ではないような妖艶な美しさが、その巫女の姿にはあった。
「誰じゃ?」
屋敷の中から女の声がする。
「男を助けにきた」
巫女は凛とした声で言う。
「男…」
「その男の妻から頼まれた。夫が蛇の物の怪に囚われているから助けてほしい…と」
「妻…」
「男を愛していると、男がいなければ生きていけない…と、泣いて頼まれた」
「愛してる…」
その言葉の後に屋敷の中からガタガタと几帳が揺れる音がする。
「それ…は妾とて、同じ…」
「しかし、おまえは妻ではない」
「妾とて、愛してる。愛してる。愛してる…」
急に几帳が揺れる音が消える。
その次の瞬間、屋敷から大蛇が飛び出してくる。
「誰にも渡さぬ!」
大蛇は口を大きく開けて襲い掛かってくる。
巫女は大蛇に向けて、青白い光の塊を幾つか放つ。
青白い光が大蛇に当たると、その部分の大蛇の体が吹き飛ばされる。
「ううっ…!」
大蛇は痛みに体をうねらせ唸る。
「貴様…、人間ではないのか…?それは狐火…。妖力のない人間には扱えない術…」
大蛇は巫女を睨みつけて言う。
「誰かの大事なものを平気で奪うおまえには関係ない!」
冷めた眼差しの中には、触れらたくないものに触れられたことへの怒りが潜んでいる。
しかし、それを打ち消すように巫女は再び幾つもの狐火を大蛇に向けて放つ。
「うう…あああ…!」
体のあちこちが吹き飛ばされ、痛みに悶える大蛇は口を大きく開けて、巫女に向けて唾液を飛ばした。
大蛇の唾液は人間の体を溶かす。
巫女は、そのことを思い出す。
「しまった!油断した…」
避けるには間に合わない距離にいる。
このまま死ぬのか…。
早く仕留めればよかった…。
そう思った巫女の前に人影が現れる。
そして、巫女を庇うように抱きしめる。
「どうして…」
巫女は自分を抱きしめる人間の皮膚が肉が解ける匂いに気づき、震える声で言う。
「迷夢」
一瞬にして辺りが深い霧に包まれる。
「なんで庇ったの!」
巫女は自分を抱きしめる者に対して言う。
言葉とは裏腹に目に涙を溜めている。
「おまえを死なせたくなかった。俺の体なら、すぐに元に戻るからな」
「でも…痛みはあるじゃない?体が溶ける痛みは耐えがたいって聞く…」
巫女は涙をポロポロと流しながら言う。
「おまえを死なせる痛みに比べれば、これくらい…」
「バカ…!奏…」
巫女は奏に抱きついた。
「詩花…。ちょっと、待っ…!」
奏は痛みに顔を歪ませる。
「傷に詩花の腕が当たって痛い…」
「あ、…ごめん」
詩花は腕をのけると、腕が奏の傷から出た血で腕が濡れているのに気づく。
「こんなに血が出て…」
「すぐに治るから気にするな」
「う…ん。わかってる…」
詩花は涙でグシャグシャの顔で言う。
そして、迷霧の中に大蛇の心の中が映し出されていく。
そこは道端の草むらだった。
子供達が集まって、石を投げたり棒でつついたりしている。
そこに牛車が通りかかかり、子供達の前で止まる。
そして、貴族のお付きの者が牛車の前方にある簾を上げる。
そこから貴族の男が顔を出す。
「そこの子ら。何を騒いでおる?」
「蛇がいるのです」
「誰かに噛みつく前に殺してしまおうとしていました」
子供達はまるで英雄かのように胸を張って言う。
「その蛇は誰にも噛みついていないのだろう?」
「はい。でも、きっと人間に噛みつきます」
「そうとは限らないだろう。蛇だからと、何の罪もない命を奪ってはいけない」
「でも…」
男は牛車から降りると、蛇のいる草むらまで歩いていく。
そして、傷だらけで動けなくなっている蛇を見つける。
「このように小さな生き物の命を奪うなど…。人として、してはならない。人には心がある。心は弱い者を傷つけるものではなく、守るためのもの。おまえたちにも心はあるだろう?何かを大切に想う気持ちが…。命を奪えば、おまえたちの心は人ではなくなる。それでもよいのか?」
「人ではなくなるのですか?」
「そうだ。命を奪うのは人ではなく、鬼だ」
「鬼…」
「誰からも愛されず孤独に生きる嫌われ者だ。おまえたちも、そうなりたいか?」
「嫌です」
「それなら、やめなさい」
男は穏やかに言う。
「はい」
子供達は素直に答える。
「わかったら、家へお帰りなさい」
「はい」
返事をすると、子供達はいなくなる。
子供達がいなくなると、男は蛇を拾い上げる。
「この蛇を連れて帰り、手当する」
「しかし、その傷では…」
お付きの者が言う。
「よいではないか。人のくだらない恐怖心の犠牲になったのだ。最後ぐらい、誰かに看取られても…」
そう言うと男は蛇を大事そうに抱えて、牛車に乗る。
男の温かな手の中で蛇は、男の優しさに浸っていた。
なんて優しい人…。
優しくて愛しくて…。
ずっと、この人の傍にいたい。
でも、もう命が…。
哀しそうに蛇は息を引き取った。
大蛇は死ぬ前の小さな蛇の姿に戻っていた。
「それで、おまえは大蛇となり、男を連れ去ったのか?」
いつの間にか、小さな蛇の前に奏が立っていた。
「そうじゃ…」
「男に幻術をかけたのか?飲まず食わずで男は死んだのだろうな。おまえが連れ去らなければ男は死なずに済んだかもしれない」
奏が指さす方向に白骨化した男の遺体があった。
「妾が傍にいれれば、いいのじゃ。ただ、傍にいたかったのじゃ…」
「そのために男は死んだんだぞ。おまえを救った男を、おまえは死なせた。この男の命を奪ったのは、おまえだ」
「妾が…」
「そうだ。この姿が生きている男の姿か?温かな血の通った人といえるか?」
小さな蛇は男の温かな手の温もりを思い出す。
そして、すでに血の通わなくなった骨だけの男の姿を見る。
「あ…、ああ…。妾は…あの大切な手の温もりを自らの手で…」
男の骨を見て、涙をポタポタと落とす。
「あんなに温かくて…優しかった手を…」
「最後におまえに優しさをくれた男をこんなにして…。おまえは、それで幸せだったのか?」
奏は落ち着いた声で言う。
「幸せなはずがない…」
声を震わせながら言う。
「では、男を手放し天に返れ」
そう言うと、奏は屈みこみ小さな蛇を撫でる。
「そして、来世は幸せになれ。人の優しさがわかるおまえにはその価値がある」
包み込むような優しい声で奏は言う。
「妾に…」
小さな蛇はか細い声で言う。
「そうだ」
小さな蛇の表情が穏やかになったように見えた。
すると、小さな蛇は光に包まれた。
そして、光の塊となり、天に昇っていく。
「ありがとう」
最後にそう言うと、霧の先に見える闇夜に消えていった。
そして、辺りを覆っていた霧が一斉に晴れていく。
「可哀相な蛇だったんだね」
寂しそうな眼差しで詩花は言う。
「いや。幸せだったんだ。最後に誰かの優しさに触れられて」
奏が穏やかに言うと、詩花の表情が穏やかになる。
「そうだね」
詩花は笑顔で言う。
「ところで、詩花。なんで一人で行った?死ぬところだっただろ?」
「だって…」
詩花は奏から目を逸らす。
「いつも、奏に助けられてばかりで。あたし、何もできなくて…。足手まといで。自分一人の力で何とかできるようになりたかったんだ」
ばつが悪そうに、そっぽを向いたまま言う。
「そんなことで死んだらどうするんだ。足手まといでもいいし、何もできていなくてもいい。詩花が生きてさえいれば…」
「奏…」
詩花は奏の顔を見る。
奏は穏やかな顔で詩花を見ていた。
「ごめん…」
また、詩花は視線を逸らす。
「でも、どうしよう。死んだなんて、あの男の妻には言えない」
「本当のことを言えばいい。あの男が優しさから起こったことだと。それだけ、素晴らしい人間だったと」
奏は笑顔で言う。
「そう…だね。本当にその通り…」
詩花も笑顔になる。
「でも、なんで奏がいつも誰かを助けるのか、わかった気がする」
詩花は楽しそうに言う。
「そうか…」
「あの男の妻に泣いて頼まれた時、どうしても助けたいと思った。とても辛そうな顔を見ていたら、どうにかしてあげたくなった。奏も、そうなんでしょ?」
「そうだな…。苦しんでいる人を何もしないで見ているのは辛い。俺にできることがあるなら…て思うんだ。いつも…」
そう言う奏を見ていた詩花は嬉しそうに笑う。
「だと思った」
「なんで、嬉しそうなんだ?」
「だって、奏らしいと思って」
「俺らしいって…?」
「優しいってこと」
詩花は嬉しそうに言う。
「奏様」
金狐の言葉で奏は現実に引き戻される。
目の前に笑顔の金狐がいる。
「金狐か…」
眠りから覚めたかのような、ぼんやりした声で言う。
「奏様。どうした?ボーっとして」
「いや…詩花のことを思い出してたんだ」
「詩花のことを?」
「そうだ」
奏は懐かしそうに笑う。
「詩花との楽しい思い出を思い出していたのか?」
「そうだな…」
奏は笑顔で言う。
「詩花で純真で誰も疑うことがなかった。その純真さゆえに詩花は自ら命を投げ出してしまった。自分のためではなく、他人のために…」
奏は辛そうに目を細めると、うつむいて言う。
「でも、オレは、そんな詩花が好きだった。奏様は違うのか?」
「…」
奏はゆっくりと顔を上げる。
そして、嘘のない眼差しで言う。
「好きだったよ」
そして、寂しそうに笑う。
「でも、もういない。守りきれなかった。大切だったのに…」
少し苦しそうに言うと、無理に笑う。
「しょうがない。それは詩花の意志だったから。きっと、それで詩花は幸せだったはず。詩花なら、そう思うはずだ」
「そうだな…」
哀しみを含んだ眼差しで穏やかに言う。
「そうだよ」
金狐は笑顔で言う。
「金狐。俺は弱いな…。詩花を失ったことを未だに忘れることができない」
「忘れたら、詩花が可哀相だ。だから、忘れなくていいんだ。奏様は」
「可哀相…か。そうだな」
奏は穏やかな眼差しで言う。
「そいうところが奏様のいいところなんだ。だから、奏様は、そのままでいいんだ」
「そうか…。このままでいいか…」
奏は少し楽になったように笑う。
そして、金狐の頭を撫でる。
「ありがとな。金狐」
「当然だ。奏様はオレが唯一認めた人間の陰陽師だからな」
「それは、ありがたいな」
楽しそうに笑って言うと、金狐も一緒に笑う。
ずっと、こんな時間が続けばいい。
そう思えた。
その大切な時間を守るためにも今はオサキ狐と戦い、銀狐を救い出すしかない。
奏は深呼吸をする。
「じゃあ、行くか」
そう言って奏が顔を上げると、目の前にはオサキ狐のいる寺の門がある。
いつの間にか寺の前まで来ていて、そのことを伝えるために金狐は奏に声をかけていた。
「もう二度と後悔しないように…。銀狐を助けよう」
「御意」
金狐が笑顔で答えると、奏は寺の門に向かって歩き出す。
その後を金狐が着いて歩いていく。
奏と金狐が門をくぐると、その姿を物陰から見ている者がいた。
しばらくして、その者も門をくぐっていった。
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