金狐が式札に戻ってから一週間が経とうとしてた。
いつものように銀狐に起こされ、柚葉は朝食を食べていた。
すでに玄弥が朝食を終えた向かい側の席には銀狐が座って、油揚げを美味しそうに食べていた。
油揚げを口に入れる度に銀狐は、幸せ一杯の満面の笑みになる。
普段、落ち着いて大人びた印象のある銀狐からは、とても想像できない表情だった。
油揚げを口にいれた時の笑顔は子供のようだった。
さらに口の周りは油揚げの油で艶やかにテカっていた。
何だろう…。
このギャップって…。
しかも、食べ方が金狐と同じ。
式神って、みんな子供みたいなもの?
柚葉は朝食を食べる手を止めて、茫然と銀狐を見ていた。
「どうされました?柚葉様。早く食べないと、学校に遅刻しますよ」
「う…うん」
柚葉は朝食を食べ始める。
柚葉の隣に座っていた母親がため息をつく。
「金狐ちゃんは、いつになったら戻ってくるのかしら」
「傷が治れば式札から、元の姿になるはずです。そんなに心配しなくて大丈夫ですよ」
銀狐は穏やかに言った。
「そうよね」
母親は少し寂しそうに笑った。
「…なんか、いないと静かだよね」
柚葉は食べる手を止めて言った。
「…そうなのよね。いつの間にか家族になってたのよね。金狐ちゃんは」
懐かしそうに母親は笑った。
「いると、うるさいけど…いないと寂しいね。なんか…不思議」
柚葉は穏やかな表情で微笑む。
「もう、うちの家族だからよ」
優しい眼差しで母親は言った。
「金狐が、それを聞いたら喜びますよ」
銀狐がニッコリ笑って言った。
「そうね。早く帰って来ないかしら」
楽しそうに笑って、母親は言った。
それから、朝食を終えると柚葉と銀狐は家からでて境内を歩き学校へ向かう。
本殿から鳥居まで続く参道の近くに絵馬を奉納する場所があった。
神社に参拝した人々が、それぞれの願いを書いた絵馬を奉納していく場所だ。
そこには奏の姿があった。
絵馬の一つ一つを見つめていた。
「奏様」
銀狐が奏に声をかけた。
奏はゆっくりと振り返った。
「銀狐…と、柚葉」
そう言った奏は少し寂しそうに見えた。
「これから、柚葉様と学校に行ってきます」
「そうか。気をつけてな」
「奏は絵馬を見てたの?」
柚葉は不思議そうに言った。
というのも、日ごろの奏の様子を見る限り、世の中のほとんどのことに興味がないようで、ましてや絵馬に興味があるようには見えなかったからだ。
「そう。色んな願いが書いてあるなあ…て」
「絵馬に興味があるとは思わなかった」
「…興味はない。けど、金狐のことを考えてたら、なんとなく目がいって」
「金狐のこと…?」
「金狐の考えた合図がなかったら、柚葉の母親…莉世さんがさらわれることはなかった。そのことで金狐は自分を責めているんだ」
「合図なんてなくても、お母さんは物の怪が見えないから襲われてもおかしくないけど…」
「それでも自分のせいで危ない目に遭った莉世さんに会うことができなくて、式札のままでいる。もう、傷は癒えているのに」
「そうなの…?」
「どうしたらいいか考えてたら、絵馬に目がいって。何かヒントになれば…と思ったんだけど。そんなわけないか…」
奏は寂しそうに笑った。
奏と会って、初めて笑顔を見た気がする。
昔の記憶にある奏の笑顔とは違う。
その表情からは自分の式神…仲間である金狐を心配しているのがわかる。
「きっと、大丈夫よ。お母さんは金狐が好きだし、金狐もお母さんが好きだから。きっと、金狐はお母さんに会うために元の姿に戻ると思うから」
柚葉は奏を安心させるように笑顔で言った。
「…そうか」
「うん」
「じゃあ、莉世さんに金狐の式札でも渡してみるか…」
「そうね。それがいいかも」
柚葉は笑顔で言った。
「話きいてくれて、ありがとう。楽になったよ」
奏は温かい笑顔を柚葉に向けた。
本当に嬉しそうに笑ってる。
ずっと、感情が顔にでなくて冷たい感じがしてたけど…。
思った通り、本当は優しい…。
相手が人間じゃなくても…。
柚葉も思わず笑顔になる。
「あの柚葉様。遅刻しますよ」
それまで黙っていた銀狐が、そっと耳打ちする。
「え⁉うそ⁉」
「行きましょうか」
「うん!奏。じゃあね」
柚葉は元気に言うと走り出す。
「あ!柚葉様!」
言いながら、銀狐は奏に意味ありげな視線を送る。
いいんですか?柚葉様と距離を置かなくて。
銀狐の目はそう言っていた。
奏は現実に引き戻される。
「そうだったな。柚葉とは距離を置かないと…。柚葉を守るためにも…」
そう言った奏の瞳は寂しそうに揺れていた。
柚葉は鳥居のところまで来ると、振りかえり奏を探す。
奏は参道を本殿に向かって歩いている。
奏があんなに話したのを見たことがない。
少しは奏に近づけたかな。
柚葉は奏の後ろ姿を見ながら、ニッコリ笑う。
「柚葉様?」
鳥居の先まで歩いていた銀狐が不思議そうに言った。
「何でもない。行こう!」
そう言うと、銀狐に向かって走り出した。
莉世は朝食の片付けを終えて、リビングでテレビを見ながらお茶を飲みながら一息ついていた。
そこへ奏が入ってきた。
「あら、奏くん。どこに行ってたの?また、物の怪でも追いかけてたの?」
「気分転換に境内を散歩してきました」
「そう。朝の外の空気は澄んでるものね。気分転換にはいいわよね」
「莉世さん」
「はい?」
奏の改まった言い方に首をかしげる。
「その…莉世さんも物の怪に狙われるようになってきたから、外出する時は金狐に護衛させようと思って」
「そうなの。ありがとう」
莉世は穏やかな声で言った。
「それと…、金狐の傷はもう治ってる」
奏は戸惑い気味に言う。
「そう。良かった。私のせいで金狐ちゃんがケガをしたって聞いて心配してたのよ」
「式神のケガは人間のケガとは違って、大きな傷を負っても死ぬことはないから大丈夫」
「そうなの。でも、痛いでしょ?」
「それは、そうなんだけど…。それが式神の役割だから」
「そう。可哀相ね」
莉世は少し寂しそうに笑った。
「今から金狐を出すから、その言葉をそのまま伝えてくれないか?金狐は自分のせいで、莉世さんが襲われたと思ってる」
「金狐ちゃんが…?」
「だから、傷が治ってるのに式札から出てこないんだ」
「それって、金狐ちゃんが自分を責めてるってこと…?」
「そう」
莉世は考え込むように、うつむく。
「…わかったわ。金狐ちゃんを出して」
「ありがとう」
奏はホッとしたように笑う。
そして、奏は手の平から式札を出す。
式札には文字と金という文字と狐の絵が描いてある。
「金狐。出てこい」
しかし、式札から金狐に変わる様子はなかった。
「金狐」
奏の呼びかけに何の反応もない。
「出てこないつもりだな…」
「ねぇ、金狐ちゃん。私が物の怪に捕まったことなら気にしてないから、出てきなさい。金狐ちゃんがいなくなった日から、ずっと金狐ちゃんのことを心配してたのよ」
しかし、式札に変化はない。
「金狐ちゃん。出てきなさい。あなたは、もう、うちの大切な家族なの。何があってもお互いを受け入れる、それが大切な家族ってことなの」
そう言うと、莉世は穏やかに微笑んだ。
そして、ひと際優しい声で言う。
「だから、帰ってきなさい、あなたを大切に思ってる家族のもとに」
少し間が開いて、式札が光に変わり人の形に変わっていく。
そして、金狐の姿になる。
莉世の前に現れた金狐は涙ぐんでいた。
「お母さん…。ごめん…」
金狐は子供のように鼻をぐすぐすいわせながら泣いていた。
「金狐ちゃん」
莉世は金狐を包み込むように抱きしめた。
「本当に心配したんだから。でも、無事に帰ってきてよかった」
莉世は金狐の頭を撫でた。
「ごめん。お母さん。心配かけて」
涙でぐちゃぐちゃの顔で言った。
その様子を見ていた奏はホッとしたように笑うと、リビングから出て行く。
リビングから出ると、そこには玄弥がいた。
「やっと、金狐出てきたのか」
リビングを覗きながら玄弥は言った。
「そう、やっとな」
「まるで、親子だな。あの姿は…」
玄弥は微笑ましいものを見る眼差しで言った。
「式神は愛情を注いでくれる母親はいないからな。だからか、心は子供のままなんだ」
「そうなのか…。人間も変わらないよ。母親がいても、大人になっても、心の中は子供のまま。でも、無理に大人になる必要なんてないのかもな。金狐を見ていると、そう思うよ」
「無理に大人になる必要はないか…」
寂しそうに奏は言った。
「そうかもな」
そう呟くと奏は、その場から立ち去る。
そんな奏の後ろ姿を玄弥は見ていた。
その後ろ姿はあまりにも孤独で寂しそうで、つい手を差し伸べたくなる。
しかし、その姿は、その温かな手さえも拒絶しているように見えた。
宿敵玉藻前を倒すまでは弱味を見せられないと…。
部屋の時計は、もうすでに朝の7時を過ぎていた。
遮光のカーテンで窓の外からの光は遮られ、部屋の中は朝だというのに暗かった。
「ううっ…」
ベッドの中で、少年は苦しそうにもがいていた。
その瞳は微かに霞がかかっているように見える。
それは迷霧の術を心の内側に帯びている証拠だった。
目は虚ろで、何も見ていなかった。
その視線は心の内側に向かっていた。
心に映し出された光景に少年は苦しんでいた。
僕は操られていた。
だとしても、鳴珂を見殺しにしたことの言い訳にはならない。
もう、鳴珂は戻って来ないのだから。
少年は普通の人間には見えないものが見え、わからないことがわかった。
見えるのは物の怪というものだった。
陰陽師の力を受け継いでいるからこそのことだ。
少年は力のことを知られないように普通の人間から距離を置いていた。
それは誰にも頼らず、誰にも頼られず、孤独でしかなかった。
それでも、本当のことが知れ渡って、この世界の中での異物のように扱われるよりは楽だった。
その日も、お昼休み中に校庭を一人で歩いていた。
校庭の花壇の花を見ていると落ち着く。
人間を見ていると、表面では笑っていても、心では違うことを考えているのがわかる。
小学生の頃は、よかれと思って口には出せなくても困っている人間がわかると手助けをしていた。
しかし、口にはしなくても人の考えていることがわかることで、次第に気持ち悪がられていった。
それは幼い少年の心を深く傷つけた。
だからこそ、もう二度と傷つけられないように他人から距離を置くようになった。
校庭の花壇に咲き乱れる花を見ていると、心が癒される。
そこには何の悪意もなく、ただただ綺麗に咲いているだけだった。
目で癒され、心まで癒される。
その少年の視界に見たことのない生き物が現れた。
リスでもない、猫でもなくカワウソでもない姿の物の怪。
それは管狐だった。
少年は動けずにその管狐を凝視していた。
管狐のほとんどは人間に悪戯したり、襲ったり苦しめたりするものだった。
その時に備えて、目の前の管狐をいつでも祓えるように目を逸らさず、じっとその動きを見ていた。
その管狐は意外にも微かに震えていた。
恐がられている…?
そう思った瞬間、少年は穏やかに笑った。
「かわいい」
そう言って、少年は管狐の頭を撫でた。
管狐は少年の手にすり寄ってきた。
もう、その時には震えは止まっていた。
気に入られてる…?
さっきまで、震えていたのに…。
「どうしたの?…もしかして、僕の式神になりたいの…?」
管狐は嬉しそうに尻尾をふった。
「そうか。そうか」
そう言って、少年は手を差し伸べる。
「僕が主になってもいいなら、式神になってくれる?なってくれるなら、僕の手の平に乗って」
管狐は少年の手の平に乗った。
少年は手の平に乗った管狐に向かってニッコリ笑った。
「ありがとう。僕の式神になってくれて」
少年は嬉しそうに笑った。
こんなに誰かに必要とされたことはなかった。
誰かに必要とされるって、こんなに嬉しいんだな。
「鳴珂」
不意に少年がそう言った。
管狐は不思議そうに少年を見た。
「おまえを見ていたら思い出したんだ。昔、博物館で見た馬のくつわ飾りの名前。おまえの名前にしようと思う。この名前は嫌か…?」
じっと答えを待つ少年の手の平に顔をすりつける。
「そうか。鳴珂でいいのか」
少年は満面の笑みで言った。
「これから、よろしく。鳴珂」
僕の大切な式神、鳴珂。
僕を必要としてくれた。
ずっと、大切にしよう。
そう、誓ったのに…。
死なせてしまった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!