それは夕食が終わり、みんながリビングでまったりしている時間だった。
みんなでテレビを見ていた。
ふいに柚葉が立ち上がった。
そして、無言のままリビングから出て行った。
柚葉を追うように奏がリビングを出る。
その後を追うようにして銀狐と金狐がリビングを出て行く。
神社の境内まで来ると、柚葉は立ち止まった。
後ろから歩いてきていた奏も立ち止まる。
「おまえ、管狐か」
柚葉は、ゆっくりと振り返る。
その瞳は赤く光っていた。
「グルルルル…」
「夢を見せた相手は柚葉だったか…」
奏は、ため息をつく。
「奏様。管狐は退治したはずです。なぜ、柚葉様が操られているのでしょう?」
「妖力の一部を柚葉に残したんだろう。管狐を操る術者の力がそれだけ強いってことだ」
「とういうことは、柚葉様は管狐の妖力に取り憑かれているということですね」
「そうだ…」
「でも、どうやって結界の中に…。結界は家にも張ってあったはずです」
「管狐の本体じゃなく、微量の妖力だけ結界を通ったのかもしれない」
「手段が巧妙ですね」
「よく練られいる」
「で、どうします?」
「そりゃ、退治するしかないだろ」
それまで黙って聞いていた金狐が炎の剣を出す。
「まてまて。そんなもの使ったら柚葉が…」
「そうですよ。物の怪も見えない人間なら、それでなんともないでしょう。でも、柚葉様は物の怪が見える程の力ならあります。つまり、私たち式神や陰陽師の攻撃の影響を受けるかもしれないんですよ」
「そうだ。柚葉に何かあったら…」
「じゃあ、どうする?」
金狐がため息混じりに言った。
「迷霧を使う」
「霧に心を映し出して、妖力を奪う術ですね。それが妥当でしょう。柚葉様を傷つけずに助けるには…」
奏は片手で印を結ぶ。
「迷霧!」
辺りに少しずつ霧が立ち込める。
その霧は次第に方向がわからなくなる程深くなっていく。
そして、辺りが霧で見えなくなっていく。
霧に覆われ、次第に柚葉の赤い目から敵意が失われていく。
そして、震えながら屈みこむ。
柚葉に取り憑いた管狐は幻を見ていた。
とある少年が目の前にいる。
少年は陰陽師の神通力を持つ、管狐の主だった。
蔑むような眼差しで管狐を見下ろしている。
少し前までは、こんなではなかった。
とても優しくてい思いやりのある主だったのに…。
少年は孤独だった。
陰陽師の強い力ゆえに普通の人間には見えないものが見え、わからないことがわかった。
つまり、感覚が普通ではないのだ。
だからこそ、普通の人間とは距離を置いていた。
その日も、お昼休み中に校庭を一人で歩いていた。
校庭の花壇の花を見つめて、穏やかな眼差しになる優しい少年だった。
管狐は、そんな少年を気に入る。
ただ、物の怪である管狐を受けて入れくれるか、わからなかった。
最悪の場合、管狐は陰陽師の力を持つ少年によって退治されてしまうかもしれない。
それでも、前の主との約束を破ることはできない。
それが式神としての縛りだった。
花を見ていた少年の前にひょっこり、管狐が現れた。
少年は管狐を見て、動けなくなる。
それもそのはず、リスほどの大きさの顔は猫、体はカワウソの物の怪が目の前にいるのだから。
それは、リスでもない、猫でもなくカワウソでもない姿だった。
受け入れてもらえない。
管狐は、そう思った。
寂しそうな顔をした瞬間、少年は穏やかに笑った。
「かわいい」
そう言って、少年は管狐の頭を撫でた。
力を押さえて、小さな管狐の頭に負担をかけないように、そっと撫でてくれているのがわかる。
その優し手に触れられて管狐は胸が一杯になっていく。
管狐は少年の手にすり寄った。
「どうしたの?…もしかして、僕の式神になりたいの…?」
管狐は嬉しそうに尻尾をふった。
「そうか。そうか」
そう言って、少年は手を差し伸べる。
「僕が主になってもいいなら、式神になってくれる?なってくれるなら、僕の手の平に乗って」
管狐は少年の手の平に乗った。
少年は手の平に乗った管狐に向かってニッコリ笑った。
「ありがとう。僕の式神になってくれて」
少年は嬉しそうに笑った。
管狐は今までこんなに大切に扱われたことはなかった。
幸せな瞬間だった。
この少年と一緒なら、ずっとこんな温かい気持ちでいられる。
そう思っていた…。
しかし、少年は次第に変わっていく。
人と群れない少年は管狐とばかり遊んでいた。
そして、人を寄せ付けない空気感をまとっていた。
そのせいで、更に少年は孤立していく。
少年が教室に入ると、それまでザワザワとしていた教室が静まり返る。
腫れ物に触るような態度で、ぎこちない態度の同級生や嫌がらせをしてくる同級生に、いつしかイライラが増していく。
そんな、ある日だった。
少年の目の前に黒い光が現れた。
それは、紛れもなく管狐の前の主の分身だった。
管狐は、そのことをしっかり感じ取っていた。
その黒い光は人の姿に変わる。
十二単を着た長い黒髪の綺麗な女の姿に。
人間のものとは思えない程血の気を感じられない肌の白さと、縦長のスリット状の瞳孔、例えるなら狐の瞳孔がそれだ。
その姿が、その女が人ならざる者であることを語っていた。
「おまえ、人間が嫌いかい?」
柔らかな声だが、気味の悪さを感じる。
「嫌いだ」
少年は迷わず答えた。
「そうか。なら、人間を殺せばいい。おまえの嫌いな人間全ての息の根を止めればいい。妾が力を与えてやろう」
女はニヤリと笑った。
「力…?」
「その力は、今のおまえに必要のないものを取り除き、おまえに目的を遂げさせてくれるだろう」
「僕の目的…」
「嫌いな人間の息の根を止めたいのであろう?それとも、許せるのかい?嫌いな人間達を…」
「いや…許せない」
「なら、受け取るがいい。呪いの力を」
女は少年の言葉を待たずに少年の体の中に吸い込まれるように消えていく。
「え…。今、なんて…?」
少年は突然のことに動くことができなかった。
「呪いの力…って?」
少年が、そう言った時、体全体に脈打つような音が響いた。
そして、頭の中がグルグルと回っているようで、気持ちが悪くなる。
少年は立っていられずに膝まづくと、手をついて四つん這いになった。
額から汗がダラダラと流れ落ちて、顔は真っ青だった。
「うぐぐぐ…」
管狐は心配そうに少年の顔を見上げた。
少年は苦しそうに瞼を閉じたまま顔を歪めている。
しばらくすると、少年の顔から苦痛の表情が消える。
その表情を見た管狐は、ホッとした顔をする。
が、その次の瞬間、哀しみに打ちひしがれることになる。
少年が瞼を開けると、その瞳には感情がなかった。
少年はゆっくりと立ち上がった。
そして、管狐を蔑むような眼差しで見下ろした。
管狐は、その眼差しを知っていた。
前の主の眼差し、そのものだった。
今、目の前にいるのは管狐の知っている少年ではない。
前の主の分身が呪いとして宿った少年の姿だった。
少年の意志と前の主の意志が複雑に絡み合い、今は前の主の意志が強く表にでてきているようだった。
「管狐」
そう言った、感情のない瞳は冷たく刺すような視線だった。
管狐は、なぜ前の主が少年の式神になれと言ったのか、今はっきりわかった。
最初から、少年を呪いで操るためだったと。
管狐といることで、人間達から孤立し孤独になり憎むように仕向け、その心の隙につけこみ呪いを受け入れるように仕向けたのだと。
苦しみの中で人は時に判断を誤る。
苦しみから逃れるためにもがき、自分を救ってくれるものにすがりたくなる。
そんな時に手を差し伸べられたら…。
何も考えず、その手を取ってしまうだろう。
それが何であろうと。
だから、少年が悪いわけではない。
悪いのは、その状況をもたらした管狐自身なのだと…。
知らなかったとしても、管狐は自分を許すことが出来なかった。
なぜなら、あの優しい少年は、もう目の前にはいないからだ。
自分が少年をこんなにしてしまった。
その後悔から、屈みこみ震えていた。
それは霧の中に映し出された幻、管狐の心の中にあるものだった。
「管狐」
奏は穏やかな声で、屈みこんでいる柚葉に言った。
すでに霧は晴れ、辺りがよく見える状態になっていた。
柚葉はゆっくりと顔を上げる。
奏を見た赤い目は涙で潤んでいた。
柚葉の中の管狐には、まだ幻術が残っていて奏が主の少年に見えていた。
「辛かったな。でも、おまえのせいじゃない。だから、自分を責めるな」
奏が穏やかな眼差しで言うと、柚葉の赤い目から涙が溢れた。
奏は柚葉の頭を撫でた。
そっと、労わるように優しく。
その手からは温かさを感じる。
最初に出会った時の少年のように…。
「おまえのせいじゃないからな」
その声は温かく、涙が止まらなかった。
やっと、少年が元に戻った。
ずっと、一緒にいたいと思っていた少年が今目の前にいる。
あの優しかった少年が…。
「ごめん…」
呪いをかけるようなことになって…。
そして、瞼を閉じると管狐が取り憑いている柚葉は意識を失い倒れる。
倒れる柚葉を奏が抱きとめる。
意識を失った柚葉の体から、管狐の妖力が複数の光の粒子として空に向かって上っていく。
そして、闇夜に消えていった。
妖力を全て失うことは事実上、物の怪の死を意味する。
「ごめん…ってなんだ?」
金狐が不思議そうに言った。
術者の奏以外にも、同じ霧の中にいれば霧に映し出されたものを見ることができた。
だから、金狐、銀狐も管狐の記憶を見ていた。
「主への後悔の言葉でしょう」
銀狐は管狐の妖力が消えていった夜空を見上げた。
「後悔…?」
「呪にかかる少年を見たでしょう?。その少年が管狐の主だったのです」
「もしかして、管狐が呪いにかかる切っ掛けを作ったのか…?」
「はい。呪いにかかる前の少年は、とても優しい少年でした。物の怪である管狐に温かい手を差し伸べられるような。とても、管狐を大切にしていたのでしょう?」
「管狐は主に恵まれたな」
奏は夜空を見上げながら言った。
「そのようですね。だからこそ、自分が主の呪いの原因になったことが許せなかったようです」
「でも、これで少しは自分を許せただろうか…」
「わかりません。でも、柚葉様を操っていた妖力は管狐の後悔の念からくるものでした。なんとか、主の役に立とうとしていたのでしょう。私も式神ですから、その気持ちはよくわかります」
「そうか。物の怪とはいえ、心は人と変わらないな」
その横顔は寂しそうで、懐かしい何かを思い出しているようだった。
「そうですね…」
銀狐は、その表情の意味を知っていた。
かつて、奏も管狐を式神にしていたことがある。
きっと、その管狐のことを思い出しているのだろう…と。
「そうだよ。オレたちにだって心はある」
金狐は珍しく、寂しそうに言った。
「なのに、こんなに管狐を苦しめたヤツが許せない!誰が管狐の主に呪いをかけたんだ?」
金狐は握りこぶしを震わせた。
「陰陽師の力を持つ者を操る呪い…」
奏は、その呪いに心当たりがあった。
金狐も銀狐も、その呪いのことを知っていた。
しかし、それを口にはできなかった。
その呪いを行った者こそが、奏の人生を狂わせたのだと知っていたからだった。
「どうやら、私たちの宿敵が絡んでいるようですね」
「あいつだ…」
「だとしても、柚葉は何があっても守る…」
奏は柚葉を抱きかかえた無意識に腕に力を籠める。
「はい。…必ず守りましょう」
「あんなヤツの好きにはさせない」
銀狐と金狐は言いながら、意識を失った柚葉を見つめる。
柚葉を見つめる三人の眼差しは力強くも穏やかで、その奥に深い哀しみがあった。
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