「奏様。奏様…」
銀狐の声で奏は目を覚ました。
そこは間違いなく、さっきまでいた校庭だった。
ただ、違うのは地上ではなく水の中だということだった。
「ここは…?」
辺りを見回すと校舎もある。
ただ、校舎と校庭を中心として地面が続き、ある程度のところで地面はなくなっている。
奏は銀狐の作る結界の中にいて、何とか息をしていられるようだった。
銀狐は結界の外から、奏を見守っていた。
「何が起こった?」
「佑の水鏡という式神が学校の敷地にあったほとんどのものを呑み込みました」
「そうか、今式神の中にいるのか。ということは、ここは現実世界とは違う次元にあるということか。…にしても、あの式神にこんなことができるなんて。さっき、銀狐に跳ね除けられる程度の力しかなかったのに…」
「オサキ狐の呪力のせいでしょう」
「呪力か…。これほどの力なら、俺の神通力を使って勝てるかどうか…。水鏡の核となる部分を叩くしかないだろうな」
「そうですね。私も今は結界を張っていて全力を出せそうもありませんから」
「俺を囲む結界か?」
「それだけでは、ありません。学校の人間達のいる校舎ごと結界で囲んで、人間達は眠らせてあります」
「よくやった。だけど、大丈夫か?それだけの妖力を使って」
「はい。他に式神が現れなければ…」
「そうか。もし、式神が現れたら俺が何とかするから心配するな」
奏は穏やかな笑顔で言う。
「奏様…。ありがとうございます」
銀狐も嬉しそうに言う。
「それで、佑は?」
周りを見て佑の姿を探しながら、奏は言った。
「完全に心の闇に囚われて正気を失っています。今はオサキ狐に意識を乗っ取られて水鏡の外へ出ました。水鏡の中に人間達を取り込み、すぐに死ぬだろうと油断したのか、人間達の息の根が止まるのを見届けずにいなくなりましたから」
「そうだな…。人間達を確実に殺すより、重要なことでもあったのか?なぜ、外に出たか気になるな」
「はい…」
「だけど、不幸中の幸いだな。今のうちに水鏡の核を探そう。とりあえず、校舎の結界に入ろう。複数結界を作ったままでは、おまえも辛いだろう?」
「正直、その方が助かります」
「とりあえず、校舎の結界に入ろう」
「はい。それでは、私が結界ごと誘導しますね」
そう言うと銀狐は奏の入っている結界に片手の平をピタリと当てて、そのまま結界を移動させていく。
水の中なので、フワフワと浮いていて重さがあるようには見えない。
その不思議な光景のまま、銀狐は校舎に向かう。
校舎は銀狐の結界に覆われていた。
銀狐は奏の入った結界ごと、その結界に入る。
結界の中には空気があり、息ができるようになっていた。
そして、昇降口に入ると銀狐は奏の結界を解いた。
「少し校舎の中を見て回ろう。人間達の様子が気になる」
「はい」
奏は校舎の中を見回りながら、歩いていく。
その後を銀狐がついていく。
奏は教室の一室の前で立ち止まる。
そして、教室の中に入って行く。
教室では銀狐が言った通り、生徒や先生は眠っていた。
「本当によく寝てるな」
その寝顔は、自分達が命の危険に晒されていることを知らない。
「何も知らないまま元の世界に戻してやりたいな」
「そうですね」
奏と銀狐は教室から出ると、廊下を歩いていく。
「水鏡の核が、どこにあるのか…」
「私の探査能力が使えれば、よかったのですが…」
「気にするな。おまえは十分よくやってる。今も多くの人間の命を守ってる。それは俺に任せろ」
奏は銀狐を安心させるように言う。
「はい」
銀狐は笑顔で言う。
奏なら自分を認めてくれる。
そのことが嬉しかった。
歩きながら、奏はふと教室の窓を見る。
教室の窓からは、水の中に沈んだ校庭が見える。
「不思議な光景だな。こうして見ると」
奏の言葉に銀狐も窓の外を見る。
校庭の木々や草が水に揺れている。
「本当ですね」
そう言った銀狐が見ている窓の外の水に二つの目が現れる。
その目は赤黒く無機質だった。
目が赤く光ると、目の奥の意識が銀狐の目を通じて銀狐の意識の奥にまで入り込んでいく。
「銀狐…!」
妖力を感じて立ち止まり、銀狐を見た時には遅かった。
銀狐は窓の外を見つめたまま固まっていた。
銀狐の視線の先にある窓の外には、すでに二つの目はなかった。
「お呼びですか。天狐様」
そこには平安時代の白い狩衣を着た白髪を一つに束ねた美しい青年がいた。
それは紛れもなく天狐だった。
頭の上にある耳と赤い狐の目にスリットの瞳孔が人間ではないことを証明している。
その天狐の目の前に銀狐がいた。
「銀狐。金狐はどうした?金狐も呼んだはずじゃ」
「それが…油揚げを食べに行ってしまって」
「またか。この天狐の招集より、油揚げか…。先が思いやられるな」
天狐はため息をつく。
「はい」
銀狐も一緒にため息をつく。
「しかたない。銀狐、おまえだけでも話を聞くのじゃ」
「はい」
「おまえ達を呼んだのは、おまえ達に頼みがあったからじゃ」
「頼みとは何でしょう…?天狐様、直々にとは…」
「実は、とある陰陽師の式神となり、陰陽師と共に戦ってほしい」
「陰陽師ですと?人間の式神となれと…!?」
「とある物の怪を倒すまでの間じゃ」
「しかし…人間の下につくなど…」
「言いたいことはわかる。しかし、その者が追っている物の怪は我らが同族じゃ。その者の父親を操り多くの人間を殺させ死に追い込んだ。子である、その者は親の責を背負わされ、その物の怪…妖狐を倒す命を帝より受けておる。妖狐を倒すか、自分が死ぬかしなければ、この運命からは逃げられんのじゃ」
「…なんと、浅ましい。人間らしい理不尽な命ですね」
「そうじゃ。しかし、我らとて、あの妖狐を野放しにはできん。神々より、あいつの討伐命令がでたのじゃ。妖狐、玉藻前のな。あいつを討伐できなければ、我らの一族は妖力を失い、ただの狐として生きることになるのじゃ」
「妖力を失う…ですと?」
銀狐は言葉を詰まらせた。
「そうじゃ」
天狐はため息をつく。
「しかし、我らの力だけでは、あの玉藻前は倒せん。我らの力は呪力。陰陽師の力は呪力。呪力に対抗できるのは災厄を退けることのできる呪力のみじゃ」
「私達妖狐の力だけでは、倒せないということですか?」
「あれほど、妖力が強大になれば相反する力で、あやつの力を押さえて倒すしかないのじゃ」
「なるほど…。それで、陰陽師と共に戦うということですね」
「わかってくれたか?」
天狐はホッとしたように笑う。
「ですが、人間である陰陽師の下に式神としてつく気はありません。一緒に戦えばいいだけですから」
「しかし、陰陽師の式神になれば、陰陽師の持つ神通力と繋がれるのじゃ」
「つまり、私の妖力が呪力を持つということですか?」
「そうじゃ。人間の陰陽師の力だけでは、あの妖狐は倒せんじゃろう。しかし、銀狐と金狐の妖力が呪力を持つことで、あやつの妖力を押さえながら倒すことができるだろう」
「そういうことですか…。しかし…」
「納得できんか?」
「はい。そうなれば、その陰陽師の配下となるということですよね?」
「そうじゃ。嫌か?」
「はい。嫌です。人間の配下になるなど。自分の利益のためだけに同族同士でいがみ合い、殺し合う。そんな浅ましく低俗な人間など、主としての価値があるとは思えません」
銀狐は不機嫌そうに天狐から目を背ける。
「天狐。全ての人間がそうではない。しばらく、一緒にいればわかるだろう」
天狐は穏やかな口調で言うと、笑った。
銀狐は不満そうに、そっぽを向いていた。
その日から銀狐は天狐のいる稲荷神社で人間の陰陽師と一緒に生活することになった。
その日、銀狐は神社の本殿の高欄と呼ばれる手すり付きの縁側に座り、手すりに片肘を乗せて頬杖をつき、境内の掃除をしている奏を見ていた。
奏は水干という、武家や庶民の着る身軽な服を着ていた。
「神社にいるのに神主の着る装束ではなく、水干…?」
そう呟くと、不思議そうに奏を見ていた。
頭には帽子はなく、冠下という公家の髪型をしている。
「掃除のために動きやすさ重視か…?」
少し呆れたように言うと、縁側に寝転んだ。
数日前、天狐に奏が例の陰陽師だと紹介された。
しかし、人間嫌いの銀狐は自分から奏に近づこうとはしなかった。
ただ、例の妖狐が現れた時に一緒に戦えるように、奏から少し離れた場所で見ているだけだった。
雲一つない晴天の中、熱くも冷たくもない風が肌を撫でる。
なんて平和なんだ。
眠くなるほど、平和だ。
本当に天狐様のいうような妖狐などいるのか…?
そんなことを考えながら寝返りを打つと、さっきまでいた奏がいないことに気づく。
銀狐は起き上がると、辺りを見回し、奏を探した。
奏が町民に案内され、鳥居から出て行くのが見えた。
「あいつ!」
銀狐は縁側から飛び降りると、奏の後を追った。
町民は古びて手入れのされていない寺に奏を案内した。
「ここか」
そう言うと、手から式神を出す。
「光狐」
光でできた狐に変わる。
「ご苦労だった」
奏が、そういうと、光狐が町民に向かって口から光線を放った。
「あいつ!人間を」
これだから、人間は…!
町民は体を焼かれ苦しそうにもがいて、鬼の姿に変わる。
そして、体を焼かれ塵となって消えていく。
「鬼…」
銀狐の声に奏は振り向く。
「巧妙に妖気を隠していた。けど、俺とは違う呪力だ。違和感しか感じなかったから、すぐにわかったよ」
「そんな微細な違いがわかるのか?私でさえ、わからなかったのに」
「妖力の強すぎる妖狐には、あの微細な強さの妖気はわかりにくいだろうけど」
そう言うと、奏は寺に向かって歩き出す。
「まて、寺に入るのか?どう考えても罠だろう?」
「中に玉藻前がいる。玉藻前の妖力を感じる」
「玉藻前か?そんな強大な妖力は感じない。似ているような感じはするが…」
言いながら、銀狐は意識を集中させた。
寺の中から二つの妖狐の妖力を感じる。
一つは感じなれない妖力、もう一つは良く知っている…。
「金狐…!」
「あんたの知合いか?例の妖狐に捕まっているようだな」
中々、天狐様の稲荷神社に来ないと思っていたら、こんなところで捕まっていたのか…。
銀狐は呆れ顔で寺に向かって歩いていく。
「あんたも来るのか?」
「私の双子の片割れがいるからな」
「双子…?」
奏は笑った。
「なんだ?おかしいか?」
「妖狐も人間と変わらないんだなと思って。俺にも弟がいる。兄弟なら、見捨てられなくて当然だな」
「当然…」
言いながら銀狐は奏を見た。
奏は真っすぐな眼差しで、寺に向かって歩いている。
その瞳は曇りがなく、澄んでいた。
自分の利益だけのために動くような浅ましい人間には見えない。
そんなことを考えながら見ていると、奏の表情が険しくなる。
「伏せろ!」
そう言うと、奏は銀狐を自分の体で庇うように押し倒した。
その瞬間、寺が轟音と共に爆発した。
爆風で辺りが見えなくなると同時に銀狐は意識を失った。
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