銀狐の結界の中に入って、水の中でゆらゆらと揺れながら銀狐に校庭を引っ張られていく奏は、辺りを見回していた。
銀狐が見たという目を探していた。
「見当たりませんね」
「どんな目だったか、覚えているか?」
「赤黒い、無機質な目でした。その目からは何の感情も感じられませんでした」
「式神の中には、そういう物の怪もいる」
「ですが、私や金狐は感情があります」
「おまえ達は特別なんだ。心があるからな」
「水鏡は心がないのですか?」
「ない。ただ、主である陰陽師の命令に従うだけだ」
「そう…ですか。少し寂しいですね」
銀狐は寂しそうに笑った。
「寂しいか…。そんな感情さえないんだ。気にすることはない」
「そうですね。でも、私はそんな式神でなくてよかった」
「どうしてだ?」
奏は興味深々に言う。
「だって、美味しものを食べて楽しいと思ったり、金狐という兄弟がいて良かったと思えたり、奏様と一緒にいられることが嬉しかったり。そんな気持ちがないなんて、心の中にある大切なものを失くしたみたいで寂しいです」
「そうか。銀狐はそういうことが大切なんだな」
奏は穏やかに笑った。
「はい。とても大切です。何があっても手放したくありません」
銀狐は嬉しそうに言う。
いつもの冷静な銀狐とは思えない程の無邪気さだった。
金狐に比べれば大人びて冷静だが、金狐と双子なら同じようなところがあってもおかしくない。
永遠に近い命と卓越した力を持つ妖狐である金狐と銀狐は、人間に比べ生きる苦しみや何かを失う苦しみというものがほとんどない。
だからこそ、苦しみを乗り越え成長することが少なく、いつまで経っても子供のように無垢なのだろう。
誰かを妬むことも、エゴから傷つける必要もない。
あるのは、子供のように無垢で、大切なものを守りたいという曇りのない心だけ。
そんな銀狐が微笑ましかった。
「そうか。じゃあ、手放すなよ」
奏は穏やかな笑顔で言う。
「銀狐」
奏は言いながら、辺りを見回した。
「奏様?」
銀狐は立ち止まる。
「今、違和感が…。これは妖力か…」
「妖力…ですか?私は何も感じませんが」
「水鏡の中にいて、妖力の中にいる状態だから感知するのは難しいが、微量に質の違う妖力を感じる」
「微量ですか…。であれば、私には感じ取れないかもしれません」
辺りを見回し、奏はある一点に目を止める。
「あれだ…」
奏の視線の先にあるのは、この学校の校長の銅像だった。
カーネルサンダースに近いふくよかな体の中年の男の像だった。
奏が見ていると、銅像の校長の目の瞼が開く。
「あの銅像ですか…?」
「銀狐。見るな!」
奏がいうより早く、銅像の目が赤く光る。
そして、銀狐は再び固まって動かなくなる。
それと同時に奏を包んでいた結界が崩壊する。
「次縹!結界を!」
奏は咄嗟に手の中から式札を出し、その式札から青い光の塊の式神、次縹を呼びだす。
次縹は青い光の結界となって、奏を包む。
「危なかった…」
そして、別の式札を手の中から出す。
「光狐」
光でできた狐が現れる。
「あの銅像を破壊しろ」
光狐は大きく口を開けると、光線を銅像に向けて放った。
銅像は光線に包まれ、跡形もなく吹き飛んだ。
その直後、銀狐は自分を取り戻し奏を見た。
「奏様…」
そう言いながら、銅像のあった場所を見る。
そこには銅像の台座さえもなかった。
「倒したのですね…」
「ああ」
奏が答えた直後、その空間にあった水が物凄い勢いで引いていく。
「これは…!」
「気をつけろ!銀狐!」
奏も銀狐も水に流され、意識を失った。
朝日が眩しくて、奏は目を覚ます。
そこは水鏡の作った空間ではなく、地上だった。
次縹に包まれたまま奏は木の根元にいた。
次縹が流されないように木に密着していたようだ。
地上には戻ったが、雨も降っていないのに空間に取り込まれていた所だけ水浸しという不可解な状態だった。
「銀狐」
奏は銀狐を探す。
どこにも銀狐の姿は見当たらない。
次縹を式札に戻し、奏は銀狐を探す。
校庭を歩き回り探すが、銀狐の姿は見えない。
「どこにいる…」
銀狐は式神だ。
人間ではない。
何の心配もいらない。
それなのに、この不安は何だろう?
「奏」
誰だ?
声のする方を見ると、佑が立っていた。
その瞳の瞳孔はスリットになっていて、オサキ狐に意識を乗っ取られままだった。
体の脇には銀狐を抱えていた。
銀狐は意識を失い、ぐったりとしていた。
「その式神を返せ」
「こいつを返してほしくば、詩花の力を目覚めさせる方法を教えよ。あの柚葉という娘、詩花の力が感じられない。何をした?」
「会ったのか?」
「当然じゃ。あれは妾のものじゃ」
「あれは詩花ではない。ただの人間だ。そんな力なんて持っているはずがない」
「おまえと天狐が守っているのにか…?」
「陰陽師の家系に生まれるだけで、物の怪につけ狙われる。何の力もなくてもな。だから、守っている。それだけだ」
「ふん…。それは本当か…?怪しいのう」
オサキ狐は探るような眼差しで奏を見る。
「違うものは違う」
「では、他の場所にいるのか?詩花がこの世に生まれ落ちた時、詩花の妖力と神通力を感じた。それから数えれば、詩花は今あの娘と同じ歳のはずじゃ」
「だとしても、あれは違う。妖力も神通力もなかっただろう?」
「そうじゃが。解せぬな」
冷めた眼差しで言う。
「それが真なら。本物の詩花を捜して連れてくるのじゃ。この式神は詩花と引き換えに式神を返してやろう」
「そう言われても、詩花はどこにもいないと言っているだろう」
「そんなはずはない。探せ!」
そう言うと、オサキ狐は銀狐を抱えたまま宙に浮かび上がる。
「この近くに寺がある。そこで待っている」
言い終わると同時にオサキ狐は銀狐を抱えたまま消える。
「ふあぁぁぁ…」
大アクビをしながら、柚葉は目を覚ました。
今朝はやけに静かに感じる。
何でだろう?
銀狐が起こしに来ないからかな?
時計を見ると、いつも起きるより早い時刻だ。
最近の柚葉にとっては珍しいことだった。
管狐に取り憑かれた日から、朝起きるのが辛くなっていた。
管狐の妖力の影響なのか…?
「せっかくだから、境内で掃除でもしよっと」
柚葉は顔を洗い、髪型を整える。
そして、着替えるとホウキを持って境内に出る。
境内の鳥居の柱の根元に何かを見つける。
柱に寄りかかって、金狐は鳥居の外を見ている。
その姿は、なぜか寂しそうに見える。
「金狐」
名前を呼ぶと、金狐が振り返る。
「柚葉か」
一言いうと、またすぐに鳥居の外を見る。
「いつから、ここにいたの?」
「昨日の夕方から」
「昨日の夕方…!?大丈夫?寝てないんじゃな?」
「オレは式神だから寝なくてもいい」
「じゃあ、何で毎日寝てたの?」
「人間みたいで面白いから」
「…」
そんな理由…。
「奏と銀狐を待ってるの?」
「うん」
「心配なんだね」
「違う。心配しなくても奏様も銀狐も戻ってくる。二人は強いから。だから、待ってるだけだ」
じゃあ、寂しいってことかな?
金狐の顔を見ながら思った。
その横顔からは少し哀愁を感じる。
「奏も銀狐も、きっと無事に戻ってくるよ」
そう言って、柚葉は笑う。
「わかってる。特に銀狐はしっかりしてる」
「そうだね」
「オレが昔、油揚げに釣られて物の怪に捕まった時も奏様と一緒にオレを助けてくれた」
油揚げに釣られて捕まるって…。
どんな、失敗談…?
金狐らしいけど。
柚葉は内心クスっと笑った。
「そう。銀狐の方が双子のお兄ちゃん?しっかりしてるもんね」
「違う。オレが兄で、銀狐が弟だ」
「え…」
金狐は弟にしか見えないけど…。
意外だわ…。
「たった一人の弟なんだ…」
金狐は振り返り、嬉しそうに笑う。
「そう…」
柚葉も思わず笑う。
温かな空気感の中、二人は鳥居の外を見つめていた。
すると、人影らしきものが近づいてくる。
だんだん近くなってくると、それが奏だと気づく。
「奏!」
柚葉は金狐の嬉しそうな顔を想像して、金狐を見る。
しかし、金狐は視界の中で銀狐を探していた。
柚葉と金狐に気づくと、奏は疲れた顔で笑った。
「待っててくれたのか。金狐。柚葉」
それには答えず、金狐はキョロキョロと銀狐を探している。
「金狐…?」
奏の声に金狐は我に返る。
「奏様…。銀狐は…」
不安な表情で金狐は奏を見る。
「金狐…」
奏は金狐の頭に手を置いた。
「すまない。佑という少年…いや、オサキ狐に連れ去られた」
「銀狐が…」
「詳しいことは、二人で話そう」
そう言うと、奏は柚葉を見る。
「柚葉。話をする間、外してくれないか?」
「いいけど。一つ聞きたいことがあるの」
「何だ?」
「詩花って何?誰かの名前なの?」
「佑に会ったのか?…佑から聞いたのか?」
「佑…?」
「柚葉が会った人間の名前だ。いや、中身はオサキ狐か」
「…?何を言ってるの?」
「いや、いい。誰かはわかってるから」
「そう…?それで…、詩花って何?誰かの名前?」
「…おまえには関係ない。知らなくていい」
冷たく言うと、奏は目を逸らした。
これ以上、この話に首を突っ込むな。
そう言っているようだった。
奏の突き放すような冷たい言葉に胸が痛くなる。
「…わかった」
少し寂しそうに言うと、柚葉は自宅に向かって歩き出す。
あたしって、奏に嫌われてるのかな…?
何か泣きそう…。
あんな言い方しなくてもいいのに…。
頬に涙が零れ落ちる。
あれ?
あたし、泣いてる…?
金狐を心配してる奏と話せて、距離が近づいたと思った。
それなのに当然のように突き放される。
なぜだか哀しくて…。
…そうか。
柚葉は瞼を閉じる。
あたし、奏を信じてるんだ。
だから、嫌われたくない…。
去って行く柚葉の後ろ姿を奏は見つめていた。
「奏様。あんな言い方しなくても…。あれは柚葉が可哀相だ」
「余裕がなくて、つい…。それに詩花のことは柚葉には知ってほしくない」
寂しそうな眼差しで言う。
「詩花のことか…」
金狐も寂しそうな眼差しで言う。
「言い過ぎたかもしれない。柚葉には悪い事をした」
「後で謝ればいいよ」
「そうだな」
奏は金狐の言葉にホッとため息をつきながら言う。
「オサキ狐は他の物の怪とは違う。加えて銀狐も捕らえられた状態で余裕がなくなってるんだな…。俺…」
「それはそうだ。オサキ狐は取り憑いた陰陽師の心が闇に囚われると、内臓を食いちぎり鬼にする。そうなったら、もう人間には戻せないんだから余裕なんてなくなる…」
「鬼になれば、殺すしか方法はない。俺の弟のように…」
奏は哀しみに満ちた眼差しで言う。
「奏様は、あの陰陽師を助けたいんだな」
「そうだ…。駄目だよな。こんなことじゃ。銀狐に頼ってばかりいたから…。銀狐がいないだけで余裕がなくなる」
奏は少し寂しそうに笑う。
「…」
そんな奏を金狐は黙って見ている。
奏が金狐を見ると、目が合う。
「どうした?真剣な顔して…」
「オレ、奏様が主でよかった。だって、奏様はオレや銀狐を本当に必要としてくれる」
「…そうか」
奏は穏やかな眼差しで笑う。
「俺にも、おまえ達に必要とされているようだ。俺にも、そんな価値があったか…」
ホッとしたように言う。
「俺はオサキ狐の呪にかかって鬼になった人間を何人か殺してきた。自分の弟さえも…。人を襲わせるわけにはいかないとはいえ、俺は何の罪もない人間を殺してきた。そんな俺に価値なんてないと思ってた」
奏は寂しそうな眼差しで言った。
「奏様には、たくさん価値があるぞ。オレと銀狐の主だし。オレと銀狐がケガしたら神通力で治してくれるし…。油揚げだってくれる」
金狐は子供のように考えつく限りの奏の良いところを言う。
それは奏を励ましたい一心だということが伝わってくる。
「わかった。わかった」
奏は、そんな金狐が微笑ましくて笑顔で言う。
そして、金狐の頭に手をポンと置く。
「ありがとな。金狐」
その言葉を聞いた金狐は嬉しそうに笑う。
そんな金狐を見ていたら、奏は張りつめた気持ちが緩んでいくのを感じる。
自分は一人じゃない。
そのことが、奏の心を軽くしていた。
そして、かつて奏に価値があると教えてくれた者のことを思い出していた。
数百年前に死んでしまってから、ずっと忘れていた。
彼女も俺のいいところを並べて言っていた。
俺には価値がある…と。
詩花…。
奏は哀しそうに心で呟く。
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