あたしには、人には言えない不思議な力があった。
普通の人間には見えない人ならざる者が見える。
そして、その人ならざる者が今、目の前に…。
一人の学校帰りの女子高校生の目の前に、古い絵巻物に描かれているような鬼が数匹いた。
その女子高生の名前は九重柚葉、もうすぐ十七歳の誕生日を向かえる。
肩まで伸びた髪をポニーテールにして、ブレザーの制服にスクールバックを持っている。
人ならざる者が見える以外はごく普通の女子高生だ。
柚葉は目の前の現実離れした光景に動くことができずにいた。
辺りに人の姿はなく、鬼達が見えることを不信がられることはないが誰かに助けを求めることもできない。
何…?なんで?
こんなところに…?
いつものように見えないふりをして通り過ぎようかな。
目の前の鬼たちは唸り声をあげながら、柚葉を見ている。
「捕まえろ」
どこからともなく、声がした。
それは耳に聞こえたものではなく、直接頭に聞こえてきたものだった。
それは普通の人間には聞こえるはずもない声だ。
その声に従うように鬼たちが柚葉に飛び掛かってくる。
「いやぁぁぁ!」
柚葉は悲鳴を上げながら逃げる。
幸いにも鬼たちは図体がでかいせいか動きが鈍く、走り続ければ追いつかれることはないだろう。
何?あれは…?
鬼…?鬼だよね…?
なんで!
どうして…!
こんな時、お兄ちゃんがいれば…。
柚葉の兄は玄弥という。
柚葉も玄弥も稲荷神社の神主の子供で神主見習いをしている。
その血筋は代々、力の大小はあるものの神通力を持って生まれてくる陰陽師の末裔の家系だった。
神通力とは陰陽師の術や式神を使役する力で、その動力となるのが霊力だという。
霊力だけなら、普通の人間でも多少は持ち合わせている。
俗に云う霊感の強い人間というのがそれだ。
玄弥も同じく神通力を持ち、天狐という神格化した神とも呼べる妖狐をその身に降ろすことができる。
しかし、なぜか柚葉だけが神通力を持たずに生まれてきた。
ただ、通常の人間より強い霊力を持っているようで、人ならざる者を見る力だけを唯一持ち合わせていた。
お兄ちゃんがいれば、天狐が助けてくれるのに…。
そう思いながら、柚葉は首にかけていた緑青の勾玉のペンダントを握る。
子供の頃から、身に着けているペンダントだ。
この勾玉が柚葉を守ってくれる。
そう父親が言っていた。
先祖に神に通じ物の怪を退治した陰陽師がいて、そのせいで物の怪に恨みを残しているのだと聞かされていた。
その恨みから、神通力はなくとも九重の血筋であれば物の怪につけ狙われることがあるからだという。
神通力のない柚葉は物の怪には見つけにくいらしく、今まで一度も狙われことがないが、神通力の強い玄弥は常につけ狙われていた。
…なのに、どうして?
走り続ける内に追いかけて来る鬼との距離は離れていった。
逃げ切れる。
そう思った柚葉は、とあるビルに駆け込んだ。
しばらく、鬼に見つからないように隠れていれば、その内いないくなるかも…。
エレベーターに乗り、最上階に着くとエレベーターから降りた。
そして、エレベーターの向かい側の階段から屋上に向かう。
ここまで来れば大丈夫。
屋上のドアを勢いよく開けると、そこには先回りした鬼たちがいた。
「え…!?なんで!」
柚葉はドアを閉めると、鍵をかけた。
しかし、そのドアを壊そうと鬼たちがドアを叩いたり蹴ったりしている。
その度にドン!ドン!と大きな音がしてドアが歪む。
ドアが壊れて、鬼が入って来るのは時間の問題だった。
柚葉は階段を下りて、エレベーターに向かった。
しかし、エレベーターの前にも鬼たちがいた。
「うそ!鬼が!」
柚葉は下に降りる階段があるドアまで走ると、ドアを開けた。
下に降りる階段の先に鬼の姿を探す。
鬼の姿が見当たらないのを確認すると、階段のドアを閉め下に降りていく。
4・5階分ほど、階段を降りた頃になると、柚葉の足取りは重くなっていた。
長い階段で体力をすり減らし、階段を降りる体力がなくなっていく。
とうとう柚葉は肩で息をしながら階段に座り込む。
1階まで、後どれだけ階段を降りればいい?
こんな所で座ってる場合じゃない…。
また、鬼が来たら…。
思わず柚葉はペンダントの勾玉を握りしめた。
本当に、これが守ってくれるの?
そっと、握りしめた手を広げて勾玉を見る。
「あれ…」
勾玉に小さなヒビが入っているのに気づく。
「ヒビが入ってる。いつからだろ?」
数日前に勾玉を見た時には、それはなかった。
柚葉は、勾玉のヒビをじっと見つめた。
微かにヒビから淡い光が漏れているのが見える。
「何?これ?」
…もしかして、あたしを守ってた勾玉にヒビが入ったから、鬼に見つけられたの?
本当にこの勾玉はあたしを守ってたんだ。
ただの気休めのお守りだと思ってた。
「どうしよう…」
たった一人で、物の怪を見る力しかないのに…。
勾玉の守りもなくて…。
逃げきれなかったら…。
柚葉は唇を噛んで、勾玉を握りしめた。
そして、階段の下の方から誰かが昇ってくる気配がして見下ろすと、そこには鬼たちの姿が見えた。
「え…!うそ!」
柚葉は立ち上がると、近くにあった階段からフロアに出るドアを開けた。
そして、フロアに入ってドアを閉める。
ドアには4Fという文字が書かれていた。
「4階…。もう少しで1階まで行けたのに…」
柚葉はため息を着くと、フロアの通路を歩き始めた。
そのフロアは幾つかの会社が入っているフロアだった。
通路の両脇には聞き慣れない会社名のプレートがついてるドアが幾つかあった。
通路を挟んで両脇に会社のスペースが幾つかあり、そこはあくまでもオフィスとしてのスペースで、トイレは別の場所に設置してあり、そのフロアの複数の会社で共有して使っているようだった。
それぞれの会社から出てくる人は、トイレか外出のためにエレベーターに向かうかで通路を歩いていた。
その人々の間を歩いていく。
会社員しかいないはずの通路を歩く女子高生。
どう見ても、目立つ。
すれ違う人が振り返り見ている。
その視線が普通なら痛いだろう。
しかし、今は鬼から逃げることで余裕がなく、そんなことを気にしていられない。
「きゃあ!」
後ろから声がして、柚葉は振り返った。
数メートル後ろに鬼たちの姿があった。
その後ろではスーツを着た男性が壁に張り付いて頭から血を流している。
その男性の近くを歩いていた女性が悲鳴をあげていた。
「なんだ…?何が起こって?」
「今、何もないところで何かに壁に叩きつけられたよな…」
叩きつけられた…?
鬼に…?
近づいてい来る鬼の目の前に一人の女性がいるのが見える。
先頭の鬼は腕を振り切って、その女性を通路の壁に叩きつける。
邪魔だ。
というように…。
「いやあああ!」
その様子を見た、行きかう人達が悲鳴をあげる。
目の前の光景に行きかう人々は小さな物音にも恐怖の表情で震え、動けずにいた。
それもそのはず、普通の人間には鬼は見えていない。
目に見えない何かによって壁に叩きつけられるかもしれない状況で、その何かがどこからやってくるのかわからない恐怖に怯えていた。
下手に動けば、目の前で壁に叩きつけられ血を流している人間と同じ末路をたどることになる。
その通路を歩く人々は死を目の前にした極限状態に陥っていた。
ふいに、とある会社のプレートのついたドアからスーツ姿の男性が出てきた。
「だめ!通路に出ないで!」
柚葉は思わず、叫んでいた。
なぜ、女子高生がここに?そんな不思議そうな顔をした途端に目の前にいた鬼の腕で壁に叩きつけられる。
「きゃああああ!」
怯えきった声の悲鳴が周りから上がる。
あたし…のせい…?
あたしのせいで、この人たちは…。
柚葉の顔は青ざめていく。
柚葉は、その場にから逃げるように走り出す。
ごめん。ごめんなさい!
あたしのせいで…。
目が涙で滲んだ。
このビルに逃げ込まなければ、誰も死なずにすんだかもしれない。
でも、あたしには何の力もなくて、逃げるしかできなくて…。
それでも怖くて逃げずにはいられない。
こんな自分が嫌でしょうがない。
あたしなんて、いなくれば…。
そう思った時、誰かに腕を掴まれた。
「ひっ…!」
その誰かの顔を見ると、凛々しい顔立ちの二十代前半の青年だった。
鮮やかな黒髪と感情のない琥珀色の瞳から、少し冷たい感じを受ける。
フロアにある会社の人間ではないことが、シンプルでラフなTシャツとジャケット、パンツという格好からわかる。
だとしたら、誰?
そんな疑問が頭をよぎる。
青年は感情のない顔で、柚葉の涙を指で拭った。
「もう、大丈夫だ」
短く言った、その声は無表情の顔に反して穏やかだった。
「一緒に来い」
そう言うと、柚葉の腕を引いて走り出す。
「待って!このままだと、ここにいる人たちが鬼に…」
なぜか、目の前の青年なら、この状況を何とかしてくれる。
そう思えて、その言葉を口にしていた。
立ち止まり振り返った青年と目が合う。
その瞳に感情はなく、相変わらずの無表情だった。
「光狐」
青年が持っていた式札に、そう言うと、目の前で光でできた狐に変わった。
光狐は目の前で宙にゆらゆらと浮いている。
「鬼を足止めしろ。人間を傷つけさせるな」
光狐は、すぐに鬼に向かって飛んで行く。
「これで大丈夫だ。行くぞ」
そう言うと、青年は柚葉の手を引いて再び走り出す。
「う、うん」
言われるままに柚葉は走り出す。
鬼と光狐が気になり、少しだけ振り返る。
光狐が鬼たちの周りを飛びまわり、鬼は光狐を払いのけようと腕を振り回す。
そして、鬼同士で殴り合うような形になり、鬼同士の喧嘩が始まる。
あまり知能は高くないらしく、柚葉を追いかけることも忘れて喧嘩に夢中になっているように見えた。
よかった。
ホッと柚葉は胸を撫で下した。
そして、前を走る青年の後ろ姿を見る。
誰だかわからないのに、一緒にいると安心する。
何の警戒も不安も感じない。
あるのは、ただ信頼感だけ。
なんでだろ…?
会ったばかりなのに…。
じっと、青年を見つめていると、青年が振り返った。
目が合い、戸惑うように目を逸らす。
あまりにも真っすぐな眼差しに、つい目を逸らしてしまった。
「飛ぶぞ」
「え…?」
気がつくと、フロアの端にある外付けの階段に来ていた。
飛ぶぞ…?
階段から周りを見回し、階段の下を見る。
地上まで、かなりの距離がある。
「たしか、今いるのって、4階…。飛ぶって、どこへ?」
戸惑う柚葉を抱きかかえると、青年は飛び上がり、階段の手すりを蹴って宙に飛んだ。
「え!ちょっと!きゃあああ!」
柚葉は青年にしがみついた。
「次縹!」
青年が式札を取り出し、そう言うと足元に青い光の塊に変わる。
そして、青い光は2メートル程の鳥の姿になる。
青年は、その鳥の背中に乗った。
そして、屈むと抱きかかえていた柚葉を降ろした。
「え!待って、落ちる!」
バランスが取れず、ふらふらしている柚葉を抱きよせる。
青年の顔が息が触れるくらいの距離にあった。
でも、嫌な感じはしない。
むしろ、安心感があった。
鬼のいたビルが遠ざかっていくのが見えた。
もう、大丈夫。
よかった。
ホッとして、一気に体から力が抜け始める。
そのまま、ゆっくり瞼を閉じて柚葉は眠ってしまった。
やがて、柚葉が眠り込んでしまうと、青年は柚葉を落とさないように抱き寄せる腕に力を入れる。
そして、柚葉の寝顔を見た。
その眼差しは穏やかで温かかいものだった。
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