その日、鳴珂の主である少年は学校にいた。
「あいつ、誰だっけ?」
教室の一角の机に数人集まっていた男子生徒の一人が言う。
男子生徒が指さしたのは自分の席に座っている鳴珂の主である少年だ。
「まーた、また。何の冗談だよ?栗田。あいつ、おまえがイジメてる梨木佑だろ?」
そう言ったのは浅川という男子生徒だ。
「梨木…。あーだったな」
「それ?新しいイジメ?いないものとして扱う…みたいな」
浅川はヘラヘラ笑う。
栗田は、じっと佑を見ている。
その視線に気づいた佑が栗田を見た。
その瞬間、佑の顔が青ざめた。
まるで死人でも見るような眼差しで。
佑は席を立ち、逃げるように教室から出て行く。
その後を栗田が追いかける。
佑は教室から出ると、廊下を走り出す。
「そんな…、バカな…」
栗田は、確かに水鏡で殺したはず。
水鏡とは佑の式神で、どこにでも池や湖ほどの水を出現させ、人を溺れさせることができる式神だ。
その水鏡で栗田は死んだ。
だから、いるはずがないのだ。
校庭まで来ると、息を切らしてうつむく。
「どうした?梨木」
その声を聞いて、佑は体を強張らせた。
それは毎日のように聞いていた不快な声だ。
「おい…」
そう言って、栗田は佑の背中をポンと手で叩いた。
「ひっ…!やめろ!」
佑がうずくまると、どこからか水の塊が出てきて栗田を包み込む。
水の中で息ができず、栗田は苦しそうにもがく。
佑は震えながら、両耳を両手で塞いだ。
「うぐぐぐぐ…!」
栗田の口から空気が溢れる。
そして、栗田の体から力が抜けていき、水の塊の中で動かなくなる。
佑は栗田の声が聞こえなくなると、ゆっくりと栗田を見た。
栗田は水の塊の中でぐったりとしている。
「…どうして?」
じっと、栗田を見る。
そこにいるのは間違いなく栗田だった。
「おまえは死んだはず…」
「おまえが殺したのか?」
その声に背筋を凍らせながら、佑は声の主のいる方を見る。
そこには奏が立っていた。
そんな…、さっきまで誰の気配も感じなかったのに…。
「いつから、そこに…?」
動揺して震える声で佑は言った。
「そいつが死ぬ前から」
「見ていた?人が死ぬのを…?」
恐怖から、何もできずにいたようには見えなかった。
話す声も落ち着いている。
「そうだ…」
そう言って、奏は栗田の死体を見た。
「おい。いつまで死んだフリしてるんだ?」
そう言うと、栗田は瞼を開ける。
「我が月よ。出でよ」
栗田の手の平の上にスイカほどの大きさの月が現れる。
「光の刃!」
栗田の体から光の刃が幾つか飛び出し、水の塊を切り裂いた。
水は逃げるように姿を消す。
「どうでした?奏様。名演技でした?」
ニッコリ笑った栗田の姿が銀狐に変わっていく。
「ああ。名演技だった。陰陽師でさえ騙せたんだからな」
そう言うと笑う。
「し…式神!」
「栗田は死んだよ。死んだ後に鬼に変わって俺に襲いかかってきたから俺が退治した」
「それじゃあ…」
佑は一気に体から力が抜け、その場に膝をついた。
「おい。大丈夫か?」
「おまえが、あの陰陽師か…?奏という名の」
「よく知ってるな。おまえに取り憑いた分身から聞いたのか…?」
「分身…?」
「おまえに取り憑いているのは玉藻前の分身だ。オサキ狐というが、玉藻前の九尾の一つが呪いとなったものだ」
「そうなのか。それより、助けてくれ…」
佑は目に涙を溜めて言った。
「自分の中にある、栗田への憎悪が膨らんでいって押さえられない。そして、気がつくと栗田を殺していた…」
涙は頬に零れ落ちる。
「オサキ狐が心の闇に付け込んだか…」
「僕はどうすればいい?もう、誰も殺したくない」
「おまえは、管狐の言った通り、優しい人間だったんだな」
奏は穏やかな表情で言う。
「管狐…鳴珂のことか…。そうか。鳴珂は僕をそんなふうに思って…。それなのに僕は物の怪に逆らえず、鳴珂を死なせてしまった」
ポロポロと涙が零れる。
佑は顔を両手で覆った。
「方法は一つだけだ。決して心の闇に飲まれるな。そして、自分の心の闇に打ち勝て。そうすれば呪いは跳ね返せる。取り憑いたオサキ狐も消えるだろう」
「そんなことで、できるのか?」
「できる。おまえは陰陽師だ。陰陽師の力は、心の状態が反映される。闇が大きければ力は弱まり、闇に打ち勝てれば力は増していく。それが陰陽師のもつ呪力。呪とは厄災を退く力。きっと、オサキ狐を跳ね返せるだろう」
「呪…」
「優しいおまえなら、できるはず。誰かの命を奪わないためなら、自分の心の闇に打ち勝つことができるはずだ」
「誰かの命を奪わないために…」
佑の心の中に殺してしまった栗田の顔が浮かんだ。
〝おまえなんか、生きる価値なんかないだろ〟
そう言って笑っていた、あの時のことが…。
〝それでいいのかい?〟
どこからか、頭の中に声がする。
柔らかな声だが気味の悪さを感じる、あのオサキ狐の声だった。
〝そいつだけじゃないだろ。周りで見ていた者達も、おまえを助けようとしなかったじゃないか。このまま許していいのかい?〟
佑の脳裏に冷たい眼差しであざ笑っていた生徒達の姿が浮かび上がった。
〝やつらこそ、生きる価値なんかないだろ?優しい、おまえを蔑むようなやつらだ〟
〝おまえには価値がある。やつらに思い知らせてやれ。おまえの力を〟
〝妾が、おまえに力を貸してやろう。呪力を〟
そう言って、声の主が笑った気がした。
そして、佑の心は闇に覆われて意識が遠のいていった。
「たっだいまー!」
柚葉は元気よく玄関から入ってくるとリビングのテーブルの上に通学バックを置いてソファーに寝転んだ。
「あー。家って快適!ずっと、家にいうようかな!」
元気よく言うと、背伸びをした。
「何言ってるの。学校は、ちゃんと行かないとダメよ」
キッチンにいた莉世が言った。
体を起こして莉世のいる方を見る。
そこには嬉しそうに莉世から油揚げの入った皿を受け取る金狐の姿があった。
「お母さん。ありがとう!」
満面の笑みで金狐がお礼を言う。
莉世は我が子を見るような眼差しで金狐を見ていた。
なんか、あたしより親子に見える…。
金狐はスキップしながらリビングまで来ると、テーブルに油揚げの入った皿を置いた。
そして、ソファーに座ると油揚げを食べ始める。
手と口周りが油でベトベトになっても嬉しそうに食べている。
1300年生きてるんだよね?
子供にしか見えない。
そんなことを考えながら、柚葉は金狐を見ていた。
「あれ…?お母さん。銀狐と奏は…?」
「なんか調べるって出ていたわよ」
「なんか…?なんだろう?」
「お母さんを襲った陰陽師を探してるんだ。その為に陰陽師のことを調べてる」
「お母さんを襲った…、あの…」
「ちなみに柚葉が初めて鬼に追いかけられたのも、そいつが原因らしい」
「なんで、そんなことわかるのよ?」
「奏様が、鬼から、あの陰陽師と同じ妖力を感じ取ったって言ってた」
「妖力…?陰陽師から妖力って…。神通力じゃないの?」
「陰陽師は何かに操られて柚葉とお母さんを襲った。その何かの妖力だ」
「それって、陰陽師が物の怪に取り憑かれてるってこと?」
「…たぶん」
金狐は興味なさそうに言った。
金狐の視線は目の前の油揚げに釘付けになっている。
「…そう」
これ以上聞いても無駄だと、柚葉はテレビをつける。
テレビではニュースが流れていた。
とある学校で校舎ごと先生や生徒が消えたというニュースだった。
消えた?
そんなバカな…。
その学校に来ているアナウンサーが学校の敷地を指さして話している。
その学校の敷地には建物はおろか、人一人いなかった。
そこに建物があった痕跡はなく、更地になっていた。
ただ、よく手入れされた校庭だけが不自然に残っていた。
花の咲き乱れる花壇に澄んだ水の池、緑の木々が何事もなかったかのように不自然に残っている…ように見えた。
「フェイクニュース?…にしては非現実的すぎる」
そんなことを言いながら、テレビを見ていた。
「金狐ちゃん。お母さんね。買い物に行きたいんだけど。一緒に来てくれる?」
「おっ!行く行く!」
そう言って、金狐は残りの油揚げを口の中に詰め込んだ。
どんだけ、お母さんが好きなんだ…?
柚葉は半ば呆れながら金狐を見ていた。
「金狐ちゃん。手と口洗ってね。油でベトベトよ」
「はーい!」
元気に返事をすると、金狐はキッチンに行き口と手を洗った。
「金狐ちゃんいないから、柚葉は一人で神社の敷地から出たらだめよ」
「わかってるって」
「じゃあ、行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
柚葉はソファーに寝転んだまま、莉世と金狐に手を振った。
それから、ぼんやりとテレビを見ていた。
「お腹空いた」
そう呟くと柚葉はソファーから起き上がった。
そして、キッチンに行ってお菓子を探す。
「あれ…。お菓子ない…」
そう言うと、柚葉は玄関から外に出た。
「ちょっとなら、大丈夫よね。すぐ、そこのコンビニに行くだけだから」
柚葉は自分に言い聞かせるように言うと、神社の敷地から出た。
そして、コンビニに向かう。
「おい。そこのおまえ」
声のする方を見ると、同じくらいの年齢の見たこともない少年が立っていた。
それは管狐の鳴珂の主、佑だった。
瞳の瞳孔は縦長のスリット状に変わり、人間のものではなかった。
物の怪…?
妖力は感じる。
でも、神通力も感じる。
物の怪に神通力はないはず。
「あなた、陰陽師…?おかしいな。妖力も感じるのに…」
言いながら、金狐が言っていた陰陽師の話を思い出す。
まさか…。
しかし、不思議と恐怖はない。
相手から敵意を感じないからだろうか。
「なぜ、わかる?おまからは神通力を感じない。わかるはずのない事だ…」
「神通力がなくてもわかるし、見えるの。あなたの目の瞳孔、縦長になってる。人間の目じゃない」
「…見えるのか?神通力がないのに…」
「うん」
「なんてことだ…」
佑は落胆したように、ため息をついた。
「おまえに再会する時を、ずっと待ち焦がれていたのに…」
「再会…?あたしと会ったことあるの…?」
「ずっと、昔にな…。おまえは覚えていないだろうが」
「…」
懐かしいような…。
何だろう?この感じ…。
それと、この違和感…。
この人の体の持ち主の言葉ではないとわかる…、この感じは…。
「…あなた、その人に憑依してる物の怪ね?人間じゃないのがわかる」
「…!」
佑は言葉を失い、柚葉を見た。
「そこまで、わかるのか…?神通力どころか、妖力も持たないおまえが…なぜ?」
「妖力?何言ってるの?あたしは人間よ。妖力なんてあるわけないでしょ」
「人間か…」
佑は笑う。
「そうよ」
柚葉はムッとしたように言う。
「力が眠っているのか…?だとしたら、力を目覚めさせるにはどうすれば…」
佑は独り言のように言う。
「何を言ってるの…?」
「…とりあえず、帰る。今しばらく、おまえは天狐に預けておく」
「え…?」
「また、会おう。詩花」
そう言うと、佑は背を向けて歩き出す。
「え…?詩花?誰のこと…?」
それには答えず、佑は歩いていく。
「ちょっと…!」
佑は柚葉に構わず、歩いていく。
「何なの?」
今日、初めて出会った物の怪憑きの人に上から目線で色々言われて…。
さらに、違う名前で呼ばれる…。
これって…何なの…?
誰かと間違われた?
考え込む柚葉だったが、しばらくして顔を上げる。
「コンビニ行こう」
そう言って、歩き出す。
考えても答えが出なかったのだろう。
考えるのを止めたようだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!