「柚葉」
柚葉の目の前に一人の巫女が後ろ姿で立っている。
そこはとある古い造りの見たことのない神社の参道だった。
微かな灯篭の灯りに映し出される姿が闇夜にも関わらず、鮮明に見えていた。
本殿の方を向いて背を向けたままの巫女の髪は、一つに束ねられ腰まで伸び艶やかに揺れている。
参道の両端には赤い灯篭が建ち、等間隔で鳥居から本殿まで続いている。
赤い灯篭の中は電球ではなく、蝋燭が入っていて火をともしてあった。
「誰?」
「私は詩花」
巫女が答えると同時に気持ちのいい夜風が吹いて束ねられた長い黒髪が揺れる。
「詩花!?」
「驚かせて、ごめんなさい。あなたの夢の中にまで出てきて」
「え…?ここ、あたしの夢の中?」
「そうよ」
「あなたは誰なの…?物の怪が探してる。奏はあなたのことを隠そうとしてるのに…」
「そう。そうよね」
哀しそうな声で言う。
「私はこの世に生まれてはいけなかった。奏を苦しませるだけだから」
「どういう意味…?」
「柚葉が会ったのは玉藻前の九尾の一つが呪いになったオサキ狐よ」
「呪い…?呪いが意志を持ってるの?」
「そうよ。本体の玉藻前が封印された時に九尾は各地に飛び去り呪いとなったの。玉藻前の分身として、記憶も共有して本体の代わりに動いている」
「そんなものがいるなんて…」
「玉藻前はオサキ狐を動かして、私ごと私の妖力を自分の中に取り込もうとしているの」
「どうして?」
「玉藻前は奏との戦いで力が弱まり封印された。力が復活すれば封印を解くことは玉藻前にとって容易いこと。玉藻前は復活するために私の妖力を欲している」
「つまり…玉藻前は復活するために、あなたを取り込もうとしてるってこと?」
「そう。でも、私を守るために、また奏が傷つくと思うと…」
詩花は哀しそうに背を向けたまま、うつむいた。
「ちょっと待って。またって、どういうこと?」
「私は数百年前に一度死んでるのよ」
「そして…また、生まれた?」
「そうよ…」
そう言うと、詩花は背を向けたまま顔を上げた。
「だから、あなたにお願いがあるの。奏の力になってほしいの」
「あたしに?あたしには神通力も妖力もない。何の力にもなれないのに…」
「そうよ。あなたの中には何もない。力を持てる枠があるのに空っぽなのよ。だから、物の怪を取り込み、その力を使うことができるの」
「え…?そんなことできるの?」
「もうすでに、あなたの中には管狐の鳴珂がいるわ。一度は奏の術で天に昇っていたのだけど。微かに残った鳴珂の意識が妖力として残っていたの」
「奏の術で天に昇った?」
「柚葉に取り憑いていたのよ。眠ったままだったから、何も覚えてないでしょうけど」
「…知らなかった」
柚葉は呆然とした顔で言う。
「今、主である陰陽師の鳴珂への想いが強くなってきていて、妖力が増してきている。もうすぐ鳴珂は復活する。鳴珂は他の式神と違って、陰陽師に大切にされてきた。式神は主に大切にされればされるほど、その力を増していく。その想いは消滅しかけた式神を復活させることだってできる」
「それで…つまり、あたしの中にいる鳴珂って管狐は力が強いってこと?だから、その鳴珂の力を使えってこと?」
「そうよ。何の力もない柚葉でも鳴珂を使えば戦える」
「…そうね。それが本当なら」
「私が戦えたらいいのだけど。私は封印されてるから」
哀しそうな声で詩花は言う。
「封印…?どこに…?」
「それは言えない。玉藻前に知られてしまうから」
玉藻前が詩花を狙っていることを考えると、誰にも知られない方がいい。
それは、わかる。
でも…
「なぜ、あたしに?」
「あなたなら、できるからよ」
「あたしに…?」
「そうよ。だから、お願いね。奏の力になってあげてね」
明るい声で言うと、詩花は消える。
「あ!待って!詩花!」
まだ、聞きたいことが…。
奏と金狐は鳥居の前に来ていた。
「銀狐を助けにいくのか?」
二人の背後で言ったのは玄弥だった。
髪は白髪に瞳は赤く、瞳の瞳孔はスリット状の狐の瞳孔に変わっている。
「天狐か…」
言いながら奏は振り返る。
「詩花はオサキ狐に差し出せない。それはオサキ狐と戦うことを意味する。それでも行くのか…?」
天狐は真剣な眼差しで言う。
「止めるのか…?」
「いいや。止めても無駄なのはわかっている。おまえのことだからな」
「じゃあ、何だ?」
「詩花を連れて行かなければ、オサキ狐と戦うことになるじゃろう。しかし、大切なものを失ったままの今のおまえの心は弱い。陰陽師の力の強さを左右する心がだ。ましてや、おまえの神通力の一部は玉藻前に奪われままじゃ。本領発揮できない状態じゃ。このままではオサキ狐を倒すことは難しいじゃろう」
「それでも、銀狐を見捨てることはできない」
そう言うと、奏は背を向ける。
「奏。無理はするなよ。おまえは誰かを救うために自分を犠牲にしすぎる。それが心配なんじゃ」
「そんな心配、俺にはいらない。俺の体は普通の人間とは違う」
「肉体のことではない。おまえの心のことを云ってる。おまえの肉体は傷ついても元に戻るが、心は違う。大切なものを失い傷ついてきたおまえを何度も見てきた。そして、今も立ち直れていない。だから、心配なんじゃ」
「玉藻前を倒すまでは、何かを失うのは避けられない。今までだって、どんなに手を尽くしても大切なものが手から零れ落ちていった。きっと、これからも変わらない。だから、柚葉とは距離を置いている。巻き込まないように…」
奏は哀しそうな眼差しで言う。
「そうか…」
天狐は軽く深呼吸をする。
「でも、忘れるな。儂は死ぬことはない。金狐や銀狐だって、おまえ次第で死ぬことはない。おまえが全てを失っても、希望さえ見失わなければ儂だけでなく金狐や銀狐を失うことはないのじゃ。おまえが全てを失っても儂らは、おまえの傍にいる」
天狐は熱のこもった眼差しで言う。
「そうだな。今までもそうだったな」
今までのことを思い出してか、懐かしそうに笑う。
「みんなには感謝してる。みんながいなかったら俺は、きっとおかしくなってた。ありがとな」
天狐は、そう言った奏に包み込むような穏やかな眼差しを向ける。
金狐も嬉しそうな笑顔で奏を見ている。
「それじゃあ、行ってくる。大事な仲間を助けに」
そう言うと奏は鳥居に向かって歩き出す。
金狐も後を追う。
「あ…天狐」
奏は立ち止まる。
「なんじゃ?」
「また、後でな」
背を向けたまま、奏は言うと再び歩き出す。
そんな奏を笑顔で天狐は見送っている。
そして、二人の姿が見えなくなる。
「無事帰ってくるのを待っているぞ。奏。金狐」
そう呟くと、天狐は鳥居に背を向けて歩き出した。
そこは住宅街の一角にある寺だった。
普段は静かで落ち着いたたたずまいの寺だった。
しかし、今は殺伐とした光景が広がっている。
門をくぐり、寺の境内に入ると幾つかの死体がまばらに転がっていた。
死体は佑の同級性の栗田と同じ水死体だった。
晴れた日の寺に水死体、それは違和感のある状況でしかなかった。
境内に入って左手に鐘楼という、除夜の鐘などで鐘を鳴らす鐘が吊るされた建物があり、正面に本堂がある。
その本殿に入るまでの道のりにも、幾つかの水死体が転がっていた。
本堂に入ると、正面奥に本尊といわれる仏像がある。
その仏像にはロープで体を縛り付けられた銀狐がいる。
ロープには銀狐が動けなくなる呪符が張りつけられていた。
仏像の前で座布団に胡坐をかいて座っている佑がいる。
瞳の瞳孔はスリット状になっている。
今の佑はオサキ狐に意識を乗っ取られていた。
佑は仏像に縛り付けられている銀狐を見上げている。
銀狐は気を失っているのか、瞼を閉じている。
「なぜ、人間の陰陽師の式神となった?」
佑の言葉に銀狐は瞼を開ける。
「なぜ…だと?」
くだらない質問だというような口調でいう。
「おまえは妖狐だ。人間より遥かに力がある。心弱く、何の力もない人間の陰陽師の式神になど…」
佑は冷ややかな眼差しで言う。
「奏様の心は弱くなどない。違う種族である私や金狐を思いやり、なんのためらいもなく自分を犠牲にしてでも助けてくれる方です。自分の利益だけを考える他の人間とは違う」
銀狐は真剣な嘘のない眼差しで言う。
「だからこそ、奏様の式神でいたい。あの方を守りたい」
「だから、人間の…あの陰陽師の式神でいるのか…」
冷めた声とは裏腹に寂しそうな顔で言うと、銀狐に背を向ける。
「どこへ行く?」
「外の空気を吸ってくる」
そう言うと、振りかえる。
「心配するな。おまえを置き去りにして、この寺の敷地から出ることはない。あの陰陽師が…奏が詩花を連れて来るのじゃ。欲しいものを手に入れて、胸糞悪い陰陽師を八つ裂きにできるのに、そんなことするはずがないだろう?」
ニヤリと笑うと、本堂から出て行く。
本堂から佑が出て気配が完全に消えると、銀狐は横目で仏像の後ろの方を見た。
「大丈夫か…?」
温かく包み込むような声で言った。
仏像の後ろに隠れていた男の子がひょっこりと顔を出す。
まだ、小学校に入って間もないぐらいの幼い男の子だ。
「お兄ちゃん…」
不安そうに言う。
男の子は普通の人間だったが、少し霊感があるのか銀狐の姿が見えていた。
「大丈夫だ。私の主、奏様がきっと助けにきてくれる」
「本当?」
「本当だ。だから、それまで仏像の陰に隠れていてくれるか?あの少年に見つからないように」
「うん。あのお兄ちゃん恐いから。みんな殺されて…」
言いながら、不安になって男の子はうつむく。
「僕…殺されるかな…」
男の子は目に涙を溜める。
「そんなことは私がさせない」
「お兄ちゃん…」
潤んだ瞳で銀狐を見つめる。
「だから、何も心配しなくていい。奏様が来るまで隠れているんだ。できるかな?」
銀狐はニッコリ笑って言う。
「…うん」
男の子は嬉しそうに笑う。
「それじゃあ、隠れて。また、あの少年が戻ってくる前に」
「うん」
男の子は元気に言うと、仏像の陰に隠れる。
鐘楼の鐘の下、階段のある場所にオサキ狐に意識を乗っ取られたままの拓が座っていた。
そして、雲が流れる青空を見上げている。
「嫌な天気じゃの」
そう言うとため息をつく。
「物の怪を思いやる人間か…」
呟くと瞼を閉じる。
物思いにふけっているのか、しばらく瞼を閉じたままだった。
そして、不意に瞼から涙が頬に零れ落ちる。
「いたな…。そんな人間が…」
瞼を開ける。
「しかし…、裏切った」
憎しみの込った瞳で言うと、頬の涙を手で拭う。
「人間など、所詮、自分のことしか考えてないのじゃ。どんなに綺麗ごとを云おうとな…。すべて自分のためじゃ」
唇を噛むと、また涙が零れ落ちる。
怒りに震え、噛んだ唇から血が流れる。
流れた血を手で拭う。
そして、手に着いた血を見る。
その眼差しは哀しみに満ちていた。
遠い昔に見たことのある、誰かの血…。
その血に似ている。
「なぜ、裏切った…?」
涙が溢れる。
「おまえが裏切るから…、殺してしまったではないか…」
そう言うと、うつむいて肩を震わせて泣いた。
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