イルン幻想譚

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10:森の黄昏(4)

公開日時: 2024年5月21日(火) 13:53
文字数:1,453

「今…のは…?」


 ハッと我に返ると、自分は変わらず窪地の焚き火の前に居て、そしてアークはなぜか疲労困憊したような様子でくったりとファルサーに寄り添っていた。


「だ…大丈夫ですかっ?」

「……ああ、大丈夫だ……」


 戸惑った様子のファルサーに顔を覗き込まれて、アークは微かにかぶりを振った。

 ファルサーにキスをされた時、それまで感じていた微妙な不快感が消えた。

 唇にキスをされたのは、記憶にある自身の生の中で、初めてのような気がする。

 まだ幼い頃、眠る前に養母がひたいにしてくれた以外に、他人の唇に触れられた事は無いように思うが、幼少期の記憶はあまりに遠くよく覚えていない。

 キスされたかったのかと問われれば、たぶん否と答えるだろう。

 だがあくまでもそれは "たぶん" であって、確信を持ってハッキリと拒絶したかったのかどうか、アーク本人にも判らなかった。

 ただ、ファルサーの顔が迫ってきた時、先程感じた頭痛と動悸も感じたような気がした。

 それを、本能が発する警告だとするなら、ファルサーの好意を拒絶するべきだったのだろう。

 しかし…。

 ファルサーの境遇に同情するのも、旅に同行するのも、本当の名を教えるのも、理性では間違った選択だと思っている。

 間違っていると解っていても、自分はその選択を捨てる事が出来なかった。

 今も、なぜかファルサーを拒絶する気にはなれないまま、その行為を受け入れてしまった。


 様々な才に恵まれながら、運には見放されているファルサー。

 孤立してしまった彼の立場、追いやられるようにしてアークの住まいを訪れた経緯。

 どんなに間違っていても、手を差し伸べずにいられなかった。

 尊大な態度や突き放すような物言いで隠せたはずの小さな心遣いを、ファルサーには見透かされてしまった。

 そして、ファルサーから返される好意が心地良かった。

 どんなに本能と相反していたとしても、アーク自身にも止めようが無く、ここに至るまでファルサーと共にした道のりは、アークの想像を遥かに越えて充実していた。

 この先の未来に訪れる後悔がどれほどのものか解っていても、他の選択肢を選ぶ事など出来なかった。

 そうして、ファルサーの気持ちを受け入れると心に決めた瞬間に、本能からの警告のような頭痛と動悸が、綺麗さっぱり消え去ったのだ。

 人を遠ざけるために、アークは常に相手が少し不愉快に感じるような尊大な態度を取っている。

 ルナテミスにやってきた時、ファルサーはそんなアークに向かって逆らうような態度は一切取らなかった。

 それは彼の生きてきた履歴ゆえの態度だ。

 奴隷として散々に踏みにじられてきたファルサーは、心に重い屈託を抱えていた。

 だが、アークがファルサーを一個の人格だと認め、それを受け入れようと思った瞬間、なぜかファルサーの心に重くのしかかっていたそれらの屈託が取り払われ、彼がアークのためならばその生命すらも惜しまないと思っている気持ちが伝わった。

 そして、それまでおのれの心に突き刺さっていた、このままゆけばファルサーをただ失ってしまうのだ…という、不安と傷みがないまぜになった棘が、不思議と感じられなくなった。

 ただ、ファルサーに出逢えた歓びと、彼と一つになった安心感だけがある。

 人間リオンの町で偶然に小さな友情を得た時に感じた幸福感よりも、遥かに大きな満ち足りた感覚。

 アークは今まで生きてきて初めて、一人では無い事がどういう事なのかを知ったような気がした。

 しかし同時に、まるで人間リオンの大きな国を一つ滅ぼしたような、それに匹敵する魔力ガルドルをいっぺんに使い果たしたような、酷い倦怠感にも襲われていた。

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