イルン幻想譚

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10:森の黄昏(5)

公開日時: 2024年5月27日(月) 13:25
文字数:1,564

 心配げに覗き込むファルサーに、アークは何事もなかったような顔を向ける。


「君こそ、大丈夫かね?」

「え……、あ、はい、なんでもありません」


 改めて問われて、ファルサーは首を振った。

 たぶん、気の迷いのようなものだったのだろう。

 虐げられるばかりだった自分が、なにもかもを肯定してくれるアークと過ごす時間の中で、そんな奇妙な幻覚を見てしまったのだ。


「ねえ、ディザート。どうやったら僕の気持ちを、正確にあなたに伝える事が出来るんでしょう?」


 アークを想う気持ちは、ファルサー自身でさえ極端に相反していると思ったし、それを言葉にして伝える事など、到底不可能だ。

 自分がどんなにアークを傷付けたくないと思っていても、必ず最後は裏切る事になる。

 けれどこの止めようもない感情の迸りや、結果必ずアークの期待には応えられずに傷付ける事になろうとも、自分の気持ちは変えられない事を、どうしても伝えたかった。

 そんなファルサーの苦悩に、アークは簡潔な返事をした。


「君の考えている事なんて、口に出さなくても私は知ってるよ」

「本当に…?」

「ああ、解ってる。君が私をどれほど大事に想ってくれているか、君を失ったあとの私の心情を慮って、どれほど苦悩しているかも」


 やや酷薄にも思えるあの鋭い視線で、アークはファルサーの顔を見る。


「ディザート……」

「そんな顔をするな。これは私が自分で選択した結果でしかない。君が後ろめたさを感じる必要など無い」


 アークの両手がファルサーの頬を包み、薄く柔らかい唇が、しっとりと触れてくる。

 本当に全ての気持ちを読み取られていると、ファルサーは思った。

 アークからキスをして欲しいと、思っていたからだ。

 ファルサーがアークにキスを返すと、アークが言った。


「そんな事をしたら、君は一生後悔するだけだ」

「え…」


 ファルサーの心を過ぎった気の迷いまでも、アークは見透かしていた。


「君は今、君に与えられた使命を放棄してしまいたいと考えた。だが、それをしたら、君は必ず後悔を覚える」

「しかし、明日の危険は回避出来ます」

「それでどうするのかね? 時が経てば故郷に残してきた母親の事も気掛かりになるだろう。君の矜持も傷付くだろう。死が訪れた時に、君の手に残るのは後悔だけになる。私に、そんな姿を見届けろと、君は言うのか?」


 アークの言葉の、全てが真実だった。

 生まれながらの剣闘士グラディエーターとして人格も感情も否定され、理不尽な討伐を押し付けられた。

 それでも、今でも自分はそのちっぽけな矜持を握りしめて、手放す事が出来ないままだ。

 アークにこれほどまで魅了されたのも、元を辿ればそれが理由なのだから。

 透明な青い瞳が、心の奥底までを鋭く見透かしてくる。


「こんな時に、こんな事を思うのは、おかしいのかもしれません。あなたが僕の気持ちを察する事が出来ると言うなら、もう感じ取っていると思います。でも、僕はどうしても、自分の言葉であなたに告げたい。僕が、あなたを愛しているという事を」

「その言葉の意味を、私はたぶん正確に理解出来ないと思う」

「それでも、構いません。あなたは僕の好意を受け入れ、僕の無礼を許してくれました。僕を尊重し、僕の人格を肯定してくれた。もし僕が奇跡的にドラゴンの元から生きて戻って来られたら、僕は王に国外追放を願い出ます。僕の全てを、あなたに捧げたい。例えそれがあなたの時間の中のほんの一瞬であったとしても、僕はあなたに "幸せな時間の記憶" を残してあげたい。あなたを取り巻く孤独の中で、心の慰めになるような時間をあなたに残したいです」


 ファルサーは、その目線でアークの全てを愛でているようだった。

 髪を梳く指先の感触が、不思議なほどアークを夢見心地にする。

 しかしファルサーは解っていない。

 最後には、彼の言葉の全てが欺瞞になってしまうという事を。

 そして、アークはそれを知っていた。

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