日付は変わり一〇月九日の〇一・三〇。ゲルダ・ウル・ヴァルデス准将は今回の軍事作戦にいたる経緯及び自らの立場を明らかに、あるいは強引に承諾させる目的でフランツ・ゲッテンバーグ提督の招聘に応じ『ベルリン』の提督執務室へ赴いていた。
ゲッテンバーグの、これは用意周到に計画された侵略であるとの主張に対し、ゲルダとその参謀東雲中尉はあくまで不穏分子らの蠢動に対しての平和維持活動。同盟関係を反故する物ではないとの主張を曲げなかった。これにドイツ側は態度を硬化させた。
提督は二人に椅子すら奨めず、ゲルダはこの質疑応答は法廷に等しく、不当な扱いとして連邦協定に基づく対応を求めた。
列席していたドイツ側のある士官は、彼が激高し腰のサーベルを抜くのではないかと冷や冷やしたと言う。
そんな中、もう一方の当事者ルナン・クレールが女性従者一人を引き連れて来室したのである。彼女の出で立ちにその場の全員が思わず息を呑んだ。
ルナン・クレールは儀典用深紫の燕尾式軍服に白の乗馬ズボンにブーツ。頭にはナポレオン型の二点式軍帽で現れた。初めに帯刀するサーベルと白手袋を従者が持つ豪奢なクッションの上に置き(一切の抵抗をしないの意。白手袋は銃砲を意味する)恭しくゲッテンバーグ提督に対して捧げ持った。
取り巻きの一人がそれを受け取ると、ルナンは目を伏せたままその場で頭を垂れ恭順の意を示し
「栄えあるドイツ大海艦隊並びにフランツ・ゲッテンバーグ閣下に対し、我自由フランス海軍麾下ルナン・クレールは不測の事態の上であるとは申せ、ご領内にあって近親騒がせましたる事、誠に遺憾であるとの意を表すものであります」と、朗々たる声量を以って謝辞を発したのだった。
接見の冒頭でいきなり辞宜を正す者を無下には扱えないもの。そこでゲッテンバーグはルナン・クレール自身が如何にして今回の騒乱に関わったのかを問うた。
これに彼女は自らの任務はプロイセン内に拘禁中であった、ミハエル・デュシャン氏を奪還するにあり、またこれが極秘とは言え正式に邦からの命であった事。更に本来の計画とは異なり戦禍を逃れんとした千名近い市民を伴ったまま脱出せざるを得なかった要因は本件の唐突な制圧作戦に影響された物との経緯を詳らかに報告した。
「貴官は我が臣民をかのデュシャンなる者の盾とするつもりであったのか?」これにルナンは
「さにあらず!我が主は『二つに分かれたとは言え全て我が同胞。ここに集う者らの誰一人置いていくこと罷りならぬ』と仰せになりました。小官、不肖なれども主命を果たせたものと」こう頭を垂れた。
次に『聖護の印』の出所と真偽に関しては
「主のご母堂クリスティアーナ様から、かの練習戦艦『ジャンヌ・ダルク』とも共下賜された物であります。ご母堂の出自に関するは畏れ多く、小官の口の端に乗せることも憚られましょう」と、匂わせるのみに留めた。
「痴れ者め」ゲッテンバーグはさらりとサーベルを抜き払い、ルナンに向け
「貴官は全て自分の責であると言いたいようだが」と、言った。
ルナンはここでも毅然として面を上げた。
「お察しの通りであります!私めには大それた事と充分承知しておりますが、我が艦の多くは練習生にして未成年であります。願わくばその者たちには閣下の恩情を持ちまして解放して戴きとう存じます」これに対してゲッテンバーグ
「それでは何か貴官は、かつてのラ・ピュセルが如くに火刑の憂き目にあっても厭わぬと、そう申すか!」と、更に切先をルナンの顔に向けるも、碧い瞳をらんらんとさせただ一言だけ
「御意‼」全員が身震いするかのような大音声を上げたのだった。
誰もがその迫力に気圧されたようになっている所へただ一人口を開いたのはゲルダであった。
「お斬りあそばせ。この者いずれ我らにとって大きな禍いとなりましょう」と。
「控えよ!全ては私の裁定に依る!この場にあっては政治屋の思惑も、坊主共の謀も預かり知らぬ事。ましてや貴様の様な火事場泥棒の進言なぞ用を為さぬ!」
ゲッテンバーグは取り巻きたちに目配せすると、その中の一人がゲルダの手に有無を言わさず手錠を掛けた。
「こ、これはあまりにも無礼でありましょう!」このカナン・東雲の抗議を無視したままゲッテンバーグはゲルダに向けて
「貴官は何者であるか?」と、問わば
「アトランティア連邦海軍、第五〇二独立遊撃艦隊司令ゲルダ・ウル・ヴァルデス!」淀みなく答えた彼女を蔑む眼で一瞥した提督は
「貴官はな後ろ盾を失った小娘よ!お前の国許はこの件に関して一切預かり知らぬと正式に外務局を通じて表明した。今や下劣な戦争犯罪人だ」と、勝ち誇ったが、なおもゲルダは眉一つ動かさない。
ゲッテンバーグは少し溜飲が下がったか、サーベルを鞘に戻し、
「ルナン・クレールとやら、貴様の言や見事。裁定を下す。かの戦艦を率いて即刻この軌道要塞を去れ!一つ条件がある。いかなる理由と言えど、我が領内に留まるを許さぬ。宙境ラインのみを目指すと言うなら当方は一切の妨害を行わないとものとする。確と心得よ」
「身に余る光栄にございます。国許に戻りましたればご英断の件、主の耳に入れまする。さすれば後日やんごとなきお方からのお言葉が、大帝マクシミリアン七世陛下の御許にもたらされましょう」
ルナンは立上り二点式軍帽を小脇に抱えて提督に一礼すると
「礼服のサイズがまるで合っておらぬな……貴官の正式な官位は?」ゲッテンバーグはここで初めて少しばかり笑みを浮かべて問うた。これにルナンは敬礼を送った後に
「恐れ入ります。小官は一介の海軍少佐に過ぎませぬ」と、答え体をゲルダに向けた。
「お初にお目にかかります。ルナン・クレール海軍少佐であります。ゲルダ・ウル・ヴァルデス閣下」これにゲルダは黙って肯くのみ。
「これにて失礼いたします。このような会見、誠に遺憾であります。なれど」その後のルナンのゲルダ評は辛辣であった。
「やりようはいくらでもありましょう。小官なれば、各市政庁にのみ派兵。警ら活動に終始し大海艦隊の帰着を待ちまする。ゆるゆる進めるのも軍略の一つかと」次に表情一つ変えずにこう結んだのだった。
「ヴァルデス様あなたは……つまらぬお人だ」
ルナン・クレールはきれいに回れ右をすると、燕尾服の長い裾を床に引きずる様にしてその場を立ち去った。ビジネス・スーツの従者が一度だけゲルダと目を合わせ一礼して彼女を追った。
カナン・東雲は傍らに立つ将帥を見て驚愕した。ゲッテンバーグの詰問には一向に動じなかった褐色の虎が、肩を震わせ手錠を掛けられた指が折れるのではないかと思われるほどに強く握りしめられていたのだった。
この後ゲッテンバーグ提督は重巡『ヒンデンブルグ』は接収。残された士官、乗員に関しては他の艦艇への移乗を許可し即刻撤収を命じた。但し二名の上級士官に関しては身柄拘束の上『ドリッド・ベルリン』への収監を通達。二人を送り出したのだった。
監房代わりの士官室。二人は一つしかない舷窓の側に佇み、戦艦『ジャンヌ・ダルク』が巡洋艦から船首を引き抜く様を無言で見つめていたが、カナンが口を開き
「ま、今のうちに辻褄の会う“絵”を描いときまひょ。ゲルダさ……!」
カナンは声を失った。傍らに立つゲルダが大粒の涙をはらはらと溢していたのだった。
「つまらぬお人か……我は敗れた。あの、ルナン・クレールに……これが敗北か」
カナンはゆっくりと愛しい人を仰ぎ
「今回は我らに分悪すぎたんどす。アーサーケイリー閣下の死がなんもかも狂わしてもうたんどすえ……」と、諭すもゲルダは何度も頭を振って
「それは違うっ!カナンよ。私だ。全ては私の無為無法が招いた敗北!あ奴の言う通りにやりようはいくらでもあった……」わななき、顎の先から大粒の涙が滴り落ちる。
カナンがその頬に手を添えれば、ゲルダは両手の枷を差し出すようにしてこう言った。
「笑え!カナン。これがこの姿が偽らざる本当の姿。これまでの武功も何もかも義父エドガー・ブライトマンとアーサー・ケイリーのお膳立てあっての物!私自身は何も持ち得ない只の小娘でしかないんだぁ!」遂にゲルダは膝をつき枷で囚われた両手を床に付けた。
カナンも膝を折りゲルダの頭を優しく自分の胸元へと抱き寄せた。
「それにお気づきにならはったか。なら前に進めまっせ」カナンは母が我が子を抱きとめるようにしてゲルダの頭を撫でてやった。
ゲルダはカナンの胸の中で嗚咽を上げながら襟元をきつく握ると
「カナン……ボクはぁ姉様の『強くなりなさい』をねぇ……」鼻をすすり上げながらゲルダは一度くしゃくしゃになった面を上げて、目に溢れる涙を浮かべるカナンに
「どこかで……はき違えていたんだぁー!」こう声の限りに叫ぶやまたカナンの胸の中で声を上げ始めた。
全くの童女に立ち返ったゲルダをカナンは徐に口を開き、優しく説き始めた。
「ええやろう。もし、あんさんがゴタゴタ言い訳するなら見限ったやろうが。決めたで。うちはこれからあんさんの女房になりまひょ」そして
「多うの英傑はいっぺんはおっきな負け戦を経験しとります。後に名を成した者たちは皆、そこから這い上がったんどす」と、面を上げさせ涙を拭ってやりながら
「『人生に敗北は付き物。何度負けても恥じ入る必要はない。ただ一つ恥ずべきはそこから学ぼうとしない事だ』と。ゲルダはん、あんさんもうちもまだまだ。何度でも立ち上がればええんでっせ!そして、孤高のサーベルタイガーとなって大空へ駆け、天下獲んなはれ!」と、言った。
ゲルダはしゃっくりを上げつつ頷き
「判った!このままでは済まさぬ。……でも今はぁ」声を震わせた。カナンも鼻をすすり上げ、にこっと正座。膝をたたいて両手を大きく広げた。ゲルダは飛び込むようにカナンの腰に縋りつきまた大声を上げて泣き伏した。
「泣き虫の虎はんだことぉ。思いっきり泣いたらええのぇ。うちは女房なんどすさかい、また泣きとうなったらなんでも話しとくれやっしゃ。このお姿は誰にもいいまへん。墓場まで持っていくさかいなぁ」
ゲルダの背中を何度も擦るカナンの手元が陽の光を浴びたように明るくなった。方向転換を終えた戦艦『ジャンヌ・ダルク』から発せられた噴射炎であった。カナンはそのままの姿勢で舷窓を睨み上げると
「覚えとくがええでルナン・クレール。うちんひとを泣かせたお前を許さへん!必ず討ち果たしてみせるよってなぁ!」ゲルダには聞こえないようにして呟いた。
「ありがとうマークス。雷電を助けてくれたのね」
戦艦『ジャンヌ・ダルク』の中央船体ブロックに集結したアメリア・スナール麾下のグリフォン・ディファンス隊の面々が寛ぐさ中、キサラギ・スズヤは壁面に装備された液晶モニターの前で安堵の息をついた。
モニター画面は音声のみ。ケイト・シャンブラーがキサラギの身柄を確保させんと、ただ一機派遣したアクティブ・ドローンマークスは中央船体底部にしがみついた状態での報告を行っていた。
「いきなりカーゴが放出されて、その中にスサノオ型動甲冑の人物を発見した。オレのAIはそれが君である確率を七〇%以上とはじき出したんだ」
「それで雷電の様子は?」キサラギは像を結ばない画面に詰め寄る。
「回収時は生きていた。だが酷い状態だ。あの子の気圧補正は機能していなかったよ。オレはあの子を腹に納めてから巡洋艦へ収容を要請。彼らは受け入れたよ。その後の生死はわからない」
「そう……」キサラギは九二式のヘルメットを脱いだ状態で首をうな垂れた。
「その時だよ。収容デッキに医務班と一緒に到着した、スサノオ型甲冑を着たショートカットの少女がオレにこう言った」これを聞くやキサラギはさっと顔を上げて
「飛燕ちゃんだ」と呟いた。
「『キサラギ・スズヤ!これで貴様はわしん敵や。雷電の仇は必ず討つよってなぁ』一言漏らさず伝えろと言われたよ」
「……ああ、飛燕、雷電」キサラギが苦悶の表情を浮かべるすぐ傍らで
「マークス、船団の様子は?」と、問うたのはやはりヘルメットだけ脱いだアメリア。
「現在、船団は宙境ラインをあと数時間で越境する所まで来ています。軌道要塞『セグント・マドリッド』に到着するのは本日〇八:〇〇頃かと」との概況を報告した。
「ご苦労マークス。これからはどうする?」
「『タービュランス』へ戻ります。兄弟たちが心配です。こちらの被害も大きかったので……」アメリアが了解したと肯くとマークスは
「今ケイトが……ルーヴェンスを連れてこちらへ向かっています。連絡艇到着まで五分程です」
「ルーヴェンスに何かあったの?」キサラギがまた画面に詰め寄る。
「詳しい事はケイトに聞いて欲しい……これで失礼します」
キサラギは物憂げに顔を両手で覆っている。そこへロベルト・マクミランが左手に包帯をまいたまま歩み寄り
「キサラギ・スズヤ大義!あの女武者を討ち獲ったか」と、言い放ったのだった。
キサラギは無表情で立ちすくむロベルトを睨みつけると
「雷電は……友だちでした!」と、彼の眼前に立った。
「それがどうした?」ロベルトはあくまで平然とキサラギを見つめ返すのみ。そんな彼の前で遂にキサラギは大粒の涙で頬を濡らしながら
「先輩、あ、あたし友達を殺してしまい……ましたぁ」と、胸元に飛び込もうとしたキサラギは思いっきり頬を張られた。
区画中に響きわたる乾いた音がそこに居合わす一同の視線を集めた。
「泣き言は聞かん!立てキサラギ。立てぇー!」キサラギの背にロベルトの怒号が降りかかる。キサラギは立ち上がるもまた反対側の頬を打ち据えられ、また倒れた。
「オレは言ったはずだ。『戦士は修羅の道だ』と。戦場で相まみえれば、それが友であろうと兄弟であろうと討たねばならぬ。お前はそれを自分で選んだはず。立てぇ!」
よろよろと立ち上がるキサラギ。アメリアは彼を止めようともせず目を瞑る。
「選べ!キサラギ。戦士として生きるか、それとも剣を置くかを」ロベルトは無傷の右手の拳をキサラギの顔前にぐいっと突き出した。
「戦士として生きるならこの拳を握れ!さもなくばその脇差を渡せ!」こう言った後に彼は少し声のトーンを落として彼女を諭すように
「普通の女の子として生きろキサラギ。お前は気持ちの優しい娘だ。クレール少佐の帰りをルーヴェンスと共に待つんだ。そして楽しく暮らせ。それでもオレとお前の関係に変わりはないぞ」
これに対してキサラギはかっと眼を大きく開き
「イヤだぁぁぁー!」と叫ぶや自分の拳をロベルトのその上に叩きつけこう言ったのだった。
「あたし知っています。運命は自分で切り開くしかないってぇ!もがいて、抗って藪を漕ぐみたいにして進むしかないって。そうやって生きてきたんだぁ!」キサラギは片手で涙を拭い、眦を上げ自らの決意をロベルトに告げた。
「ルナン・クレール様と共に征きます!そう決めたんだ。師匠の後を追い、いつしかこの“三ケ月燕”の紋を継ぐに相応しい女武者《あまむしゃ》になります!」
ロベルトは自分の拳の上で震えるキサラギの拳骨を見据え
「……このバカ野郎」と呟いた。キサラギは彼の拳を次にぐいっと両手で握ると
「先輩、いやロベルト・マクミラン。聞いて。私、あなたが好き!」ロベルトは少し目線を下げた。それでもキサラギはやめない。
「ずっとあなたしか見ていなかった。今はまだ未熟だけど。あなたが私を歴とした戦士として、一端の女として認めてくれたなら」ここでキサラギはふうと息を付き
「しっかり愛して!」そして無言で顔を上げた彼のやや切れ上がった眼を真っすぐ見つめ
「いつの日か……あなたの子供を私に授けて!」思いの有りっ丈をぶつけたのだった。
ロベルトは拳を静かに下し、キサラギも彼の前で直立の姿勢を取る。
「……確と承った。だが男女の理はまだ先だ!……キサラギ、オレはお前を鍛えなおす!お前の名前を冠す抜刀隊を率いるほどになるまでなぁ!覚悟しろ」
「はいっ!」
敬礼するキサラギを残し踵を返すロベルトは
「一つ約しておく。……我が室の座しばらく空け置く。良いな」と、言うと一顧だにせず歩み始めた。
頬を上気させているキサラギの肩に、アメリアは神妙な面持ちでそっと手を置き
「キサラギ、艦橋へ出頭せよ。シャンブラー博士からお話があるそうだ」
「そうだ……!ルーヴェンス」キサラギは一転、笑みを浮かべて艦橋へと続く縦貫エレヴェーター目指して駆けだした。
別々の方向へと分かれる若い二人を見つつアメリアがボソリと
「全く不器用なカップルだぜ」と、呟いた。
キサラギは膝から崩れ落ちた。艦長用ブースの補助席でルナンは黙したまま戦艦の進行方向のみを見つめている。
「……ルーヴェンスのメモリーがオールロスト……」
「ごめんなさい。……これしか方法が無かったのよ」ケイト・シャンブラーはそう言いながら、艦橋の中央で両手を付いて愕然としているキサラギの背に手を添えた。
キサラギの前にはクロネコ型ドロイドがちょこんと背を伸ばすようにして座っている。それはキサラギには聴き慣れない初期設定された少女の声で喋り始めた。
「お初にお目にかかります。私、ゼネラル・ホンダ製ヒーリング・ドロイドCX-〇〇三であります。ご主人様、先ずは私にお名前を頂戴いたしとう存じます」
キサラギは彼の毛だらけの黒頭へ震える手を伸ばして嗚咽を上げ始めた。
「この小さな頭の中にもうあたしはいないのね……。一緒に海水浴したことも、勉強を見てくれたことも、金の熊さん亭での暮らしも……」きょとんとしている元ルーヴェンスと名乗っていたドロイドの顎の下に指を伸ばすキサラギ。
「あ、あたしと巡洋艦から飛び立って『プロイセン』の空を渡ったことも」鼻を大きくすすり上げたキサラギは無理やりぱっと表情を明るくさせると
「でも、きっと大丈夫。君とはまた家族になれるから……いいこと、君の名前はルーヴェンスよ。そして私はキサラギ・スズヤです」
クロネコは一度金色の眼を細かく点滅させながら
「名称登録・ルーヴェンス。キサラギ・スズヤ様ありがとうございます。ルーヴェンスとは地球における十五世紀フランドル派の画家ですね。立派なお名前を戴き身に余る光栄です。最初のオーダーは?」と、告げればキサラギは両手を大きく広げて
「おいで!ルーヴェンス。抱っこさせてちょうだい」と、言った。
「ハイッ末永うお願いいたします」ルーヴェンスが彼女の胸に飛び込むとそのまま立ち上がってクロネコの頭を自分の耳元に寄せてから何度も頬ずりした。
「ルーヴェンス、これからもいろいろ教えてね。それと私もいろいろ教えてあげる。あたしとルナンそして君がどんな暮らしをしていたかをね。大丈夫よゆっくり家族に……それでいいから」
キサラギは何度もクロネコの頭を撫でながら艦橋の最前列に居並ぶ監視窓列へと歩を進めた。それを見ていたルナンは唇を噛みしめ膝を叩く。ケイト・シャンブラーもまた両手で顔を覆っていた。
「君はねぇあたしに随分ひどい事も言ったのよ。その中にね貧乳、ド音痴ってのもあったわ」
キサラギに抱かれて気持ちよさそうに目を閉じて喉を鳴らしていたルーヴェンスは彼女の言葉の一つに耳をピクリ。ぱっちり目を開け
「キサラギ・スズヤ、ルーヴェンス……この温もりはどこかで……貧乳!ひんにゅうだぁ!」これにはキサラギも驚いた。新たにルーヴェンスと名付けられたドロイドの声は初期設定から、変声期を迎えた少年の物に変わり、がばっと起き上がるや二つの肉球でキサラギのほっぺをはさむと
「キサラギ無事だったか!こっちは大変だったんだぞぉ!」頓狂な大声を上げてから
「あの、アイザックとか言うイカレポンチとやり合ってなぁ。ぶっ飛ばしてやったんよ」こう捲し立てた後「ここ……何処?」キョロキョロあたりを見廻し始めた。
キサラギは思いっきりクロネコを抱きしめた。
「ルナァーン!ルーヴェンス帰って来たぁ!」自分の里親を振り返り、高々とルーヴェンスを頭上に差し上げたままで
「お帰り!ルーヴェンス。お帰りぃ!」とバレリーナのように辺りをくるくると回った。
ルナンは補助席から降りて、この光景を不思議そうに眺めるケイト・シャンブラーへと歩み寄りこれは如何なる事かと尋ねたが
「分からないわ。ルーヴェンスは第五世代。常に統合電算意識集合体ゾディアックとの連携が不可欠。それなのに彼は自らの意思でメモリーをゾディアックに預けていたことになる。……誰かの指示ではなくてAI自身の意思でそれを選択したなんて……プログラムの範疇を越えている」
「ボクは奴から深刻なダメージを受ける事を予想してメモリーを四重のブロックで保護しておいたんだよ。“キサラギ”と“ルーヴェンス”そして“貧乳”、“音痴”この四つのキーワードでボクはメモリーをゾディアックから取り戻した。」
ルーヴェンスの声にケイトは驚愕を隠しえず
「ゾディアックと種々のAIはそれを自らの力で新たに獲得したって言うの。ありえないわ」
「あ、あのぉオレよく判んないんですけどぉ、これは奇跡が起きたってのかい?」と、ルナンがケイトににじり寄って目線を彼女の巨乳に視線を注ぎつつ尋ねる。
「奇跡は起きる物じゃなくて起こすものよ!」
楽しそうに家族の復活を喜ぶキサラギを見据え、何やら学術的な文言を口にするケイトにルナンが
「二人の愛のぉ力なのかなぁ?」わざとらしく顔を覗き込ようにして巨乳をまさぐると、ケイトはさっとその手を逆手に握り返しては背中へねじ込んだ。“痛い痛い”と騒ぎ立てるルナン。
「全く手癖ん悪かおなごだことぉ!そげん事じゃっでぁアメリアから『同じ女として恥ずかしい。男に生まれてくれば良かったんだよ』って言わるっとじゃぁ!」腕を羽交い絞めにされながらルナンはまたいつもの
「な、なぜか皆さんそう仰いますのよねぇー!」を繰り返す。
「ルーヴェンスゥまたルナンが締め上げられてるよぉ」
「懲りないお人だ。放っておこうよ。キサラギ着替えなよ」
「その前にシャワーだね」
「お前の貧乳みても萌えねぇけどなぁ」キサラギはクロネコの後頭部を叩くとそのまま艦橋を辞していった。
後に残された二人の女子を眺めながら、隻眼艦長ルチアナ・ドレイクは溜息まじりに
「なんなんだろう?この人たち」半ば呆れて呟くが、周囲のクルーらが終始笑顔でいるのを見るや肩をすくめてから口の端をあげたのだった。
統合暦MD:〇一〇五年一〇月九日、〇九時三二分。戦艦『ジャンヌ・ダルク』は宙境ラインを越えて自由フランスの一邦国『セグント・マドリッド』の近傍宙域に到達した。
ここにルナン・クレールは『ミハエル・デュシャン奪還作戦』の全てを完遂したのであった。
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