キサラギが飛来したコルベット艦を撃退した翌日となる一〇月五日早朝。
満月が雲間から顔を出している間にギルド・ファームの城門から出発した、ルナン、マティアス、キサラギと相棒のルーヴェンスは、リアクターギルドを統括する責任者にして一族の長である長田なる老人を伴い、マティアスが運転する4WDに揺られて深い森林帯を抜け、『プロイセン』最大のレノン湖が眺望できる高台に到着していた。
「ご協力感謝します。ムッシュ長田。早速ですが無線機を」ハンナ・マティアスは天蓋だけで窓の無い運転席のドアを開け、木々がまばらな禿山のてっ辺に足を踏み入れた。昨晩から降り続いた雨の所為で草は水気を含んでいる。
天候は申し分ない。高台から南側数キロ先に展望できる湖面からは、朝もやが白いヴェールとなって水面全てを覆いその上空は雲一つ無い蒼穹が広がる。既に残暑の日差しが地上に注がれていた。
「今日は少し暑くなるな……」マティアスは三脚付き双眼鏡を覗きながら呟いた。彼女をはじめ他の女子組も迷彩柄の野戦服姿である。同系色のズボンに編み上げブーツ。ヘルメットは車に置きっぱなしにしてある。
マティアスは視線をそのまま右へ移し最大望遠に設定。朝もや煙るなか微かに遠望できるポツダム市の全景と湖岸に広がる軍港を視界に捉えた。
「無線機の感度は良好さぁ。管制官が”いつでもいいよ”だってさぁ。……本当にやるんかねぇ?お嬢さん方」
背後からの小柄でひょろっとした、この中では只一人男性となる長田の年の割に甲高く溌剌とした声に彼女は無言で肯いた。
「夜をついでこんな辺鄙な所まで何しに来たんだよ。メガネババァ」キサラギは助手席で声を上げつつ、ドアミラーで自分の前髪を手入れしている。
「鷹狩りだよ。と、言っても鷹を墜すほうだがな。ルーヴェンスをここへ。ルナン・クレールも起こせ。……今度メガネババァって言ったら、お仕置きだぞ」
双眼鏡を覗く、怒気をはらんだマティアス参謀の声色にも彼女は黙って舌をだしただけ。それでもキサラギは後部座席に座しているルナンを起こそうと振り返った。当の本人はとっくに目が覚めているようだが、顔は真っ青、ある一点を見つめたまま微動だにしない。キサラギが膝を揺すろうと手を伸ばすが、いきなりドアから飛び出して、草むらの上でしゃがみ込んでしまった。
「参謀殿ぉ、我らが司令官は車酔いっす。ゲロっております。どうなさいますぅ?」キサラギのわざとらしい報告を受けたマティアスは、双眼鏡を覗いたまま野良犬を追っ払うように片手を振るのみ。
「……動いたぞ。ルーヴェンスを位置に付けろ」
マティアスが覗き込む視界の中では、軍港のヘリポートから二隻のコルベット艦が離陸用スラスターを噴射させゆっくり浮かび上がる様子が映っていた。
残った巨大なハゲタカは周囲に砂埃を上げつつ、その上空一〇〇メートルほどで滞空を始めていた。やがて二機は舳先をこちらに向けたまま前進して湖面上にその巨大な影を落とす。砂埃に代わってロケット噴流で朝もやを一気に吹き飛ばしている。
キサラギがルーヴェンスを抱っこしたまま、マティアスの傍らに立った。クロネコは顎をキサラギの肩に乗せたまま動こうとはしないので、彼女がドロイドの背中を揺すると
「子供ってのは悪魔だ」と、憮然としている。彼はキサラギたちがフードコートでの食事の後、リアクターギルドのプロイセン組合長である長田氏と面会。今作戦への協力と理解を求めている間ずっと難民とギルドに住まうガキ共からもみくちゃにされ続けていたことが気に入らないらしい。
「ヒゲは引っ張るし、鼻水は出る。尻尾にガムくっつけた奴もいたんだぜ」
「だからぁ寝る前にシャンプーしてあげたでしょう」
「リンスもしてぇー。自慢の黒毛がバサバサだよぉ」クロネコは相棒の小さいバストを前脚で叩いている。
4WD車のリア・キャリアに搭載されている無線機前で待機している長田老人が二人のやり取りを聞いて愉快そうに笑ってから
「キサラギ君だったねぇ?昨晩の話、考え直してくれんかねぇ」と、言ってきた。
ギルドの長、長田老だけは、ハイビスカスをあしらった真っ赤なアロハシャツ。短パンのジーンズに素足には皆と同じゴツイ軍靴という出で立ち。ほぼ真っ白になっている豊かな毛髪をオールバックに決め、皺が細かく走る顔にこれまた派手なサングラスでキサラギに微笑んでいる。
「ですから、孫のリューヴァ君と結婚するのはお断りです!」キサラギは面会の際にしつこく勧められた縁談話をにべもなく撥ねつけてから
「ねぇ、おじいちゃんだけはそんなファンキーな恰好してていいの?」不躾ともいえる質問を浴びせるも長田七郎組合長は肩をすくめ
「わしもう現場にでないからねぇ。それに素敵な三人とドライブデートだよぉ。オシャレもするしお手伝いも買ってでるもんねぇ」皺だらけの顔に歯並びの良い健康的な歯を覗かせた。
「なかなかギルドからの誘いなんて無いんだ。この際、永久就職もいい選択だと思うけどね」双眼鏡を覗きながら話を蒸し返そうとしているマティアスをキサラギがキッと睨み返すと、4WD車を挟んだ草むらの方から
「キ、キサラギはやらねぇぞ……うぅ!」一人の”困ったちゃん”が悶絶しているのを聞き及んだ全員が呆れて首を振った。
「アホは放っておこう。クロネコ、君のセンサーが頼りだ。二機のハゲタカの機体温度と高度を計測しろ」マティアスの指令を受けた、ルーヴェンスは少女の胸元から身を翻して、草地に降り立つと金色の眼をターゲットに向けた。
「二隻は四基の姿勢制御スラスターをフル稼働中。現在高度は二〇〇。感知温度は四〇〇度前後」
黒ネコ型ドロイドの間髪入れない的確な観測結果に満足したマティアスは次にファンキー老に向けて
「各班は所定位置に付きましたか?いよいよです」と、問う。
「昨夜から、ほぼ徹夜でメンバーたちが軌道要塞の回転制御ロケットで待機中さぁ。寄せ手の連中も知らない地下通路を使ってね。……しかしまぁ恐ろしい事を考え付くお姉さんだねぇ」
ギルド長の言葉に一度だけ微笑んだハンナ・マティアスは、双眼鏡から全員をぐるりと見回すと
「グラヴティ・アタック、第一段階」と静かに作戦開始を告げた。
小惑星の外郭をまとう巨大な宇宙都市『プロイセン』の異常に最初に気付いたのは、周辺宙域にて主の帰着を待つ重巡『ヒンデンブルグ』艦内、電波封鎖用ドローンを集中制御を担うエルザ・シュペングラー中尉だった。
「トーマス!『プロイセン』外郭部に急激な熱源反応あり。軌道遷移か?……クソッ!ドローンのポジションが崩れる。推力方向を割り出せ」
エルザは背中合わせになっている二対一組型のドローン・コンダクトシステム専用卓、その片方を占拠している男性型と呼称すべき生体型アヴァター、トーマスに呼びかけた。
「違うね。姿勢制御用ロケットを四区画、計二〇基からのエネルギー噴射を確認。推進剤の大安売りをして回転速度にブレーキをかけている」
”オヴァール”と称されるヘルメット型機器に顔の半分を覆われたままエルザもダイレクト・ヴューアからの映像を見て訝り口をへの字にさせた。
軌道遷移とは、一年に一回ないし二回火星の衛星軌道に点在する宇宙都市がその巨大な質量が生み出す回転運動と火星の引力とのズレを修正、軌道高度を維持するために外郭部に設置されたロケットを噴射する行動の事を指す。軌道要塞の全てにはこの設備が常設されているが、今回の『プロイセン』の行動は通常に比べ、規模の大きいものだった。
「……逆制動か?何をするつもりだ。リアクター・ギルドは」
「現在噴射三〇秒経過。……内部の遠心力型重力場は……試算によればたった今1Gを切った。依然回転速度は緩慢になりつつあるようだね」
「何が予想される?トーマス」彼女は振り返らずに後ろの相棒に問うた。二人を取り巻いているドーナツ型のドローン制御用のコンソール卓はエルザの放つ脳波に感応して、左右に動き始めていた。
「各都市の沿岸部は湖の水位上昇で困ったことになるかもね。あと、滞空型コルベット……もし飛んでいればだけど急激に高度が上がって難儀するね。副艦長に報告したほうがいいんじゃないの?」
エルザは鼻を軽く鳴らしただけ。
「あの”ヘタクソ”なんか知らないね。このままだと電波封鎖に支障が出る。各『ヴェスペⅡ型』の回転シンクロ率を維持しろ。こっちはそれで手一杯だ」
エルザは自分の担当するドローンの位置を修正するためにコンソール卓のタッチパネル上で手を忙しくさせている。それを傍で感じながらトーマスは「いいのかなぁ」と、小声で呟いた。
「うわっ!何だコレ?地面が揺れる!?これが地震?」キサラギは自分が立っている禿山の頂上をはじめ、内径世界全体を揺り動かしている人工的に発生された振動に怯え、その場でしゃがみ込んだ。さらなる異常が彼女の身体に降りかかって来た。
「な、何?今度は耳が遠くなってきたぁ!耳の奥が詰まったみたいぃー」
「人工重力場の減退で気圧が下がってきているだけだ。いちいち騒ぐな」
ハンナ・マティアスが隣りで騒がしくしている少女へ不穏な状況を説明してやっている所へ、よたよたとルナンが近寄ってきた。
「じゅ、順調かなマティアス。……オレが気持ち悪いのも重力減退の影響なのね……」腹をかばう様にして参謀役の後ろに控えているルナンにマティアスは呆れるようにしてこう言った。
「あんたのは車酔い!車内で塩バタピーナッツをずーっと食ってるからだよ」
「うえっ!地震の次は湖が溢れてきてるじゃんか。こっちまでは来ないよねぇルーヴェンスゥ」しゃがみ込んでいるキサラギは湖の岸辺が音もなく拡がり、周囲の木々の根元を侵食していく様に少なからず恐怖を覚えたが、問われたクロネコはそれには構わず
「マティアス様、ターゲットは急激に上昇中。現在は地上から一五〇〇メートル付近。パワーを四〇パーセントに落としましたが、スラスター温度は八〇〇度を超えています」と、耳を塞ぎうな垂れているキサラギの背中に飛び乗り遥か上空を具に観察、状況報告するのみである。
「あ、あたしを踏み台にするなぁ」かく言うキサラギもいつもの元気は失せてしまって
「耳が気持ち悪いよぉー」と、頭を振りながらぼやく。
今度はその横で「マ、マティアス……だ、ダメ……吐く」ルナンがまたえづき始めていた。
「向こうで吐けー!シャキッとしろ。ムッシュ長田、姿勢制御各班へ連絡。第二段階へ移行します。準備を」
双眼鏡を降ろして、マティアスが4WD車のほうへ振り返ると、長田老までもが無線機を前にして荷台に突っ伏している。
「あんたもかぁい!」一人気炎を上げるハンナ・マティアスのがなり声が辺りに木霊して、驚いた小鳥が草むらから飛び出した。
人類の作り上げた史上最大級の造形物オービット・フォートレス。この壮大な筒状内壁に広がる人工世界の各所で重力場減退の影響が出始めていた。それが最も顕著に現われたのはレノン湖、ザールセン湖の沿岸地域。静かに水位が上がり波止場には水が溢れひたひたと浸水し始めたのを皮切りに、岸辺に近い居住区では床下浸水の被害が現れた。
さらに、キサラギのように耳と他の感覚器官の異状を訴える市民も大勢いたのであるが、最も深刻な影響を受けていたのはギルド・ファームの制圧旋回のために出撃していた残り二隻のコルベット『ファンデル』と『ランバー』であった。
「現在、二隻は高度四千を越えました。なおも上昇中!」ルーヴェンスの報告に、参謀ハンナ・マティアスはニヤリ。
「バード・オブ・プレイは大気圏仕様だ。奴らの頭上では無重量帯が異常に広がっている。そこに突入しないように噴射を抑えなければとんでもない弊害が起きるはず。ルーヴェンスどうだ?」
「はいっ。たった今二機からエマージェンシーが発せられました。奴の中ではエラー警報が……追加です。スラスターの稼働停止を確認。二機は上空三〇〇〇で緩やかな自由落下を始めました」との報告にマティアスは上空に目を注ぎながら頷いた。
「重力場の減退はねぇ計測に拠れば……〇・六五Gまで来たさぁ。メガネのお姉さん、もう限界さぁ」長田老が声を上ずらせてきた。これにマティアスは大きく肯いて重力減退の制動を止め回転を増加する旨を伝えた。
再び、この人工世界に地震に似た振動が生まれ、キサラギは耳を塞ぎながら
「ま、また来たぁ!」と、クロネコを背に乗せながら悲鳴を上げた。それから数分後彼女は
「あ、耳の感覚が戻って来たわ」徐に顔を上げ、遥か上空を見上げれば、そこには羽虫程の大きさにまで小さくなった二隻のコルベットが。そしてその機体は見る見る大きくなっていく。
「マティアス様はこれを狙っていたのですね。一度無重量空間帯近くに追い込んで、コルベットの推力を無効化させてから重力増加による急激な自由落下を」ルーヴェンスは立ち上がったキサラギに肩車になって彼女の黒髪に前脚を乗せて隣りで腕を組んでいるメガネ女史に眼を向けた。
マティアスはクロネコには答えようとはせず、双眼鏡なしで視認出来る高度まで落下してきている二羽のハゲタカを凝視している。
「回転速度は通常に戻ったと管制官から連絡が入ったよ。現在の重力値を一・一五Gまで復帰させたってさぁ」
「ご協力に感謝すると、協力して下さった皆様にお伝え下さい。……あれは湖面に落ちるでしょう」ギルド組合長の連絡にマティアスは少しだけ振り向いた。
「これで、ボクらは三年分の推進剤を使い切ったってさぁ」と、長田老はわずかに口の端を上げた。
「請求書は、そこでゲロってる我らが指揮官殿に付けてください」
マティアスの言を受けたルナンは、しゃがみ込んだまま”請け負いました”の意で黙って手を上げた。
「うわぁ、ハゲタカの腹はもう真っ赤になってる……ヤバいんじゃねぇ。なぁルーヴェンス?」
「現在、二隻のスラスターは全力噴射中。温度は二千度を超えた。数百トンもある機体が重力の豪腕で翼を押さ付けえられているんだ。一度、加速がつけば止められない……上空での推力減退が仇になったのさ。キサラギ判るか?」両手でクロネコの背中を押さえてやりながら、キサラギはマティアスに向けて
「でもさぁ!ハゲタカ共が着水しても、また飛びたってしまうだけだろう。……何でこんな事をわざわざ。無駄じゃねえの?」と、唇を尖らせる。
マティアスはいつもの様に小バカにしたような視線を向けると
「まぁ見ていろ。脳筋」後は顎を湖の方へと振るのみである。
湖面上では二羽の鋼鉄のハゲタカが遂に重力との戦いに敗れ、赤熱させた機体が水面を割った刹那。胴体の周囲で巨大な四本の水柱が上がった。禿山の頂上に陣取っているルナンたちから見れば湖底に潜んでいた潜水艦から魚雷攻撃を受けたようにも見えた。その衝撃波が湖水を波立たせて、それが岸に到達すると爆発の轟音が禿山と森林の木々を激しく揺らした。
「うおっ!何やったのよぉ?」キサラギは湖面上で黒煙を上げ沈み始めている二隻を指さして、何がこの事態を招いたのか、抱いて当然の疑念を落ち着き払う参謀にぶつけた。
「ルーヴェンス君…教えてやって」
「水蒸気爆発だよ。キサラギ」クロネコは前脚でキサラギの頭をドラムのように叩くも、彼女はきょとんとして「すいじょーきばぁくはぁつぅ?」全く要領を得ない。
ハンナ・マティアスがそんな生意気盛りの少女に腕を組んだ姿勢で向き直り、クロネコの捕捉説明せんとした時、二人の間にすっくとルナン・クレールが立ち上がり
「要はだな。極高温の物体と低音の水とが生み出した猛烈な化学反応の結果なのだよ。いいかな?キサラギ君」と、腹の具合が納まった司令官殿はいかにも訳知り顔で踏ん反りかえる。
キサラギはそんなルナンを押しのけてマティアスをのぞき込んだ。彼女は肩を落とすようにして面倒臭そうに首を振るも
「どんな高温に達しようとも宇宙空間なら問題は無い。絶対零度の空間内で徐々に冷えていくだけだ。しかし、ハゲタカが落ちた所には水が存在している。緩やかに結合している水の分子は二千度近い温度差から一気に気化しようとするんだ。それが連鎖的な化学反応を起こす。それが水蒸気爆発と呼ばれる現象さ。あの二機のフリゲート艦は姿勢制御用の噴射ノズル付近で巻き起こった爆発で船体を著しく損傷させ、行動不能に陥っている。それがグラヴィティ・アタックの骨子だったわけだ。どうだ?」と、しっかり捕捉説明をしてやったのだった。
キサラギもしきりに肯いては拍手で、我らが参謀殿に賛辞を送っている。
「オレもこの作戦計画を聞いて以来、必ず上手くいくと踏んでいたぁ!」二人を前にルナンはいかにもこれが全て自分の指揮による成果であると誇示するも、周囲からは完全に無視された。
「……ああー沈んでいくぅ」
キサラギとマティアスらが遠望する先、今まで制空権を握り我が物顔であったスチール・ファルコンの二機は重力場が復帰したことで元の水位に戻ろうと逆流する大波に飲まれていく。翼は無惨に折れ曲がり、水蒸気を間欠泉のように船体の周りから吹き上げ、甲高い悲鳴のような音を立てて沈み逝くコルベットからは数多のクルーが飛び降りては湖上を漂うばかりとなった。
「お嬢さん方、戻ろう!救難信号をキャッチした偵察ドローンがやってくるさぁ。それとファームでは、料理長が皆さんに豪勢な昼飯を用意しておくってさぁ」
無線機を前にぐいっと親指を立てて破顔一笑している長田老の言葉を皮切りに四人と一体は4WD車に乗り込んだ。
4WDがややぬかるんだ草地の禿山を後にしたのは朝の八時過ぎ、一時間足らずの迎撃作戦であった。その車中で後部座席の長田は遥か遠望にうっすらと霞にけぶる北限の巨大な構造物を指さして
「いい機会だから、君のような若者には覚えておいて欲しいんだけどね」と、助手席のキサラギに語り掛けた。
「あの核融合施設、人工太陽のエネルギー源ですよね。きれいに見えるけど、何だか大きすぎてあれがこっちに倒れてきそうにも見えて何だか怖いです」
キサラギと車中の面々は自然、北限に鎮座する横倒しになった巨大なフラスコを連装させるメガストラクチャーを目に留める。その基部は様々な木々、雑草に取り囲まれ濃淡様々なグリーンに覆われ本来のグレー塗装が垣間見れるのは細くくびれた中心部付近のみとなっていた。
「ギルドって名前がいけないのかねぇ。一般の人には毛嫌いされてるみたいでねぇ」
「世界の運行を司る闇の眷属ですか?」長田のボヤキを受けたマティアスがハンドルを握りながら言えば
「そう!それよぉー。私らは悪の秘密結社じゃないのよぉ。単なる互助会なのにぃ!」サングラスのファンキー老は助手席のヘッドレストを平手で叩いている。
「でもぉ一般人とは接触を持とうとしていないのは事実でしょ?」と、キサラギが呟けば
「あの核融合ってシステムはね厄介なのよねぇ。部外者の髪の毛一本でも紛れ込んだらもう大騒ぎになるのさぁ」と、彼は続けて
「世界を司るなんて、とんでもない!いったん動き出した人工世界の気圧や気温、風の強弱までね暴れないように大自然が癇癪おこさないように宥めるので精一杯なのよ」と言い、キサラギの頭上で空気をかき混ぜるように腕をふるって
「キサラギ君、なんで軌道要塞が小惑星の岩塊をびっしり付けているか判る?」と言った。
「宇宙空間に漂うデブリの危機から守るため……ですよね?」これに長田は頭を振りながら
「それは二次的な物だよ。主な理由はねこの気圧を維持するのに不可欠なのよ。大昔の想像図みたいなガラス張りの構造だとね、この世界全体を包む気圧のパワーに耐え切れずに風船が破裂するみたいに崩壊しちゃうのよ」若い娘相手にいささか興奮したのか、まくしたてる長田に代わって彼の隣に座するルナンが
「この小さな世界であっても人間と自然、そこに生きる生命には光と熱。そして気圧が欠かせない。我々の身体を宇宙空間で維持し続ける気圧という物は大きな潜在的パワーなんだよ」と、言った。
長田は少し息を付き、はやる気持ちを抑えるようにして
「いいかねぇ。人の技術と能力だけがこの世界を神の如くに造り上げたなんて思い上がりもいい所さぁ。全ての自然と生き物、土の中に潜む虫やら微生物にいたるまでがこの世界を維持していくのに絶対必要なのよ。我々はね生かされているんさぁ。住まわせてもらっているのだと言う事は忘れちゃいけないんさぁ」彼の言葉は最後に祈るようにか細くなっていった。
「ありがとうございます。長田さん。覚えておきます。そして自分の知り合いにも伝えていきます」キサラギの元気良い返事に長田老は満足げに頷き、顔中の皺を一層深くさせて
「でねぇ……キサラギちゃん」にじり寄るように助手席に顔を寄せると
「あっ縁談話ならきっぱりお断りしますんで」と、釘を刺した。
出鼻をくじかれ後部座席で首をうな垂れてしまった長田老を、ルナンはにこやかに見つめ、ハンナ・マティアスですら珍しく運転席で軽妙に笑い声を上げた。
禿山のてっ辺に点在する枝振りの好い木々には、一羽の梟が眠たげに目を細め、今し方まで繰り広げられていた人間共の喧騒なぞ意に介さず、去り逝く車と二個の渦を巻く湖面を代わる代わる眺めては首をぐるりと回転させ、ただ一声だけ鳴いた。
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