軍神の星 後編

火星のジャンヌダルク ルナン・クレール伝<2>
梶 一誠
梶 一誠

第三十一話 剣戟の果てに

公開日時: 2022年4月2日(土) 17:12
文字数:7,728

 暗視ゴーグルがきり型の刃を留めたままキサラギの頭上を漂っていた。

「今のはヤバかった!」雷電の放つ一撃をキサラギは咄嗟に体を泳がせて攻撃をかわす水面渡りの態勢を取ったが、九二式のヴァイザーにはヒビが。

「上手うかわしたつもりやろうが、お前に応援は来えへんで」攻撃の手を緩める事無く雷電は脇差を逆手に、アーマーの隙間を狙っては薙ぎ払わんとする。キサラギはこれを両腕に装備している各部アーマーを駆使して防御に徹した。

「流石だよ。でもここで止める!」キサラギは両足のグリップを得るや、撃ち掛かって来た雷電の一撃を恐れずに前へ。切先をかわし腕を外側から絡め一本背負いの要領で体ごと跳ね上げ、そのまま雷電の体ごと宙を渡り後方にあった非常用階段の手すりに叩きつけた。


 九七式の生命維持装置他、各種補助機能を収めた背嚢はいのう部をしたたかに打ち据えられた雷電は苦悶するものの、跳び退るキサラギに

「何処へ行こうと逃がさへんぞぉー」と、脇差を素早く収め下層区画へと泳ぐように去っていくキサラギを追わんとしたが、その場で立ち止まり息を弾ませながら周囲を見渡してみた。

 階段を下りずに真っすぐ一〇〇メートルほど進んだ先では三名が漫然と動き回る様を彼女の対人レーダーが捉えている。

「こら素人やなぁ」と、雷電はこれまでの経験から、先ほどの前衛を除けば残りはこの艦に乗り合わせている練習生しかいないという事を看破した。

 雷電の選択肢はこの時二つ。一つはこのまま中央船体区画へと躍り込みルナン・クレールを撃つ。あとはキサラギを追いつめ階下にて討滅。ただし近距離対人レーダーはキサラギをロスト。どこに待ち受けるか判別できない。

「……となればぁ、お前を討ち果たす方が先や。キサラギ」雷電は後背を取られるを危惧して階下に向かう事とした。

 雷電が非常用階段の薄暗がりへと身を投じようとした時、脳裏に去来したのは初めてキサラギと出会った時の情景だった。

 キサラギはブレザーにプリーツの入ったチェック柄のスカート。彼女の俸給では手の届かない高価なクロネコ型ドロイドを抱いていた。そして最も衝撃を受けたのはごく普通に“キサラギ・スズヤ”というフルネームを名乗った事。それ以来彼女の中で抑えきれない嫉妬と妬みが沸き起こってきていたのだった。

 若いが歴戦の女武者は心得ある者なら忌み嫌う、刃に己が姿を映し出す“剣鏡つるぎかがみ”を無意識に行っていた。そこにあるのはゴーグルが放つ光。ただ時折ノイズが混じり、エラーメッセージが居並ぶようになってきている。キサラギの背負い投げによる衝撃が背嚢に集中する機器にダメージをを及ぼしていた。彼女は忌々し気にゴーグルをむしり取りキサラギと同じ裸目での戦闘を意図した。

「飛燕よ。やっぱあかん。わいはアイツが憎い!」雷電は刃を収め、下層区画の暗がりへと身を投じていった。


 「ここじゃない。まだ先か」キサラギは覚えたての猿駆けで、『ジャンヌ・ダルク』右船体ブロック最下層の天井部を逆さ吊りのまま駆けていた。ヒビの入ったヴァイザー越しに暗がりの先へ目を凝らし、備品倉庫区画を目指していた。本来なら暗視ゴーグルのトレース機能が役に立つが今は無い。しかし、頭に各船内見取り図を叩き込んであった。これはキサラギ自身がシップドリフターとして過ごす間に得た我が身を守る知恵。

 キサラギはある巨大な隔壁扉の上にたどり着くと通路へと降りロックを開放。キサラギの身長の二倍はあろうかと思われる隔壁扉が右から左へと動けば、倉庫内の照明がともり同時に扉上にある赤いパトランプが回転し始めた。背後から一瞬だけ風が起こり通路に充満していた空気の流れは白く濁った冷気となって中の空気と馴染んでいった。

「センサーはオートで稼働中か……」キサラギは回転灯を見据えたまま足を踏み入れれば隔壁扉は音も無く閉じた。そこから宙を泳ぎながら倉庫区画の内部をぐるりと見まわした。

 三階建てビルに匹敵する高さに体育館ほどの倉庫内にはびっしりと大小様々なコンテナがひしめいていた。キサラギの背丈ほどある大型コンテナは、区画を縦に走る数本のレール上に装備されている架台上に置かれ、無重量状態になっても動き出さぬよう、黄と黒の縞模様で塗装されたアームで固定されていた。

 そのレールは左右の壁にも天井に向け伸びていて上から三、四段に渡って積み荷が同様に固定されている。またパレットに積まれたラップ包装の小荷物は、レールの間を埋め尽くすように据えられたハスの葉みたい見える空気吸着用台の上に収められていた。

 キサラギは漂いながら視線を壁沿いに移して天井と壁面に走る太い配線の流れと空気圧供給パイプの配置を追ってある物を見つけた。配電盤である。そこはコンテナ群の陰になっていて分かりづらいが、これもまた経験が役に立った。そこを目指した。

 両開きの扉を開け、最上部の一際大きなメイン電源のスイッチを両手で押し下げた。一瞬で照明と赤い回転灯が落ち、辺り一面から圧搾空気が排出される甲高い笛の様な音。そして次々と固定用アームが倒れ続ける音が響き渡った。

 彼女はそのまま五秒ほど数えてからメイン電源をオン。備え付け小型液晶パネルに設定画面が立ち上がり、“自動”か“手動”の選択画面が現れ、キサラギは迷わず“手動”を選択。次に配電盤の中に居並ぶ小スイッチを次々にオンにしていった。

 照明が点灯。パトライトが回転し始める。キサラギは慎重に各種センサーの内、対人センサーと固定アームスイッチをオフの状態にしたままで、最後に指さし確認しながらあるスイッチを捜していた。

「キサラギィーここかやぁ!」雷電が倉庫区画に飛び込んできても、キサラギはまだ目的の機器を捜し求め、“緊急排出”のセンサースイッチを見つけ出すとゆっくりとそれをオンに入れた。

 キサラギが全ての作業を終え扉を閉じようとした時、配電盤の扉裏にある備品を見つけた。

「役に立つかも」彼女は赤い筒状のそれを手に取り素早く腰ベルトにねじ込んだ。そして気取られぬ様コンテナの陰に身を潜め、その陰から上を覗き見れば雷電は倉庫区画の一番奥で辺りを伺っている。

 「さて、どうする?キサラギ・スズヤ」と、彼女がふと大型コンテナから目を壁沿いに振り返れば、ラップで包まれた見覚えのある荷が飛び込んできた。すぐさまキサラギはそこから音を立てぬ様に壁と天井まで走るレール沿いに跳んだ。慎重に荷の影に身を潜めつつ目的の場所へ。そこは高さにすれば雑居ビルの二階ほど。キサラギは雷電の動きを注視しつつ半透明の包装を剥がせば、目を輝かせた。そして

「やってみるか……」と、呟いた。


 雷電が区画奥の上空に辿りつくと、辺りの空気が白く濁って来ているのに気付いた。

「何や?これ」いつの間にか彼女の周囲を空の大きな紙袋がいくつも漂って来ている。

「雷電!」今度は倉庫区画の中心でお目当ての声が上がり、体を翻せば目に飛び込んできたのは人の上半身くらいの紙袋。そこにはフランス語で“Farine小麦粉”とあった。それは雷電の眼前でふいに真っ二つとなり中身の粉末が暴発したかの如くに広がる。

「目くらましかっ?」白いヴェールを裂くように頭上へ群青の踵が目に留まらぬ速さで迫る。キサラギの踵落としを雷電は腕をクロスさせ防御するも体は下にあるコンテナまで吹っ飛んだ。すぐに身体を捻り激突を防いだ雷電が今いた宙空を仰げば、碧の戦士が手に持ったもう一つに切れ目を入れて中身を撒き散らかしている。

 「何を考えてるのか知らへんけど、勝ち目がない事は変わらへんぞ」己が仇とつけ狙う少女を探し当てた雷電は勝ち誇るかのように尊大に構えていたが、次にキサラギから投げかけられた言葉にその表情は一変した。

「君の本当の名を聞かせて欲しい。雷電ってのは部隊内で使うコードネームなんだろう?」

「……ようも言うてくれたなぁ!のうのうと育ったお前に教えたる!国許ではなぁ、戦災孤児になった赤子は“連隊の子”として養育されるんや」

 雷電は硬いコンテナの端を蹴り、疾風が如く天井へあがりくるりと体を回転させるとキサラギへ向けてダイブした。

「そこでわしも飛燕も通り名ソルジャーネームが与えられるんや。それしかあらへんのや!両親がどないな人かどないな名前やったのかすら、教えてもらえへん」

 キサラギは突入してくる雷電の斬撃を小盾で受けるも、支えきれずに後方へと飛んだ。漆黒の女武者は更にそれを追い、獲物が態勢を整える前に腹甲の辺りに強烈な蹴りを撃つ。

 もろに痛撃を喰らってしまったキサラギは身体を前に折ったままで後背にあったコンテナの角に後頭部をぶつるも、なおも雷電はキサラギに刃を振るい、または蹴り、柄頭を使って殴りかかる。その間にもこれまでの孤児として育っていった自分と同期の子らの話を叩きつけるようにして語った。


 孤児たちは四歳ころになると、男女別の訓練施設へ移されて消耗率の激しい艦艇制圧戦の女武者、あるいは制圧陸軍の補充兵員としての訓練を受ける。その段階で身体的に耐えられない者はいつの間にかに他の施設に移されてしまうのだと言う。

 基本的な初等訓練を十二歳で修了。手に三つ巴紋を施されると一〇名ほどのチームで連隊付き補充兵として配属される。そして十四歳までに生き残れたら初陣式を。その後、戦績優秀な人材は名うての女武者の側仕えを仰せつかり、派遣傭兵として各地へ送られるのだと。

 「何でじゃ?何でお前はわいの欲しい物全て持っとるんだ?優しい里親に、温かい家……それに」雷電は宙空で揉み合いになったキサラギを振り払うと、踵落としをキサラギに向けて繰り出すが、キサラギもそれを両腕クロスで受け、体全体をねじり込むようにして逆に雷電を大型コンテナの角に叩きつけた。その衝撃で雷電の九七式からは微かに空気漏れが生じ始めていたが、アームに固定されていない一つのコンテナ上部で起き上がると素早くその場を蹴って、躍りかかるキサラギの攻撃をかわして宙を舞った。

「リアルネームじゃぁ!それ無しじゃわいらは人として認められんのじゃぁ!」


 二人は無重量空間の中をつかみ合い、宙を泳ぎ互いの体を硬いスティール製コンテナに叩きつけ合っていく。キサラギは雷電の斬撃、狡知に長けた打撃を各部アーマーの防御力を最大限に活用してかわし続けていった。

「待たんかい!自分の技が全て封じられてるのは分かってるやろう?逃げまわるだけではスサノオの女武者は討ち獲れへんぞ」雷電は叫ぶなりコンテナの上を猿駆けで疾風の如くに次々と渡り飛んでは、キサラギの行く手を遮るようにして滞空した。彼女はキサラギの眼前に脇差の切先を向け

「もう、閑念しなしよ。君はわいを友達って言うてくれたな。うれしかったで。せやけどなぁ決着はつけなならんねん」と、言った。

 キサラギは黙したまま、身体を舞姫のように空中を捻りを加え雷電から数メートル離れたコンテナの上部に足を据えた。

「小指を出せ。そこだけを落として命だけは助けたってもええんや。戦士としては廃業やけど、母親にはなれるかも分からへんねん。キサラギ・スズヤこれが最期の通告やっで」

「イヤだねぇ!諦めるもんかよ。あたしだってここまで来るには苦労しっぱなしだった」

 キサラギは腰に差しておいた筒状の備品を手探りし始めた。

「雷電、あんたにあたしが初めて“女性”になった日の事を教えてやるよ。惨めだった。毎日貨客船の天井部とか床面の下に潜り込んでは、ドブネズミの真似をして過ごしていたんだ」左手で筒を握り、周囲を見渡せば白く濁った空気は区画全体に及んでいた。特に雷電の後ろの空間には濃いヴェールが溜まっているのを彼女は認めた。

「あの日、あたしは女子トイレに潜り込んでなぁ……泣きながらぁゴミ箱漁って、生理用品拾ってアソコにあてがったんだよぉー!」キサラギはすぐさま軍靴のグリップを解き宙空へと跳ね上がった。

 利き手に握る脇差を雷電目掛け投げつけながらキサラギは雷電に肉迫する。黒の戦士がブーメランのように飛ぶ脇差を事もなげに払い退ける瞬間、キサラギは胸元に飛び込んだ。

「あたしはなぁやっとここまで来たんだ。人並みの生活とまともな未来を掴めるチャンスを」と、叫ぶや左手の筒先を雷電の背嚢部に強くこすりつけた。発煙筒だった。その先端から炎があがりキサラギは相手の酸素供給パイプと背嚢の隙間にそれをねじ込み

「お前にわかってたまるかよぉ!」両足で腹部を押し出すように蹴り上げた。

 雷電は背中に発煙筒を携えたまま、白い粉末の霧の中へ。

「こ、このクソあまぁー!」キサラギがその姿がヴェールの幕に囚われ、悔し紛れの声を耳に留めた刹那、倉庫区画の中心で発火と共に大爆発が起こった。その爆風に煽られたキサラギは入り口付近まで跳ね飛ばされたが両手両足のグリップを最大にさせ、ポツダムの夜同様“猿の崖寄せ“を以って、赤く輝く回転灯すぐ上の壁面に着地したのだった。

 その現象は炭塵爆発。キサラギは里親ルナンとの出会いのきっかけとなった現象をこの場で見事に再現させたのだった。

「よし、これで……雨?」キサラギがこの倉庫に入り込んですぐ配電盤を操作した意図とは違った反応をこの艦は示していた。スプリンクラーが稼働を始めていた。だが、火炎は収まらず、飛び火した荷からは白煙と炎が上がり続けていく。

「ようもやってくれたな。せやけどこれで勝ったつもりかいな?」

 ぎょっとなったキサラギが爆発の中心を振り返れば、火炎を全身に纏う雷電の姿があった。雷電は一度全身をこごめてから勢いよく“ふんっ”と手足を振り伸ばせば九七式の火炎は収まってしまった。次に彼女は背後で起きた小爆発の衝撃波を背に受け向かってくる。

 キサラギもフルグリップを解いて動こうとするも手足が言うことを効かない。その姿は真夏に木に取り付くセミの如くであった。

「動かれへんのやろう?……水やで」

 どうやら彼女らの動甲冑の手足に備わる吸着機能には磁力帯の他に微細な吸盤もひしめいており、それらが今は空気のみならず余分な水分をも取り込んでしまったために予想以上の負荷が掛かってしまっているのだと雷電は言う。

 それでも必死にもがくキサラギの背に雷電がそっと寄り添い、バックハグするように被さって来た。漆黒の女武者は両手に脇差を携えていて左手の脇差、ついさっき雷電に放ったキサラギの装具をそっと鞘に戻してやると

「刀無しで死んでまうと不名誉なことになるさかいな」こう囁き、次いで自らの切先をキサラギのがら空きとなった脇の下に宛がった。彼女はそのまま厳つい夜叉鴉をぐっとキサラギに寄せ

「キサラギのアホ。うちの勧告を聞かへんさかいに。すぐ済むさかいな」と、言った。

 それでもなお歯軋りして抵抗するキサラギの耳朶じだにすすり泣く声が。

「お別れや。今でも……大好きや」これを聞き留めたキサラギがもはやこれまでと目をつむったその刹那。

 「全員衝撃態勢を取れぇ!」の艦内放送が区画内に流れ、すぐに大地震をも凌駕する振動が二人を襲った。ちょうどそのタイミングで戦艦と巡洋艦の周囲に大海艦隊からの威嚇砲撃が着弾したのだった。

「許せぇ!雷電」キサラギは炎を振り払った雷電同様に身を縮めてから背中へ大きく手足を張った。キサラギの背嚢部に押し出された雷電の体躯は宙を流れた。その先の空間では今の衝撃で大きなコンテナ群がアームを離れて勝手気儘かってきままに彷徨い始めていた。互いがぶつかり合いもはや収拾のつく状態ではなくなっていく。

 遂にキサラギの意図したコマンドがここに発動した。

『退避してください。全カーゴ緊急排出します』マシンボイスがコマンド処理を完遂させた通告が為され、区画の床面が縦に大きく二つに割れた。その向こうは非情の闇、宇宙空間。

 気圧が掛かっていた区画内の空気は全てのコンテナと種々雑多な備品類をも無秩序に放り出す。身動きならないキサラギでさえも引きちぎらんばかりの暴風が漆黒へ引きずり込もうと猛威を奮った。

 いつ果てるとも知らぬ空気の奔流の中でキサラギがうっすらと目を開けて見れば、巨大なコンテナ群が船外へと投げ出される中にポツンと小さくなっていく雷電の姿が映った。

 これで危機が去ったわけではなかった。今度は倉庫区画に忍び寄る真空と絶対零度の脅威から脱出せなばならない。特殊装甲服は船外活動を旨とした宇宙服ではない。白兵戦を想定したあくまで甲冑なのだ。設計の基本理念が違うのである。とは言え制圧戦のさ中に戦士が船外へと投げ出された際の補助的な気圧補正機能は有しているがそれもほんの数分。

 九二式は即座に酸素供給の一部を気圧ゼロによる内臓膨張を防ぐのと、バッテリー容量を体温維持最優先させる処置を取った。

 キサラギは一度深呼吸してから

「フルグリップオーヴァー」と、声に出すと手足を離すことが出来たが、ゼロアワーへのカウントダウンがひび割れたヴァイザーに投影されるのを見て顔が青褪めた。三分を切っていた。

 暴風は去っていたが辺りは急激に冷え始め各部に霜が付き始めていた。彼女はヤモリみたいに移動を開始して、唯一の脱出路となる緊急用エアロックを捜し求めた。

「落ち着け。あれは……隔壁扉のすぐ……ち、近く」冷気は確実に彼女の体温を奪う。加えて呼吸にも支障が出始めていた。気圧保持が優先され、そちらに割りあての比率が高いために呼吸もままならなくなっていった。

 壁に這いつくばってキサラギは目的の部署を発見。すぐにその開閉ラッチを引っ張り上げようとするも、凍り付き霜の塊となっていた。歯の根が合わぬキサラギは震えながら脇差を構え

「クソッ落ちろ!」と、切先を冷たい塊に打つ。数度めに開閉ラッチは姿を顕わにさせる事には成功した。

 キサラギは渾身の力でプルトップの下を握り、上へと引き上げようとするも開閉部が凍り付いているのか動かない。やがてキサラギの意識は朦朧もうろうとし始めた。

「か、帰るんだ。ルナンの所へ。ルーヴェンスを抱っこするんだぁぁー!」最後の力を振り絞りキサラギはそれを引き上げ、さらに大きく左へと回転させた。

 遂に無気圧状態のエアロック内へと体を躍り込ませてから開閉扉をロックすると同時に白濁した圧搾空気が瀧のように降り注ぐ。

 次に自動音声が気圧調整と温度補正が完了。船内通路へのロックが開放されると告げる中、キサラギは嬰児のように身を屈める。全身を小刻みに震わせながら彼女は自分の右手、小指と薬指の間に紅い紐が下がっているのを認めた。手繰り寄せるとパウチされたカード。そこには飛燕、雷電らと撮影した初陣式の写真が。泣きはらした自分にはハートマークが描かれ『私の友達キサラギ・スズヤちゃん』との書き込みが。

 キサラギは開かれたエアロックの中で、身を屈めたままそれを深く胸に抱き留めつつ

「雷電!……ら、らいでぇぇーん!」と声の限りに叫び続けた。装甲服についた霜の全てが解けヘルメットと夜叉鴉を涙のように床を濡らしながら。

 火星統合暦MD:〇一〇五年一〇月八日二三時。ドイツ大海艦隊はアトランティア連邦海軍籍重巡『ヒンデンブルグ』及び未確認艦艇一隻を捕縛。ここに軌道要塞『プロイセン』全土を戦火に巻き込んだプロイセン騒乱は事実上の終息を見た。

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