梶 一誠でございます。この度ようやく『軍神の星・後編』を書き上げることが出来ました。また皆様とお会いできて光栄に存じます。
本来は以前小説家になろうサイトに投稿した作品に少し手を加えるだけのつもりでしたが、結局全話いじってしまいました。実の所読めば読むほど、無駄で回りくどい表現が見受けられ、手を加えずにはいられなかったのです。それに表紙イラスト、キャラクターデザイン、宇宙戦艦のデザインも手掛けているので時間が掛かってしまいました。
なろうサイトの作品とは大筋では一緒ですが、多少エピソードの内容が異なっております。また違った雰囲気を味わっていただけたらと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
勝ち誇ってキサラギを欲望の顎門にかけんとした、兵士の手がふいに止まった。表情は驚愕と戦慄に代わり、その視線は彼女の頭上を凝視していた。
辱めを受け涙に濡れたキサラギ。ふいに目を上げ息を呑んだ。自分の腕を押さえ込んでいたはずのもう一人の頭が失せ、残った半身が血飛沫と共に仰向けに倒れこみ、更に朗々として力強く彼女の心根を震わせるような声が辺りに響き渡った。
「我はポツダム攻略を命じたが、女を犯せとの命など発しておらぬ!」その刹那、刃の切先が残った兵の偏光ゴーグルごと眉間を刺し貫いていた。
キサラギ・スズヤが意識を失う寸前に見たのは、露になった小ぶりな乳房の上で息絶えたまま呆けた男の虚ろな表情であった。
どれほど時が経ったのであろうか、意識を回復させたキサラギの目に最初に映ったのは軍服の背中。そのなかほどまで伸びたきついウェーブのブラウンヘアー、大きく張り出た臀部。女性らしいボディラインを顕著にさせたパンツルックの制服だった。
彼女は革張りのソファに横たえられ、薄い夏掛けが掛けられているのに気付いた。うっすらと芳しい夏花の香りがする。
おぼろげに視線はその動きを追い、横を向いたとき飛び込んできたのは、褐色の肌と口の端から覗く大きな白い犬歯。
「アリシアさん!」と、声を上げたキサラギは、夏掛けを跳ね除けその大柄な女性の豊満な胸へと飛び込んだ。
アリシアと呼ばれた軍服の麗人は抱きつかれた瞬間、手に持っていたコーヒーカップを落としそうになり慎重に士官用執務室のコンソール卓の上に置き
「怖い思いをさせたね。軍律は常に厳としているが兵たちの瑣末な動きまでには……」と、言った。
褐色の麗人から包み込まれ背中をやさしく撫でられると、キサラギは火がついたように声を上げ泣いた。アリシアなる女性は暫し、自分の胸元が少女の涙で濡れるに任せた。
「戦場ではああいう事は日常茶飯事だ。我もいつもなら気にも掛けぬが、今回は」褐色の女性は少女の艶やかな黒髪を手に取ると
「君が押し倒されているのを見たときに我が姉様のことを思い出してしまった。後は勝手に体がな」キサラギは鼻をすすり上げ恩人の顔を仰ぎ見た。口元に笑みはあっても赤味を帯びるブラウンの瞳はどこか悲しげな色をたたえていた。
「アリシアさんのお姉さまですか……?」
「アリシアとはその姉の名だ。トワは太陽、ブランデルは母方の実家を指す。あの時はポツダム視察中ゆえにその名を使ったにすぎぬ」
「……では?」
「ゲルダ・ウル・ヴァルデスと号す。ゲルダとは我が遠祖が地球において戴いていた女王の名、ウルは月。ヴァルデスが家名となる」
「ゲ、ゲルダ……ヴァルデス様……あたし、いえ私は」
「確か、キサラギ・スズヤ君だったね。美しい名だ。……悪いが君の衣服は使い物にならんでな。上等兵曹に改めさせたよ」
キサラギはここで初めて夏向け袖なしのブラウスを着込んでいることに気付いた。肩の部位に大きな結び目があり、胸から腰の辺りまである大きめのボタン。淡い水色とレモンイエローをあしらった可愛らしいデザインであった。彼女は目を赤らめながらも様変わりした衣装に思わず微笑んだが”上等兵曹”の言葉に表情を硬くし、両手で自分の胸を隠そうとした。
その仕草を捉えたゲルダは軽妙に笑うと
「上等兵曹も女性だ。心配はいらない……彼女は『若い娘の肌って本当にキレイ。羨ましい』と言っていたよ」
キサラギは少しゲルダの身体から離れると礼を述べた。ゲルダもそれに肯くと
「珍しい装具をお持ちのようだな、キサラギ君は」と、ソファのすぐ傍らに視線を巡らせた。そこにはモトクロスと共に路上に捨ておかれていたリュックが。
彼女はすぐにそこへ駆け寄り自分の装具に欠けた品が無いか確かめた。問題なく一式揃っていることが判るとその場でしゃがんだまま大きく安堵した。
「スサノオ型九二式特殊強化装甲服。女武者装具に三日月燕だな。名だたる剣豪の一人ヤヨイ斑鳩が十代の頃に使っていた戦紋様……キサラギ君、貴殿は何者かな?」こう問われたキサラギはすっくと立ち上がりゲルダの目を真っ直ぐ捉えてから
「キサラギ・スズヤは本名です。故あって詳細は申し上げられませんが、この『プロイセン』には我が里親となってくださった方と共に任をおびて赴きました」と、答えた。
「里親。あのスカーフェイスか?」
「いえ、あのお方も故郷におわすヤヨイ様と同じく我が師と仰ぐ姉武者様にございます」
「フム……二人からはだいぶ鍛えられたとみえるが」
「悔しいですがまだ未熟です。あの時も訓練を受けておきながらいいように辱めを受けてしまいました」キサラギは口を真一文字に結び拳をにぎったまま俯いた。
「未熟者ゆえに、里親は『先に帰れ』と。未成年の私を単独で脱出させようとしたのです」
「ああいう時はどうしても”女”が出てしまう……君のような少女なら無理もない。しかし我から言わせれば貴殿の里親とはとんだうつけ者よ」
ゲルダはキサラギに寄り添い、またそっと肩に手を掛けた。
「二人の薫陶を受けた者ならば、側仕えとして戦場の心得を習得させんとは思わなかったのか。少なくとも我ならそうするが。……来るがいいキサラギ君」
ゲルダはキサラギを執務室の楕円形の舷窓へと促した。分厚い気密性の高い窓の外はすでに夜が終わり、月を演じていた人工太陽が本来の姿を取り戻そうとしていた。払暁の空に乳白色の雲が細い筋となってたなびいている。
「ゲルダ様、ここはポツダムを襲撃したコルベット艦でしょうか?」このキサラギの問いにゲルダはブラウンの瞳を微かに細め
「それは我が麾下の『ファンデル』。ライプティヒ市には『ランバー』、エッセンには『ゴート』を派遣してある。そろそろ補給に戻ってくる頃合いだ。ここは司令船を担う重巡洋艦『ヒンデンブルグ』」と、言い更に真っ直ぐ人工太陽を指差した。遠大な人工大地に立てば仰ぎ見れる物体が、今は舷窓から眺望できる。
「この重巡は今『プロイセン』の無重量空間帯に駐留している。この艦が一度降下してしまえば再び自力でここまで上昇するのは難しい」
「重巡洋艦……。ゲルダ様はアトランティア連邦海軍の将官とお見受けいたします。政治の事は詳しくはありませんがドイツ皇帝派とアトランティアが同盟関係にあることは知っております。そのアトランティアが何故、要塞内部に対しての制圧攻勢をかけるのですか?」
これにゲルダはしばらく無言で、雲の行過ぎる様を見入るも
「同盟国か……。我の中では同盟国とは準占領国と同義である」身じろぎ一つせずにキサラギに答えた。
「宇宙への出口、ヘキサゴンエリアまで攻撃するのですか……!」キサラギは言いかけた言葉を思わず飲み込んだ。ゲルダはまるで鷹のような眼を彼女に向けこう言い放ったのである。
「勘違いするなキサラギ・スズヤよ。我はな邦を獲りに来ているのだよ」
深夜のパブに響き渡った一発の銃声。ルナン・クレールはどうっとした物音にうっすらと目を開いた。
そこには今まで親友のアメリアへ銃口を向けていたはずのハンナ・マティアスが向き直り銃口からうっすら硝煙が立ち昇っている姿があった。次に足下を見れば、眉間を撃ち抜かれたフィリップ・マーロウ隊長がうつ伏せでを見開いたままこと切れていた。
「この女ぁ!」襲撃部隊の最後の一人、”マント”が銃口をマティアスに向ける。ルナンは咄嗟に彼の腰に飛びついた。
「ルナンどけぇー!」マティアスの背後でアメリアが叫ぶと同時にマントへと駆け出し、それを察したマティアスは横へと跳び退る。
マントがルナンを銃杷で打ち据え銃を向けた時、完全装備のアメリアは既にこの男を捉え小盾に仕込んだ武器を”ソードモード”で一閃に薙ぐ。
銃をつかんだまま彼の両手首が床にボトリと。細身で青白い男が悲鳴を上げる前にアメリアの次の一撃が深々と男の喉を刺し貫いていた。
体内に宿した全ての空気を吐き出すかのような呻き声を残して、マントもうつ伏せにマーロウ隊長に続いたのだった。
アメリアはここで止まらず、床で横ざまに銃を構えたままのマティアスへ廻し蹴りで銃を払い落とし、馬乗りになり片手で頭を鷲づかみ。血の滴る切先を彼女の顔面に向けた。
「アメリア!殺すな」ルナンが頭を抑えながらなんとか立ち上がる。
「なぜだぁー!目ん玉えぐってやるぅー」アメリアはつかんだ彼女の髪ごと床に叩きつけた。血が滾るのを抑えられない親友へルナンが近寄り
「まだだ……聞きたいことが山ほどある。頼むアメリア」こう請われると、憤然としたままアメリアは手を離した。が、立ち上がりざま徹甲付きブーツの先でマティアスの腹を思いっきり蹴り上げテラスの方へ。
大きな窓に寄りかかりまた店外の様子を監視しながらアメリアは
「今度、ふざけた真似をしたら指一本づつ切り落とす!楽には殺さんからな」と、凄んだ。
「訳を聞こう。礼は言わんぞハンナ・マティアス……。それとマーロウ隊長が『決定されていた事』と言っていたな。オレ達は端から暗殺の片棒を担がされていたわけか?答えろ」
ハンナ・マティアスは何度か咳き込みながらもカウンター席へ付いた。そこから自分を睨んでいるルナンを正面に捉えてから
「少佐のお察しの通り。次期大統領の最有力候補はついに故国の土を踏むことなく、この地であい果てることとなっていた」痛む腹部を抑え苦悶の表情を浮かべるマティアスは何とか言葉を紡いだ。
「黒幕は誰だ?」
「恐らく『セント・ロマーナ』という御簾の向こうにいるやんごと無きお歴々さ。教皇庁も一枚岩ではないと言ったろう……。ただ、その意向を汲んで手を下してきたのはヨハン・デーニッツに違いない」
ルナンは黙って先を続けろと顎を上げ促した。
「自由フランス共和国にも対立構造は存在する。デーニッツも民族派に与している。そして多くの政府関係筋も。大方は教皇庁タカ派の肝入り、お布施という献金に尻尾を振る下衆共だよ」
「デュシャン政権が誕生すれば肩身が狭くなる連中だな」
「暗殺するだけならここまで念入りにする必要なないだろう!」ここでアメリアが割って入ってきた。再び挑みかからんとする親友をルナンは目だけで諌めた。
「体裁を繕う必要があったのさ……」マティアスはうな垂れながらも口の端をうっすら上げている。
「政府は公式に奪還作戦を実行に移す。身柄の確保まで成功できれば、国は奪還を支持し続けたデュシャン支持派にアピールできる。だが、不測の事態で当の本人は非業の死を遂げる……そういう筋書きだったわけだ」ルナンはマティアスの言わんとした事を引き継ぎ、同時に目を炯々とさせつつ
「暗殺を影ながら支持する連中は嫌疑を掛けられず確実に政府内での勢力浸透に専念できる。彼らの言う”民族自決の強固な連帯”というリヴァイアサンが国を飲み込む現実がそう遠くない日に到来する」ルナンはどこか楽しげと言っていいほどの笑みと共にマティアスを覗き込んだ。
「……大した洞察力だな。だが、民族派の台頭は私の信条に反する」
「何が信条だ!お前は暗殺に関与しながらも、たった今仲間を裏切っているじゃないか!」アメリアはルナンに”こいつを始末しよう”と進言するも彼女は首を振った。
「当初は私の筋書き通りだった。だが、作戦実行寸前デュシャン暗殺指令が決定された事を『革新・青の党』のエージェントから知らされた。デーニッツに裏切られたのは私のほうだ!」マティアスはルナンから目を逸らして唇を噛む。そしてこうも付け加えた。
「撃ったのは私の信条からだ。これに偽りは無い」と。
「マティアス……君は”奥の手”を選択したな。アトランティアという怪しいカードを」ルナンの推察にマティアスはイエスを含み無言で肯いたのだった。
「危険は承知でヴァルデスに縋った……助力を、牽制で構わないとね」
「ルーヴェンスの画像にあった頃だな。あの巡洋艦は何故ここに?」
「エージェントの報告だと機関故障のため『ナッサウ』に向かう艦隊から離脱したそうだ。私はこれを上手く利用できると踏んだんだ」
「時間稼ぎか?なるほどね。一隻でも軍用艦艇が居座れば軌道要塞を逼塞させるには十分」
「ああ。艦砲によるレーザー照準だけでも効果はある。その隙に実行部隊を出し抜きデュシャンを脱出させるしか方法が無いと。……しかし」
「そのヴァルデスからも出し抜かれた」
「結果的にはそうなった。今更だが、ヴァルデスが旗艦『ハンニバル』とは別の巡洋艦で来訪した時に気付くべきだった。あれは侵攻を他の将官には任せないのが常だ」
「このマヌケ!とんだ二重スパイだよ。貴様は」アメリアからの厭味にマティアスは痴れっとそっぽを向いた。
ルナンはここで腕を組み、これまでの経緯をまとめようと煤けた丸木組みの梁を仰いだ。そこへまた不穏な振動が起こり、テラス外の風景は砂塵が舞うばかりとなった。埃が幾状もの筋となって降り注いで来る。
「まずいぞ!砲撃の次は空挺部隊が降下を始めた。長居はできん!デュシャン氏を連れて私らだけでも脱出しないと。この裏切り者は置いていこう」埃のヴェールに目を細めながらも容易ならざる状況を逐一報告してきたアメリアにルナンはまたしても
「いや、マティアスも同行させる」と、告げた。不服そうにしているアメリアに彼女は
「脱出に協力させるため青の党との橋渡しをやってもらう。連中の象徴的リーダーであるあの御仁も前面に立ててな」と、納得させようとした時、今まで押し黙っていたアルフレッド・パイパーが口を開いた。
「あの、私のメディアにたった今ニュース速報が入ったんですが……」彼はこう前置きした後は、ルナンにやや遠慮がちな視線を向けてきているので、彼女はまた手ぶりで報告を促す。
「ポツダム市政庁から『プロイセン』全域に戒厳令が布告されました。これを受けてライプティヒ、エッセン両市は城門を閉じ、鉄道、幹線道路は完全に封鎖。さらにヘキサゴン・エリアがミサイル攻撃を受けた模様です」
ミサイルによるヘキサゴン・エリアへの攻撃という事態はルナン、さらにマティアスの表情をも驚愕へと変貌させるに充分であった。パイパーはその後の記事を見て表情を凍りつかせ、言いよどんでいるのを見たルナンは
「パイパー先を続けろ」と、言った。
パイパーは目をつぶりがくっとカウンターに手を付いてから
「同時に、ポツダム軍港が未確認艦からの砲撃を受け、残留していた守備艦艇は全滅。そのあおりを受けて……キサラギ君が乗り込んでいるはずの『サン・グレアー』号は港内で沈没。死傷者多数だそうです」パイパーの声は戦慄いている。
”沈没”を耳にした途端にルナンの身体は小刻みに震え膝から崩れ落ちた。そして目を泳がせてはキサラギの名をうわ言のように何度も呟くのみ。
「マーティアァァースゥ!」アメリアが怒号を上げ、一度は収納したソードの切先を閃かせてマティアスに突進した。ルナンは必死に彼女の背中に取りすがって止めるものの友は激高するばかり。
「放せぇ!殺してやるぅーその腹裂いて臓腑をばら撒いてやる!お前はそれだけの事をしたんだ!違うかぁハンナ・マティアス!」アメリアは激情の赴くままルナンの身体を引き摺りなお歩みを止めようとしない。
マティアスも全身が虚脱したように頭を垂れ
「キサラギ君のことは気の毒だった。この状況は全くの想定外だった。ヘキサゴン・エリアへのミサイル攻撃も、滞空制圧砲撃も……」と、消え入るような声で答えた。
「ふざけるなぁ!キサラギを返せ!……生まれは不幸だが明るくていつも真っすぐだったオレ達のキサラギ・スズヤをー!」
「まだ死んだと決まった訳じゃない!あいつは機転の利く利発な娘だ。そうだ!パイパー。ルーヴェンスのAIへアクセスしろ」シャープな狼の背中に狸が取り付くようになってルナンが必死に親友を制止している先で、パイパーは頭を振って
「そう思って、何度か試しているんですが、返信が……ありません」この無情な現実に遂にアメリアはルナンの腕をふり払う。だがルナンは今度はアメリアの前に両手を広げて立ちはだかった。
「クソッタレェー!おめぇがどうしてもそいつを庇うなら、おらぁこの仕事降りるぅ!」
「何をするつもりだ?」
「空挺部隊と刺し違えるまでよぉー!一人でも多く道連れにしてくれる!」
「アメリアァー!」
「いいか!あいつは間違いなくおらの妹だ。大好きだったんだよ!むざむざ殺されて黙っていられっかぁ!」ルナンは怒りに震える親友の顔を見るなり目を伏せた。彼女はヘルメットヴァイザー越しの眼に涙を湛えていたのだった。
「許せよ。そしてさらばだ。ルナン・クレール」アメリアが踵を返してエントランスへと向かおうとした時だった。
「およしなさい……」聞き覚えの無い少年のような澄んだ声色が店内に響き渡り、これまで張り詰めていた空気は一変してしまった。
声を発し、両手を広げてアメリアを止めようとしているのは覚醒を終えたミハエル・デュシャンその人であった。
ゲルダとキサラギは士官用執務室のソファーに隣りあってかけていた。キサラギはゲルダから受け取ったコーヒーカップをチビチビと舐めるように口へと運んでいる。
「本当に良く似合う。その服は幼い頃に姉様にねだって頂いたものだ。その頃の我は男子の服ばかり着ていたものだが、なぜかそのブラウスだけは欲しかったんだよ……あのポンコツは私服に紛れ込ませていたようだな」ゲルダは肩のリボンの辺りも触っている。
「あの、ゲルダ様、これ……大事な物ではありませんか?」
「いや、見ていると堪らなくなる、それでもただ捨てる訳にもいかん。我が軍の兵士が君にしたことへの詫びと思ってもらって欲しい。そのほうが姉様も喜ばれることだろう」
「今、アリシア様はいずれにおわします?」キサラギの問いにゲルダは一時、表情を強張らせたがすぐに抑えて
「すでに……亡い」キサラギは恐縮したようにコーヒーカップを両手で持ちながら目線を下げた。
「生きておわせば……もう三十路の中ほどになろうか。甥か姪の一人か二人は産んでおられよう。キサラギよ、君が我のことで知りうる事を聞かせてくれ」
キサラギはゲルダの請われるままに自分が古いニュース記事、閲覧可能であった情報に関して話して聞かせた。若くして第五〇二艦隊の長となったこと、各戦線での武功、海賊掃討での勇戦ぶりなど……。
「三年前のペルガモン反乱掃討に関しては?」この質問にだけはキサラギは口を噤んだが、ゲルダの眼差しを受けるとおずおずと
「苛烈な処置……あるいは鬼の所業との記事も見受けられましたが……公式にはペルガモンとその母体である軌道要塞『J・F・K』にブロー・ド・マルスが蔓延。やむを得ない判断という記述も」と正直に世間の風評を言葉を選びながら告げた。ゲルダはウィルスに関しては触れずに
「鬼か……。そう鬼だ!我はあの時の決断に後悔も慙愧の念すら持ち合わせておらぬ」凛然とした物言いでキサラギから舷窓から洩れる朝日に目を細めるゲルダ。
「我はな人の皮を被った鬼だ。だがなその鬼を生み出したのは幼き日の我が友人、顔見知りと一族連中だ。心に巣くう悪鬼と欲望を解き放ち我が親族を根絶やしにした輩どもが我という新たな鬼に討ち滅ぼされた……それだけの事」
「ゲルダ様はわたくしを助けて下さいました。鬼などとは思っておりません」キサラギの言にゲルダは彼女を自分の胸へと抱き寄せた。キサラギは黙したままで褐色の女の鼓動を聞いた。彼女は母の胎内で育まれていた頃を思い起こしたかのように目を閉じた。
「キサラギよ……。人はな都合一つで夜叉にも聖人にもなれるのだ。我とて例外ではない。それを思い知らされたのは……我が八歳の時だった」
十七年前 火星統合暦MD:〇〇八八年 アトランティア・ネイションズ勢力圏内
軌道要塞『J・F・K』政庁都市ペルガモン市内某所
二人の姉妹、ゲルダと彼女より九歳年上の姉アリシア・トワ・ヴァルデスは知事公邸より数キロ離れた倉庫街、その一つに身を寄せていた。辺りはとっぷりと日が暮れ、灯りの無い木箱の類が乱雑に積まれている一角にゲルダは膝を抱えて座っていた。
今は隠れ家としている所で、姉の帰りを心待ちにしている彼女の傍らには二人の家庭教師として赴任してきていたエドガー・ブライトマンが左膝に負った銃創を因とする高熱のため昏倒している。
時おり呻き声を上げるエドガーにゲルダは
「先生……お姉ちゃんが薬屋さんからもうすぐ帰ってくるからね、頑張って」声をかけながらシャツの袖口をハンカチ代わりにして額の汗を拭ってやった。そのために彼女のシャツの袖口は両方ともぐっしょり濡れていた。
いつもなら半ズボンと地元のベースボールチームのロゴが入っているブルゾンを着用して外を快活に駆け回るゲルダは今日に限っては姉からもらった、肩に大きい結び目のある女の子用のワンピースの下に白いフランネルのシャツを着ていた。ただブラウスはゲルダには大きすぎてロングスカートの出で立ちの様になってしまっている。
横臥しているエドガー・ブライトマンは黒一色。警察の機動隊が標準装備としている防弾チョッキとヘルメット。そして編み上げの軍靴である。ただ、今の彼は出血のためか意識が混濁してしまっている。夕刻に知事公邸を予告無く襲撃してきた民兵らしき一団から姉妹を守るために身体を張って銃撃戦に挑んだ結果であった。左膝の上をきつく縛っているタオルが鮮血に染まっているのが痛々しい。
「ア、アリシア!ゲルダァー離れるな。こっちだ走れぇ振り向くな!」エドガーの意識は彼女たちの住まいであった知事公邸を脱出した時と変わりなく未だに記憶の中で戦い続けているようだったが、ここで目を開けた。彼は無意識に手を動かしてここまで携えてきた自動小銃を捜していた。
「ゲルダ……か!?ああ……クソッ!連中をまだ説得できると思っていた私がバカだった!……」
「先生!死んじゃったかと思った。ねぇお家のほうが赤いの……。父様と母様は?何で逃げなきゃいけないの?街の人たちの……目が怖いのぉ」ゲルダはしくしくと泣きはじめた。
エドガーは幼女の頭を撫でながら、姉のアリシアの所在を訊いた。ゲルダはエドガーがここに自分たちを匿》ったあとの事を一つ一つ話した。高熱を発したエドガーのために解熱材と抗生剤を手に入れるために姉は単身でここをあとにした事を。
「あとねぇ……ネコちゃんがいたよ。栗色の。あたしがおいでおいでしたけど先生とあたしを見たらぷいっていなくなっちゃた」ゲルダがさらにその後に起きた事を自分の先生に告げようとした時だった。
大型トラックに宛がわれた搬入扉のすぐ脇の通用口が開く音がした。足音が一つこちらに駆け寄ってくる。木箱で囲われたバリケードの陰から姉、アリシアが姿を現した。
ゲルダはその腰に抱きついた。アリシアは十七歳の娘盛りを迎えていた。彼女は公用で忙しい母オリヴィアに代わりゲルダの母親代わりでもあった。母、オリヴィア・ヴァルデスは混血系の黒人、父レナード・ラオ・ヴァルデスは白人系であった。
二人の姉妹は共に母親の血が濃く出て褐色の肌をしていた。異なる点はゲルダがクセの強い茶色の髪、陽の当たる角度だとやや赤味を帯びるのに対して、姉は背中にまで伸びた艶やかな黒髪で直毛。常に活発で男勝りの妹の世話を焼く、ゲルダにとっては優しく美しい自慢の姉であった。
「ブライトマン先生、腕を出して。解熱剤は錠剤だけど、抗生剤は皮下注射するしかないみたい」
「注射なんてできるのぉ?」医者嫌いのゲルダは姉が携えてきた紙袋の中から個別包装された注射器をおっかなびっくりに見つめている。
「これでも医者の卵よ。実習で経験済み。ゲルダは先生の水筒を取ってちょうだい。この錠剤を飲ませるの」
ゲルダは自分の腿の上にエドガーの頭を置かせて姉の言うとおりに二個の錠剤と水筒の水を口に含ませた。その間に姉は慣れた手付きで処置を終えた。
「先生……街の人々はまるで人が変わってしまいました。両親はこれほどまでにペルガモン市民に憎まれていたのでしょうか?」処置した後の止血を自分の指で抑えているアリシアの懸念にエドガーは苦悶しながらも
「そんな……ことは無い。君たちの父そして私とアーサーの共通の友レナードは高潔な人物だ。彼は……この火星世界の民族融和を提唱していた。現に彼は自分の生涯の伴侶にオリヴィアを選んだ……。君たち姉妹はその結晶でありシンボルだった……そのはずだったんだ」こう姉に言った後にまたエドガーは目を閉じた。
子供にはやや難しい二人の話に耳を傾けていたゲルダは姉の変化に気が付いた。
「姉さまぁお顔が腫れてるよ。それに持っていった白のセカンドバックも無いよ。失くしちゃった?」
姉は硬い倉庫の床に正座したまま妹の詮索に目を伏せ唇をきゅっと噛みしめた。
「薬屋で代金を払おうとしたらバックごと獲られたの。その後殴られたのよ……。薬は投げてよこしたわ」これだけを語った後、何故かアリシアはしきりに自分の胸元をゲルダから見えないように抑えていた。
「嘘だぁー。薬屋のオジちゃんはあたしが父様のいつものお薬を貰いにいくと『偉いねぇ』ってあめ玉くれるもん」姉の身に何が起こったのか判ろうはずもない幼い妹の言葉にアリシアは
「ゲルダ……今はみんな普通じゃないの。でも恨んだりしてはダメ。今だけよ、すぐにもとどおりになるからね」と言い含めるように諭してから、紙袋から一個のコッペパンを妹に手渡した。ゲルダはそれにイチゴジャムが挟んであるのを見て取ると
「あたし、ピーナッツバターのほうがいい!」唇を尖らるゲルダは笑顔のアリシアから少し嗜められると、そのままそっぽを向き黙ってそれを口に運び始めた。
それから程なくエドガーの意識が戻った。苦悶の表情は薄れて彼はゆっくり上半身を起こした。
「いくらか楽になったよ。さすがは医者の卵だ。まだ膝がうずくが処置が効いてきたみたいだ。ありがとうアリシア」
エドガーの目も姉の着衣が僅かに乱れてブラウスのボタンがいくつか無くなっているのを見逃さなかった。ここに来るまで恐らく薬屋の店主から何をされたのかを察した彼が問い質そうとすると、アリシアは妹の様子をちらっと伺い、目に一杯の涙を湛えながら何度か首を横に振った。
エドガーは手甲の付いたグローブで握り拳をつくると怒りの鉾先を無事な方の膝へと向けて思い切り叩いた。そして
「済まない……」と、囁いた。
「先生、これからどうなさいますか?」と、姉は無邪気にパンを頬張る妹を見ながら問うた。
「何とか車を手に入れよう。それからヘキサゴン・エリアで船を見つけないと……」
「大丈夫だよぉー」ゲルダが手に付いたジャムを舐めながら二人の間に割って入ってきた。
「さっき言い忘れたけど、ネコちゃんがいなくなってからオリガさんが来たんだよ。あたし達を逃がしてくれるって……どうしたの姉さま?」
オリガとは自分たちにとっては従兄弟にあたる。父レナードの弟ジャスパー・テオ・ヴァルデスの一人娘で白い肌に金髪、碧い瞳であった。その名を聞いた途端にアリシアとエドガーの表情が硬くなったことにゲルダは首を傾げている。
「いかん!ジャスパーの一味にここを知られてしまった。すぐにここを出よう」彼は足下に放置されてあった自動小銃にはもはや何の効力も無い事がわかると軽く舌打ちした。彼の持ち札で使えるのは腰の拳銃だけとなっていた。
「ゲルダ……わたしの言うことをよく聞きなさい」いつになく姉の厳しい表情にゲルダは口を開けたまま一つ肯いた。
「いいこと、先生と一緒に行きなさい。決して振り返ってはいけない!わたしは……後から必ず行くから」
また泣き始めてゲルダは立ち上がって地団太を踏む。姉は聞き分けの無い妹を抱きながら頭を撫でてやっている。
「君もくるんだ!アリシア」だが、姉は差し伸べられたその手をふり払うとエドガーの顔を真っすぐ見つめた。
アリシアが何を決意したのかを、迷いの無い表情から察したエドガーはもう一度姉の腕を取ろうとするも、彼女は微かに俯いて
「これしか方法はありません。先生……妹をお願いします。大丈夫……私の脚が速いのは……!」
外で二台の車が急ブレーキをかける音がした。その後複数の人間が車のドアを開け閉めする音を三人は聞きとめた。
エドガーはここに押し込んでこようとして来ている人数を足音から、ざっと六人と見積もった。その内の一人はオリガであろうとにらんだ。
「ここだ!一人は男だ。武装している気を付けろ」女性の声だった。ゲルダは泣き止みオリガの名を呟いた。姉は一時かたく目を閉じた後に再び妹の身体をきつく抱くと
「ゲルダ、強い娘になってね。さようなら」アリシアは元来た通用口へと駆け出した。後を追おうとするゲルダの手を引いたエドガーは痛む左足をかばいながら立って反対側の出口へと向かう。
「ゲルダ、目と耳を塞ぎなさい。私が良いと言うまでそのままでいるんだ」彼は幼女をお姫様抱っこすると身体全体でドアを押し開け、倉庫と倉庫の間にある人一人がやっと通れるくらいの細い通路へと出た。
倉庫街を照らす電灯の光が差す方向には大型トレーラーが通れるような広い構内用道路とそして今しがた到着した二台のセダンが見えた。反対側は金網のフェンスが行く手を遮っている。エドガーはセダンの方へと左足を引き摺りながら歩みを慎重に進めた。ゲルダは先生の言うとおりに目を閉じ両手で耳を塞いでいた。
彼は倉庫の壁が途切れる寸前で、二台のセダンとの距離を目測した。ざっと四、五メートルはあろうかと思われる二台のうち、自分たちに近い一台は無人で、並んで停車しているもう一台の方には運転席に一人。その男はこちらには気付かずにある一点をニヤニヤしながら見入っていた。
姉アリシアの悲鳴が閑散とした構内用道路と人気の無い倉庫群の建屋に反響した。ゲルダはそれにとっさに反応して、運転手のいる車を奪わんと銃を取り出そうとしていたエドガーの腕から飛び出してしまった。エドガーの制止も聞かずにゲルダは通路から広い所へと駆け出し、そして見てしまった。姉アリシアが男たちに嬲られている様を。
倉庫街の中まばらに点在する街灯。その蛍光灯の灯りの下でアリシアは男たちに仰向けに圧し掛かられていた。泣き叫び女のか細い腕で抵抗するも下劣な禽獣と化した連中はゲームを楽しむように彼女の衣服を剥ぎ取り、足を開かせている。
その光景に慄然としているゲルダの下に別の女性の声が。声の主は居丈高に陵辱される自分の姉を見下していた。
「いい格好だよ。お前にはそれがお似合いだぁ!このうす汚いカフェオレ肌の女がぁ。誰がお前の足下に跪くかよぉー」オリガ・ヴァルデスであった。黒の革ジャンにスリムタイプのジーンズと真っ赤なパンプスを履いている。ウェーブのかかった金髪が背中を覆い、微かに背中が揺れる。嘲笑っているのだ。ジーンズの尻ポケットには拳銃の銃把が覗く。
「いやだぁぁー!ねえさまぁ!」
ゲルダの叫びに勘付いたオリガがゆっくりと振り返った。大きく円らな碧い瞳が獲物の片割れを捕らえるやその目を細めた。
「ゲェルゥーダァーそこにいたかぁー。よーく見てごらぁーん姉様の雄姿をさぁ」オリガは勝ち誇り尊大に構えガムをくちゃくちゃさせながら、ゲルダの方向に歩み寄ってきた。
「恨むなら自分の父上を恨むがいい!あたしのオヤジと一族連中の制止も聞かずに、黒人女を娶ったりするからだ。その上、お前の大好きな姉様と娶わせた男に、この『J・F・K』を任せるだと……何が民族の融和だぁ胸くそ悪いんだよぉ」オリガはゲルダをしげしげと見つめてから薄気味悪く唇をうっすらと上げ
「前っからてめぇが気に食わなかったんだよ、このクソチビのヴァンパイアめ!お前にも姉様と同じように男のあしらい方を仕込んでやる。姉妹そろって毎晩、お客様に向かってかわいい尻を振り……!!」
ゲルダはその場に屹立として大きく見開いたダークブラウンの瞳でただ一点、オリガの碧眼のみを見つめている。これが幼女かと思われる程に冷ややかで落ち着き払ったその表情、槍の切先の如くに鋭い眼光の奥に潜む言い知れぬ不気味な何かを感じ取ったオリガは歩みを止め、大きく生唾を飲み込んだ。
「そんな目で私を見るな!いいかぁ王を意味する称号”ラオ”は我が父が受け継ぐべき物だ。正統なる民族の血統に基づく粛清は我らが一族の悲願だ。……や、やめろぉー」
オリガはゲルダがゆっくりと声を発せずに唇を動かして大きすぎる犬歯を垣間見せつつ、ある言葉を表すのをみた。それは”コ・ロ・シ・テ・ヤ・ル”であった。僅か齢八つの子供が発する言い知れぬ迫力に気圧されまいと歯軋りしながらオリガは震える手で尻ポケットの銃に手を伸ばした。
「動くな!そのままでいろ」エドガー・ブライトマンがゲルダのすぐ後ろで銃を構える。軍隊仕込みのしっかりした所作に、オリガはゆっくりと手を銃から離す。そして彼女は車の守りにと運転席に残しておいた手下の一人が車の横で倒れているのを発見して舌打ちした。その男はあらぬ方向に首が捻じ曲がりうつ伏せであるにも拘わらず、その生気を失った顔を夜空へとむなしく向けていた。
「ゲルダァー!見ないでぇぇ!逃げるの。奔ってぇー!」これがゲルダが聞きとめた姉アリシア・トワ・ヴァルデスの最後の言葉となった。これを耳にした途端に彼女は年相応の幼女へと相貌を変化させた。
エドガーはゲルダを身体ごと抱え込むと運転席側から中へ押し込んでから、銃でもう一台へと二発銃弾を放ち、片側全てのタイヤをパンクさせた。
「済まないゲルダ!……許せアリシア……」と、運転席で呟いた後にエドガーは奪った車を急発進させて倉庫街を後にしたのだった。
タイヤが空回りして残した白煙の中で、ゲルダが見た光景は姉にとり付く禍々しいどす黒い陰の塊。それはやがて彼女の視界の中で小さくなり涙で霞んでいった。
アトランティア・ネイションズ首府城『マルス・セントラル』。 グランド・リンカーン中央政庁都市内 高級ホテル〈パレス・ラ・デュポン〉 深夜〇二:二五
「『プロイセン』に戒厳令か。うむ、ご苦労でした……デジタル回線?いかんよ君。あれは便利な分だけ傍受される危険性が高い……こうした有線でのアナログも時には効力を発揮するものだよ……。夜分遅くに済まなかったね。おやすみ」
黒いハンニバルと称されて久しい老人は暗がりの中、古風で豪奢な造りの受話器を戻した。
「深夜だというのに、忙しない街だ……」彼はすっかり白くなってしまったちぢり毛を撫でながら、ホテルの最上階にある政府高官専用ツインルームからの眺めに目を凝らしている。特に感慨も無い。あるのは右目のみに映っては消えていく眼下の光の洪水ばかり。
老境に入ると眠りが浅い所為かすぐに目が覚め、今度は寝付けなくなる。用を足した後は一人では広すぎるベッドの端に腰を掛けてただ夜を眺めるばかりが日常となって久しい。
ベッドを共に暖めてくれる夜の淑女を伴うのもこの年齢に到ってはいささか憚られるというもの。醜聞なぞ歯牙にもかけぬが、男としての務めが疎かになっている現実を突きつけられる方が酷なのだ。
ベッドサイドの照明スタンドの力も借りずにエドガー・ブライトマンはその脇に立てかけてあるポートレートを手に取った。それはごく短い期間ではあったが彼が家族同様に過ごした姉妹と三人で採った写真であった。中央にはその頃一番背が低かったゲルダ。その後ろに並んで彼と姉のアリシアが肩を寄せ合っていた。
国事、とりわけ謀事に奔走し続けたエドガーは遂に家庭も妻でさえ迎えたことは無かった。それでもこれまで浮き名を流した女性の数は両の手と足の指を足しても及ばない。そんな彼が人並みの幸せを夢見た対象は親友の娘たちヴァルデス姉妹であった。
いつ如何なる時においても傍らに置くそれを眺むるに、彼には外から差し込む街の灯りのみで充分であった。
「ゲルダよ……あの時、アーサーはな『一人だ。一人ならなんとか助けても良い』と言ったんだ。私の願いは無碍にされたよ。アリシア……できれば君を私の……」エドガーは人差し指で写真の二人を愛おしそうに撫でた。
さて、これからの長い夜をいつもの様に収集してきた誌面のスクラップノートをめくるべくエドガーがベッドサイドの引き出しに手を掛けた時、電話のベルが鳴った。
目覚ましの不躾な電子音に比べればささやかであったが、深夜の人気の無いツインルームにあってはやはり鬱陶しい。
受話器を取り「私だ……」と言った後に相手の報告を受けたエドガーは動く右目のみを閉じ、受話器を自分の胸元へと押し当てた。天井を仰ぎ、もう何も映り込まない左目だけが天井の模様を無味に捉える。彼は暫しの間そのままに……。
「……大丈夫だ。……では国葬になるな……先ずは親族である大統領閣下にお伺いを立てるのが筋だよ。明日いやもう今日だな、私もご挨拶に伺う……それも親族が先だ。万事滞りなく……そうだ任せる……わざわざありがとう」
受話器をベッドサイドにある本体に戻すと、左足を庇いながら窓辺に立ったエドガーはまた右目だけで夜を眺め始めた。
「友よ逝ったか……。あちらで勝手にしゃべくるなよ。私にも言い分がいろいろとあるからな……。なに、そう待たせはしないさ」とエドガーは呟いた。
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