軍神の星 後編

火星のジャンヌダルク ルナン・クレール伝<2>
梶 一誠
梶 一誠

第十七話 はぐれツバメと孤高の獅子王

公開日時: 2022年4月2日(土) 17:11
文字数:13,664

 「からくも故郷『J・F・K』からの脱出を果たした後にな、今でも忘れられない経験がある。難民センターの職員から投げかけれた『すぐに稼げるようになるさ』という言葉だ」ゲルダはここまで忌まわしい身の上を語った後に、自虐とも言うべき笑みをキサラギへ向けた。

「いつの時代も泣くのは女ばかりだ。我はそれが許せぬ!」ゲルダがふと目を上げるとキサラギが目前に立っていた。彼女はゲルダのダークブラウンの髪を腕の中に包み込み、頬ずりしながら

「泣いてもいいんですよゲルダ様。私、孤児でした。これまでに何度も一人ぽっちで膝を抱えて泣きました。今の里親に引き取られてからだって添い寝してもらって、辛かった事を思い出して泣くたびに頭を撫でてもらったものです」と言った。

「キサラギ……君は……姉様と同じ匂いがする」ゲルダもまたキサラギの腰に手を回した。背中をかきむしる様にきつく抱き寄せ、目を閉じたままで彼女は少女の若く力強い鼓動を聞いた。

 やがて、ゲルダは彼女の身体から離れ小首を傾げて見せ

「残念だが、君のように素直に泣ける感性はとうに失くしてしまったようだ……我が子供でいられた時代はあの日までだ……」そう言うなり立ち上がったゲルダは両手をキサラギの肩に置き、いつもの鷹のような鋭い眼を向け、こう言った。

「キサラギ・スズヤ。我が下に来い。さすれば軍略と戦術の妙を授けよう!君と同年代の女武者と共に近衛このえ一隊を担わせてもよい」

 自分に課せられた使命のようなゲルダの物言いにキサラギは答えに窮した。無理強いされているのでは無い。本心から心根が揺らいでしまっていたのだった。

 目の前の将官には里親とだけ称したルナン・クレールとは全く異質な魅力がキサラギを突き動かさんとしてくる。

 ルナンならば”このお人には私が付いてやらねば”そう思ってきた。

 今は、”この方の為ならば如何なる堅陣をも恐れず突き破って見せる!ただ一言『大儀!』とねぎろうて下されればそれで良い”これは戦士としての憧憬。また別に”この方が男であってくれたなら!さすればねやで組み敷かれてもいとわぬ!背中に自分の爪あとを残したい。覇王の胤を我が胎に宿してみたい”よわい十六にしては大それた、一角ひとかどの女としての感情も沸き起こって来てはキサラギの心を騒がせるのだった。

 「何か?」ゲルダは士官執務室の頑強な舵輪式ロック付き気密扉の方に顔を向けた。そこには黒人系の女性士官が立っていた。彼女はゲルダとは別系統のライト・グレーにタイトスカートタイプの制服。

「ラウダルッツ准尉か……入れ!」許しを得た准尉は素早くゲルダへと歩み寄り、何事かを告げた後はそのまま次の下知を待って不動の姿勢を取った。腕を組んで天井を仰ぎ思案するゲルダの妨げにならぬようキサラギはしずしずと二、三歩下がった。

「腹が減っているであろう。少し早いが届けさせよう。我は中座するがゆっくり腹ごしらえをしながら考えるといい」そう言いながら准尉を引き連れてゲルダが士官室を後にして重い気密扉を閉じる寸前にキサラギは

「私を着替えさせてくださった上等兵曹にもよろしくお伝えください」と言うと、准尉だけが歯並びの良い口元を見せて少女へ微笑んでこう囁いた。

「それは私の事です。あのお方よく間違えるんです」

 二人の退室後キサラギは今一度、舷窓へと駆け寄った。長大無辺な円筒形を為す軌道要塞の中心軸。遠心力による人工重力の影響下にない無重量空間帯に位置する巡洋艦の船尾方向には一隻の有翼型コルベットが燃料補給のためか船尾から伸びる太いチューブと蛇頭型の舳先とを連結させていた。

 彼女は舷窓に顔を押し付けるようにして、この巡洋艦がどの市街の真上に滞空しているか確かめようと試みるももやが厚いヴェールとなって視界を阻んでいる。

 キサラギは休む間もなく自分の装具へと駆け寄り、一式を床面へと引っ張り出すと分厚い胸部アーマーの内部へと手を滑らせた。自身の苦心作である各部ロック開放用に調節してある偽造磁気カードを数枚引っ張り出した。

「ルーヴェンス、居るの?」キサラギはコンパクトにまとめられた士官室兼執務室内をぐるりと見回してみた。

 ベージュ色の壁と天井のほんの僅かの隙間から小さな前足が覗くと、それは器用に建具の一部を引っ張り上げる。すぐさま黒い毛の塊が降ってきた。


 「ねぇ君、お願いだから」覚醒を終えた、ミハエル・デュシャン貴族院議員は着崩れたパーカー姿で、アジトから戦いの場へと飛び出そうとしていたアメリア・スナールの行く手をさえぎった。

 彼は畏れも見せずにつっと彼女に歩み寄り、血脂で鈍く輝く刃を素手のまま握った。

 畏怖の念を覚えたのはアメリアの方であった。彼女は初めて言葉を交わしたミハエル・デュシャンなる人物の穏やかだが物言わせぬ眼力の為せる業か、思わず身をのけ反らせてしまい

「止せ!怪我をする。……判った!だから手を……手を放してくれ」すっかり殺気がえてしまったアメリアは声を微かに震わせている。

 ミハエルが武器から手を放すとアメリアはさっと怯えるように後ろへとさがった。入れ替わりにルナン・クレールが恭しく一礼した。

「ミハエル・デュシャン様、さぞや驚きの事と存じます。わたくし自由フランス海軍士官ルナン・クレール少佐であります。お迎えに上がりました。先ずはこのような事態となりましたご説明を」と、彼女が事の顛末を語ろうとした時、ミハエルはさっと彼女の眼前に手をかざした。

「少佐……いや、ルナン・クレール。君はこの亡骸をこのままにして置くのかね?そこのあなた、毛布か何かありませんか?」ミハエルはルナンをアメリアの時とはうって変わって険しい目付きで見据えてから、パイパーに声をかけた。パイパーは一度背筋をピッと伸ばすと、厨房の奥にある備品置き場へとすっ飛んでいった。

 ミハエルは未だ自分の足もとで物言わなくなった二人の遺体に自ら手を掛けて、きれいに横並びにさせようとしている。ルナンとアメリアも慌ててそれを手伝い、パイパーが持ち寄ったブルーシートでフィリップ・マーロウと名乗っていた大尉と、マントという顔の青白かった男の遺体を四人でくるんだ。

 「気は済んだかな。ミハエル」一人だけ遠巻きに作業を見つめていたハンナ・マティアスが唐突に言った。彼女は払い落とされた拳銃を拾いホルスターに戻してダークグレーの上着を羽織る。

「久しぶりだね……ハンナ。どうして君とヒューバートはボクを担ぎ上げたがるのか。放っておいてほしかったよ」ミハエルの言葉にマティアスをのぞいた全員が色めき立った。

「マティアス!何故黙っていた!」初めて聞く事実にルナンは彼女に詰め寄るも

「私の経歴を洗ってヒューバート・ファン・アイクとの関係を明らかにしているなら、当然の事と思ってね。それに、襲撃部隊に知られて余計な詮索をされるのも警戒したんだよ」マティアスはルナンを軽侮したように口元を歪ませ、アメリアには不穏な眼差しを向けながら窓辺に歩み寄った。

「早くにここを脱出したほうが賢明だな。今はまだ空挺部隊は集合しつつある。日が昇れば隊伍を組んで辺りをくまなく捜索する。ミハエル、愚痴は後で聞いてやるから、今は私たちに付いてきなさい」実年齢では年下のはずであるのに、マティアスは生徒に小言を言う女教師みたいに大統領候補殿を急き立てた。

「また……人が死んだ。私は罪人だよ……。私が動けばまた多くの人が傷つく。……さっき撃たれたのは麻酔弾だったんだな。そのまま撃ち殺してくれれば良かったんだ」二つの遺体の側にしゃがみ込んだままでミハエルは苦渋に満ちた表情を浮かべている。

「脱出だぁ?どっかのマヌケの手違いでヘキサゴン・エリアが破壊されたって言うのにどうやってこの軌道要塞から外へ出ようってんだよ!」アメリアは再びソードの切先をマティアスの喉元に向けた。

「まだ、許したわけじゃねえからなぁ!」胸倉を引っつかんで凄むアメリアにマティアスは平然としたままでテラス窓に背中を預けている。

「パイパー、船を別に手配できないか?」と、ルナン。

「普段なら問題無いのですが……外部通信を封鎖されているために連絡が取れません。それと恐らく滞空コルベットの母艦が近くにいる為に民間船はみな退避しているかと……」

 パイパーは申し訳なさそうにして答えた後は俯くのみである。

「さぁて、クレール少佐殿のお手並み拝見といこうじゃないか?船無し、逃げ場無し……どうするね?」マティアスは肩を揺らしてこの場の状況を楽しんでいるかのようだった。

 ルナンは腕を組んで自分の軍靴と木目が著しくデザインされた床面に目を注ぎながら考え込んでいる。さりとてすぐに妙案が浮かぶわけも無し。時間だけが無為に過ぎてゆくばかり。

「マティアス……『革新・青の党』の連中は使えんのか?」

「バカを言うな!連中は無抵抗主義だぞ。武器を取って軍隊の矢面に立てって言うのか!」

 そんな二人を見かねて貧乏学生風の大統領候補が

「私が侵攻部隊の長と掛け合おう……それしか手が無いんじゃないかな?ハンナ。それとルナン・クレールさん」と、言って立ち上がった。

「ミハエル!君は別だ。くにからのお呼びが掛かっているんだ!好き勝手されては困る」マティアスはここに来て初めて慌てて見せた。そして当人には聞こえないように「また、悪い虫が出た」と口にするのをルナンは耳にした。

「邦が?迷惑千万だよ。私は一度だって国家の領袖たるを望んだ事なぞ無い!好きにさせてもらおう」ミハエルはこう言うなりエントランスのドアノブに手を掛けようとした時だった。

 エントランスが勝手に開いて埃っぽい空気と共に一人の男性が駆け込んできた。

「アーメェーリアァァー!無事けぇ」野暮ったいが実直そうなガッチリした体型の男はそう叫ぶなり、他の面子なぞ目もくれずに完全武装の女性へと駆け寄って、いきなり彼女の身体を抱きしめた。

「ウ、ウィルバー!おめぇこったら所に何しに来ただぁよー!」知人の予告なしの来訪に困惑したアメリアは危ないからとこの男性をなだめてから、ヘルメットを脱ぎソードを収納させた。

 それから二人は余人には皆目見当の付かないお国詞で互いに捲くし立てあった。その途中でアメリアは彼の口をグローブで塞いでからルナンを招き寄せた。

「コイツ、いや彼はなウィルバー・ヨハンセン。前に話したことがあったろう。彼はリアクター・ギルド向けの日用雑貨品やら食料品を納入しているR・G・M社の社員だ。ここに来たのは私の安否を気遣ってのことなんだがぁ……ウィルバーの話じゃなんでも地下鉄があるって話だ。えーっとぉ……ああもう!後はおめぇが説明しろやぃ!」と、ルナンに自分の元許婚を紹介しがてら、後の話をウィルバーに振った。

 ルナンとウィルバー・ヨハンセンは互いに「あ、どーも」と軽く会釈を交わすと、それを皮切りにウィルバーはルナンに詰め寄るようにして話を始めた。

 少々早口で、きついお国訛りを交えながら、会社のロゴ入り作業服にビジネス風スラックスという、朴訥ぼくとつとして、仕事熱心と思われる太目の青年が額に汗して語った所によると

 自分の会社の事業所兼倉庫の地下には、この宇宙都市の北限側に居を構えるリアクター・ギルドの一族が管轄している核融合反応システム区画、俗に言う”ギルド・ファーム”まで直通の地下鉄があると言う。

 戒厳令下にあって封鎖されている公共路線とは全く別のR・G・M社専用の路線は数両の客車と残り貨物輸送車両合わせて二〇両編成の単線。頻繁に市街区へ赴くことの叶わないそこの住民たちの為に開設している雑貨店向けの品を運送するための施設である。ウィルバーはその電車の運転士免許も有り、それに乗ってこの政情不安なポツダム市からギルド・ファームへ現婚約者(ウィルバーの思い込み)であるアメリア・スナールと共に避難しようと考え、居ても立ってもいられなくなり戒厳令が敷かれる中を必死の思いで自転車こいでこの『金のクマさん亭』に駆けつけて来たと言うのであった。

「大丈夫だよ!おらこれでもギルドの連中には顔が効きますでね。ここの皆さんをかくまうぐらい何でごどねぇ。任してくんちぇ」ウィルバーは最後に、つるっぱげのように短く刈り込んだ丸顔からはみ出さんばかりの大きな目と口で人懐っこそうな笑みを浮かべた。

「……ウィルバーよ……あれ、見てみぃ」アメリアが二人の間から、エントランス脇の待合ソファの床に転がっているブルーシートに覆われたそれを指さした。何の事かと彼女の許婚は目を細めて、その床面に血溜りが広がっているのを見るなり驚嘆の声を上げた。彼はアメリアの姿を見つけるのに夢中で二体の亡骸には気付かずに店内に入り込んで来てしまっていたのだった。

「見ての通りだよ。あたしは血生臭い女なんだ。いいからあんたは自分一人で逃げなよ」同郷の昔馴染みを気遣い、自分のことは諦めるように仕向けたアメリア。だが彼の反応は意外な物だった。

「アメリア、おめはオレの事舐めでるのが?」

「……危険な任務を帯びている。命の保障ができないんだ。聞き分けてくれ」

「おれはなぁ嫁っこさ置いで一人で逃げる腑抜げでねぇぞ!そだこどしたらおめの父っつぁまに顔向げでぎねぇ」

 さらに悪化が予想される不穏な状況を危惧するアメリアはなおも食い下がり

「バカ!そんな悠長な事言ってる場合か。そもそも何で来たんだ……許婚と言ってもとうの昔に済んだ話じゃないか」

「おれは故郷出でがらもおめの事ずっと探してだ。この店でおめを見づげだ時、おらの心は決まったんだ。こごさは”おめが好ぎだ”の気持ぢ一づで来だんだ。文句あっかぁ!」

「……ウ、ウィルバァー……」”好きだ”と真っすぐに言われて顔を真っ赤にさせてなおもアメリアは目に涙を浮かべながら首を横に振るばかり。

「いいがらついで来い!もう離さねぇがらな!」ウィルバーはぐっとアメリアを抱き寄せ逞しい腕で彼女のスレンダーな身体を包み込んだ。

 アメリアは「バカ助、バカたれ」をくり返しながらも彼の肩に顔を埋めて背中を小刻みに震わせた。

「よし!話は決まった。ヨハンセンさんご好意に甘えます。よろしく頼みます」ルナンが二人に歩み寄りアメリアの尻を軽く叩くと

「コイツもお任せする……。良しなに」と、ウィルバーにウィンクした。

 ルナンは二人に背を向けて、つっとマティアスの眼前まで来ると

「手を貸せ!マティアス。オレと貴様の利害は一致している。何としてもこのボンクラを伴って邦へ立ち返り大手を振って帰国をアピールするしかない。暗殺を企てたデーニッツと背後で糸引く奴らの鼻をあかしてやるしか、オレ達が生き残る術は無い!違うか」と、言った。

 マティアスはじっとルナンの凜として淀みない碧い瞳を見つめていたが、やがて一つ大きく息を吐いた。

「一理あるな。『プロイセン』を無事脱出するまでなら協力しよう。だが、その後は好きにさせてもらう」

 ルナンは軽く肯くと今度はパイパーに向けて指示を出す。

「パイパー、大通りを使わずにR・G・M社の事業所まで行ける道を検索しろ。もちろん最短でな」彼は無言で敬礼を返した。そして最後に、ミハエル・デュシャンへと歩み寄るとジロリと彼の顔を見上げ

「オイ、ボンクラ。お前さんさっき『撃ち殺してくれれば』って言ったよな」と、大統領候補に失礼極まりない言を浴びせた。

 ミハエルは無言で、ドイツ艦隊の黒を基調とした士官の扮装に身を包んだルナンの軍帽の下から覗くソバカス顔をじっと見つめ返す。それでも彼女の言葉は止まらない。

「あれを見ろ。ああして無辜むこの市民が手を貸して下さるそうだ……自らの命も顧みずにな。動機はともあれ、お前さんはあの人の気持ちも無碍むげにするのかよ。どうなんだ?」まるでルナンを値踏みするかのように無言のままでいる人物に彼女は自分の心臓を勢いよく拳で叩いて見せた。

「ここにグッと来るものは無いのかって訊いてんだ!答えろボンクラァ」

「判ったよ少佐。わたしも彼の勇気には感じ入るものがある。協力しよう後に続くよ」ミハエルはルナンにお手上げのポーズを示して見せた。

「なら、二度と死にたいなんて言うなよ。『イル・ド・フランス』に辿りついてからなら、拳銃で始末をつけようが、川に飛び込むかオレの知ったこっちゃねぇ」ルナンは念を押すようにしてミハエルに人差し指を向けてから、ヨハンセン氏に先導を願うべく振り返った途端、その場で石像のように固まってしまった。

 アメリアとウィルバァーは互いに抱きしめあって口付けを交わしていたからに他ならない。

「あ、あのぉ……ムッシュ・ヨハンセン、出来ましたらぁーそのぉ」二人の醸し出す愛のフィールド圏内に申し訳無さそうにしてルナンが近づくと、アメリアの方が先に彼から離れた。その後は紅潮した顔面を両手で覆いその場でしゃがんでしまった。ウィルバーは照れ笑いをしながらエントランスへと踏み出した。

 ルナンと同じ扮装しているパイパーがタブレットと大きな紙袋を両手に続こうとすると、ルナンに呼び止められた。

「パイパー……時間を置いてルーヴェンスにこちらの位置情報を送れ!無重量空間帯にあるGPSドローンはまだ生きているな?」

「了解。アトランティア制圧陸軍もGPSには手を出さないと思います。これもギルドの管轄ですし、奴らもそれ無くしては各部隊との連携が取れませんからね」

「キサラギはきっと生きている。信じよう」大きく肯くパイパーの肩を叩くとルナンは彼を送り出した。

 ミハエルとアメリアが店を後にしようとした時、ミハエルはレジ脇にあった花瓶から色彩豊かな花々を抜き取ると、ビニールシートの上に置き静かに十字を切った。

「子供の頃、神学校に在籍していたものでね。その頃の教えが抜けないんだよ」こう言ってから彼も店の外へ。

 ルナンはマティアスと共に一時仮の住まい兼仕事場であった『金のクマさん亭』の店内をぐるりと見回してから、ブルーシートに覆われた二人に手向けられた花々を見て

「フィリップ・マーロウなんてコードネームなんか使うからだよ……悪く思わんでくれ大尉」彼女はぼそりと洩らした。

「知っているのか?」マティアスも同じ物をみながら呟いた。

「ああ、古典的な探偵小説の主人公さ。とことん宮仕えには不向きな名前だよ。小説ではマーロウはクールなタフガイなんだが、オレから言わせれば遂に女房の一人も養えなかったろくでなしさ」

マティアスはルナンに微かに含み笑いをして見せ

「……同感だね」と、言った。


 キサラギは運ばれてきた朝食を、士官用のコンソール卓の上に置いてパクついていた。やや深めの料理皿と一体型になっている淡いピンク色のトレーには、焼きたてのロールパン二つとやや半熟の塩コショウの味付けだけのスクランブル・エッグと焦げ目が目立つベーコン、そして水滴が浮き出ている紙コップには新鮮なオレンジジュース。

 彼女はスクランブル・エッグをトレーごと持ち上げ口の中に流し込むようにして、ほぼたいらげてから二個目のロールパンにかじり付いた。

「よくもまぁこんな状況で食欲がでるねぇ。感心しちゃうよ」ルーヴェンスはキサラギとゲルダが座していたソファにのんびりと寝そべりながら、少女の豪快でいささかお里が知れるような食いっぷりに感嘆を漏らした。

「今、食っておかないと後でいつ食い物にありつけるか分かんないわよ。その後は?続きを聞かせて」

 キサラギはクロネコとの再会を果たした後に、彼が如何にしてあの無人機動戦車を煙に巻き、ゲルダに抱きかかえられていたキサラギを追って、勘付かれないようにゲルダを迎えに来ていたシャトルに潜り込んだかを人間と同じように身振り手ぶりで熱弁していたが、その途中に朝食を運んできた給士役の兵がやってきたためにクロネコを装備の中に隠して話を中断させていたのだった。

「今の所、クレール様たちは無事みたいだよ。デュシャン氏の身柄を確保できた所までは確認できた。逐一、パイパー氏からのメールが俺に届いている。『サン・グレアー』号が沈んだ事が報じられて、君の安否を気遣うメールが引っ切り無しだ」

 キサラギはベーコンをごきゅんと飲み下してから、脂でぎらついた唇を舌でべろりと舐めまわすと

「だったら、返信してあたしたちが無事な事を報せればいいじゃない」と言った。

「んな事できるかぁ!そのとたんに監視AIに引っ掛かかってボクの位置情報がばれるだろうが!」

「そりゃそうね。君、頭いいじゃん!」キサラギは合点がいったかのように肯きながら、半分になった食いかけのロールパンで、トレーに残ったベーコンの脂とスクランブル・エッグを拭いとってから口の中にねじ込んだあとはオレンジジュースで胃の中に流し込んだ。

 ふーっと満足気に一息入れた後、キサラギは胸元に隠してあった三枚の偽造カードを目の前のルーヴェンスにかざした。

「さぁて、どうしたもんかね?」自分の”昔取った杵柄きねづか”を眺めているキサラギ。

「さっさとそれを使ってここを出ようぜ。この巡洋艦にはさっきから外部からの通信が入ってきている。内容は不明だが、入港口から逆走して宇宙へ出てしまったらもう脱出は不可能になる。判るよな?」

「最初は、コイツを使ってセキュリティを解除するつもりでいたけど……やめた」

「どうするんだい?」

「着替えるわ!真っ向勝負に出てみる」彼女はすぐさまゲルダから下賜された可愛らしいブラウスを脱ぎ、ソファの脇に広げてある装具一式の中からツナギ式の装備服にスラリと伸びた足を通していると、ルーヴェンスが申し訳なさそうに声を落として言った。

「……ゴメンな、キサラギ。俺があんなマヌケ戦車にてごずったばっかりに」

「いいんだルーヴェンス。あたしを助けるために頑張ってくれたんだし……それに」

「それに?」

「ゲルダ・ウル・ヴァルデス様との知己を得ることができたの。そしてこの巡洋艦は『ヒンデンブルグ』。コルベットは『ファンデル』、『ゴート』それに『ランバー』の三隻。これは有力な情報よね。ルナンに報せてあげなきゃ」未だやや顔に憂いを帯びたままのキサラギはそういいながらもクロネコの相棒に笑顔を作って見せた。


 重巡洋艦『ヒンデンブルグ』の上部構造物のほぼ中央にある島型艦橋の最上階にはドーム状のレーダーサイト、志向性レーザー通信システムと言った電子機器と設備がひしめいている。それより二ブロック下の中央司令室には外壁から少し張り出た形で監視用の窓が居並び周囲をぐるりと囲む。

 ゲルダ・ウル・ヴァルデス第五〇二独立遊撃艦隊司令はこの艦橋内で一段高く設けられている艦長席にあって、居心地が悪そうに何度か身体をゆすりながら、吊り下げ式の通信用モニターに映る人物からの報告を受けていた。

「宜しい。高坂少佐、あい変わらず見事な手際です。ポツダム市からの抵抗はほとんど受けずに、市政庁と守備軍及び警察の要所を制圧できたのは吉報でした。それで他の都市は?」

「恐れ入ります。エッセン、ライプティヒの両市は共に固く城門を閉じ鳴りを潜めております。恐らく中央政庁ポツダムに追随すると思われます」制圧陸軍と称される軌道要塞内部の人類世界を制圧するための部隊の軍団長高坂忠良少佐は、モニターの向こうで軽く頭を垂れた。彼はグレーの都市型迷彩を施した、耐熱性の高いアサルト・スーツの上から、ケブラー製のボディアーマーを装着している。

 作戦行動時に使用するヘルメットは脇に携えているので、東洋系の特徴が如実に現われる目元が少し切れ上がった、落ち着いた風情の顔立ちが顕わになっていた。

「二つの市の包囲を解け。亀のように首を引っ込めているうちは問題は無かろう。兵力の分散を避け、主力はポツダムに置きポツダム制圧に全精力を注ぐよう……。では、第二段階に入ろう。この騒乱の首謀者を捜せ。ミハエル・デュシャンとその逃亡を企てた自由フランスの女狐ハンナ・マティアスの身柄は拘束できたか?」

「我が空挺師団が本日、〇五:〇〇より市内を探索しておりますが未だに発見できておりません。……マティアスですか?久しく行方をくらましていたようですが、この地にあったとは」

「そうだ!あのマティアスだ。我の元参謀はな自由フランスのいぬだ。高坂忠良少佐、厳命である。二人は生きたまま拘束せよ!デュシャンには悪いが今度は我々の裁きで正式に刑場の露と消えてもらう。……マティアスは我が手元に置く」脚を組んでモニターに越しにほくそ笑むゲルダに高坂は

「カナンがきますぞ」と、苦言を呈するも

「なんの!我は欲すれば男でも女でも御する。二人とも交互に閨にて可愛がるまでよ」悪びれる様子もなく声を上げて笑うゲルダ。

「ヴァルデス司令、我らの本営には庁舎に詰めておりました知事領主エッセンバッハ氏、それにポツダム市執政官リヒャルト・グラスマン両名の身柄を確保しておりますが、如何なさいますや?」こと色事には難色を示した高坂は別の下知を彼女に求めた。

 ゲルダは黙したまま高坂の歳のわりには年若に感ぜられる相貌を見つめていたが、やがてこう処断した。

「エッセンバッハ氏は現ドイツ皇帝マクシミリアン七世とは縁続き。やはりこの騒乱を招いた責を負うは執政官であろう。速やかにグラスマンの首を討て」その後に続けて

「知事領主様には公邸へお戻り遊ばすように。丁重にな。その際、執政官殿は身を以って職責を全うされ、事後の全てを我らに託されたと申し含めよ」こう付け加えた。

 高坂は無言でモニター画面の中から深々とお辞儀をして見せた。そこに艦橋内の通信担当オペレーターが彼女の下へと歩み寄り、外部となる宇宙空間よりの通信が入ってきている旨を報告してきた。送信元は『ナッサウ』に拠る第五〇二本隊、カナン東雲からだとも告げた。

「噂をすれば影だよ」現段階における作戦の進行状況にゲルダが満足気にしていたのもこれまで、その後のオペレーターからの連絡に彼女は眉をひそめた。

 何やら五〇二と本国第三、第四艦隊との間で変事が持ち上がり、司令代行のメンツェル少佐と東雲中尉では立ち行かぬ状況になったと言うのである。ただ、それも現在『プロイセン』を取り囲む全宙域には、重巡がコントロールする強襲偵察型ドローン『ヴェスペⅡ型』による電波封鎖のため、互いの連絡に齟齬そごを来たしていたのである。

「高坂少佐、聞いての通りだ。『ヒンデンブルグ』は一度、宇宙へと出るしかないようだ。後を任せる。躊躇するな。果断なき処置を望む」高坂はまた一礼してから通信を終えた。

 ゲルダの背後で気密扉が開く音がした。彼女は蜂の巣形状の監視窓列から差し込む陽光に目を細めながら今後の処置に思案をめぐらせていたので、すぐ傍らに黒人系のラウダルッツ准尉が控えているのに気付くのが遅れた。

 ゲルダが准尉と視線を合わすのと同時に、准尉は自分が携えてきた品を恭しく両手で司令官に差し出した。

 それは一振りの差し料。艦内戦闘向けに誂えられた逸品であり、光沢のある群青の鞘には三つ巴紋とその下に金色の三日月にツバメの紋章が描かれていた。これを見たゲルダは即座にその意を汲み取った。

「あの女武者が我に目通りを願い出ておるのだな?」准尉は目線だけで”イエス”と告げる。

「許す」ゲルダはそう言うなり席を立ち艦橋床面へと段を降りた。

「入りなさい」ラウダルッツ准尉の言葉を受けて気密扉が開いた。そこには九二式特殊装甲服を一分の隙もなく装備したキサラギ・スズヤが立っていた。ヘルメットを手に抱えてツインテールに結わえた黒髪が背まで垂れている。キサラギはその場で一礼してから静かにゲルダの三歩分前まで歩を進めてそこで立ち止まった。


「申せ」ゲルダの矢の如き鋭い言にもキサラギはいささかも臆せずまなじりを上げ堂々とこう答えた。

暇乞いとまごいのご挨拶に伺いました。ヴァルデス閣下」

「往くか……キサラギ・スズヤよ」

「閣下の過分なるお申し出、身に余る光栄なれど、私は里親の下に参りとうございます」

 ゲルダはしばし動甲冑姿のキサラギを愛おしそうに見つめた。展望窓から差し込む朝日を浴びた彼女のアーマーは紺碧の中にうっすら深紫を帯びて輝く。そしてやや口の端を上げ犬歯を覗かせながらこう言った。

「キサラギよ、我がお前を捕縛させんとすれば如何にする?」キサラギはこれにも大きく胸を張ってから身体中の若々しくみなぎる力を振り絞るようにして

「押しとおぉぉーるぅ!」と、一声艦橋中に響き渡る大音声で吼えた。

 艦橋内のオペレーター、士官らが一斉に立ち上がり携行している銃に手を伸ばすも、咄嗟にラウダルッツ准尉が無言で五本の指を目一杯広げたまま両手をかざし、黒い大きな瞳で睨みを効かせ牽制した。

 ゲルダはその声量を受けた刹那にあろうはずも無い一陣の風が少女から巻き起こるを感じ取った。ゲルダは両手を組み目蓋を閉じていたが、やがて肩を揺らしてキサラギに負けんばかりの声量で高らかに笑った。天井を仰ぎ大口を開けて牙に似た犬歯を閃かせている姿は砂塵舞う茫漠たる大地にあって、晴天に輝く太陽に向けて咆哮を上げる孤高の獅子王その物であった。

 艦橋の空気は彼女の呵呵大笑かかたいしょうに震えた。これを見たクルーらはここで緊張から解放されて各々の席に戻った。

「キサラギよ……君はこの艦のセキュリティを無効化できる偽造カードを持ち得ていたな。それを使おうとは思わなかったのか?」笑いを収めたゲルダはまたも虎のような眼光をキサラギに向けた。

「ハイッ、私もいささか曲者くせものでして当初はそれを使ってこ奴と共に逃げ出そうと思いましたが、閣下ほどのお人なれば、私の企みなぞお見通しであると考えました。それに……」

 キサラギが直立不動の姿勢でいる陰から、クロネコが現われ出でて彼女の横にキレイに前脚をそろえて座った。ゲルダはそれを一瞥するも、あえて咎めようとはせずに

「……それに?」と訊いた。

「危うい所を救って頂いたうえに過分な処遇で迎えてくださった大恩あるお方に対して、礼を尽くさず逐電ちくでんしたとあれば、わが里親から『なんじは未だ小租泥こそどろのままか!』ときつくお叱りを受けましょう。それ故にございます」キサラギはまたここで一礼をする。ルーヴェンスも彼女に倣い小さな黒毛の頭を垂れた。

「良かろう、離艦を許可する。そこなクロネコよ、本来なら貴様の如き卑しきドロイドなぞ首を討ってくれる所であるが此度は見逃す。如何にして潜り込み、何を見聞きしたかは咎めぬ。お前の主人に免じよう」

 ルーヴェンスはさらに深く辞儀を正した。

「さて、キサラギ・スズヤよ。貴殿には既に”もののふの魂”がしっかり宿っているようだな。感じ入った。とは言え、如何にしてここを出る?シャトルは出してやれんが……」

 キサラギはここで初めて笑みを浮かべ

「空挺部隊用の降下装備一式を下渡しくださいませ。私は”はぐれツバメ”。ツバメは何度渡りを繰り返しても自分の巣を覚えていると申します。私も羽を広げて空を渡り里親の下に帰りまする」と、言ってから自分の肩部アーマーに記された金色の”三日月にツバメ”の紋章を指し示した。

 ゲルダもキサラギに笑みを返した。

「ラウダルッツ!この者を格納庫に連れて行け。装備一式を渡した後はお前が飛び方を教えてやれ」上官の命を受けた准尉は無言で一礼をすると、言葉少なく「ついて来なさい」とキサラギを先導し始めた時だった。

「待て」キサラギの歩みが止まるも振り返ろうとはしなかった。

「キサラギよ、一つ詫びておこう。我は先刻、貴殿の里親を”うつけ”呼ばわりしたが改めよう。君を立派に養育なさっているようだ」

 これにキサラギはさっと振り返るや

「ゲルダ様は先刻『泣くのは女ばかり。それが許せぬ』と申されました。我が親も『オレが目指すは女子供が泣かなくて良い世界だ』と常々聞かされております」と。

「……御芳名をお聞かせ願いたい」キサラギは屈託の無い笑顔をゲルダに向け

「ルナン・クレール様と申します」と、言った。

「受け賜った。他意はない……往け」ゲルダは”ルナン・クレール”なる人物の名を何処かで聞いたような気がしたが、すぐに記憶の奥底へとしまい込んでしまった。

 二人が気密扉を閉める寸前にクロネコが何度かお辞儀のように頭を下げてから姿を消した。

「申し渡す!かの者を追うな。撃つな。各部署に伝えよ!あれの出撃後に『ヒンデンブルグ』は一八〇度回頭せよ」ゲルダは艦長席に身を収めながら艦橋内のクルーに指示を与えた。今まで息を殺していたクルー達は一斉に慌しく手元の機器を操作し始めた。

 その後暫くしてラウダルッツ准尉が艦橋に戻り、キサラギが艦を離れた事をゲルダに伝えると艦橋の展望窓を見据えながら

「ラウダルッツ……我はあの娘にフラれたよ」と言うや、准尉は口に手を当ててころころと笑ったのだった。


 艦橋を辞する際、ゲルダは准尉に『ヒンデンブルグ』が宇宙空間へ進発、電波受信可能帯への移動を完了した時点で呼ぶよう指示してから士官用執務室に戻った。

 人気の失せた居室に戻ったゲルダは、そこである物に気付いた。ここを退出する前に己が過去を語ったソファには、自分がキサラギに与えたはずのブラウスがきれいに折りたたまれ、その上には一通の書置きが添えてあった。

 そこには”ご好意には感謝いたしますが、やはりゲルダ様にとっては大事なお形見。頂くわけには参りません。お返しいたします。キサラギ・スズヤ”とあった。

「小賢しい。小娘が気を遣いおって……貰うてくれれば良かったものを……」ゲルダはブラウスを折りたたまれたまま形を崩さぬよう両手に取り、鼻を近づけてキサラギの、あるいは今は亡き姉に良く似た匂いを嗅いだ。

 その刹那に、ふとゲルダはそのまま小走りに執務室の舷窓までたどり着くと顔をブラウスで覆い、片手で舷窓の縁に拳を置くとそのまま背中を小刻みに震わせ始めた。

 立つことも侭ならず、膝を折りその場でしゃがみ込む孤高の師子王の姿を垣間見る者とて無く、その心情を伺い知ることなぞ何人たりと許されようか。

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