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わたくしは空を見上げています。雲一つない、まっさらな青空です。どこまでも透き通るような綺麗な色の青さ。このまま眺めていると、体がふわっと浮き上がり、空の青にそのまま溶け込んでいってしまうのではないかと思ったほどです。
ここでわたくしはふと我に返ります。今、わたくしが置かれている状況についてです。奇妙な点が二つあります。まず一つは、『何故にわたくしは屋外で仰向けに倒れ込んでいるのかしら』。そしてもう一つは、『何故にわたくしは鼻血を一筋垂れ流しているのかしら』ということです。
わたくしもウブなネンネの転生者ではありません。それなりに実戦(?)経験をこなしております。そんなわたくしの今までの経験に照らし合わせてみても、『鼻血を垂らして、仰向けに倒れ込む』という変わった経験はこれまでにしたことがありません。
しばらく(時間にして数秒ほどでしたが)呆然とした後、倒れ込んだまま自分の二つの眼をキョロキョロと動かしてみます。どうやら豪華な宮廷の屋内ではないようです。そこかしこに砂埃の舞う屋外の施設です。周りにいるのは転んだわたくしを心配そうに見つめたり、優しく手を差し伸べて下さる貴族などいわゆる上流階級の方々ではなく、無様に倒れ込んだわたくしを嘲笑したり、暴言のようなものを吐きかけてくる方々のようです。
なんとなくですが段々と分かってきました。実際は分かっていないのですが分かってきました。わたくしは半身を起こして、前方に目をやります。そこに立っていたのは、綺麗にまとめた髪を髪飾りで飾り、華奢な体を華美なドレスに包んだご婦人ではなく、茶色いカーリーヘアを無造作にボサボサにした、屈強な肉体をタンクトップとスパッツに包んだ大女さんです。その大女さんはわたくしを見下しながら不遜な笑みを浮かべ、右手で拳を作り、左の掌をバンバンと叩いています。
あ~はいはい、本当に分かってきました。分かりたくはないけど分かってきました。わたくしは豪華なダンスパーティーで他の参加者の方とぶつかって転倒したわけではない、この大女さんに派手に殴り飛ばされたのでしょう。状況はまだ漠然とではあるが理解しました。しかし何故に?わたくしは先日の面談でのアヤコさんとの会話を思い出してみます。長く綺麗な黒髪に眼鏡がよくお似合いの美人でスタイルの良い転生者派遣センター職員のアヤコ=ダテニさんとのやりとりです。
♢
「ティエラ様ですね……ご希望の異世界はありますか?」
その問いにわたくしはたっぷりと間を空けてから答えます。
「……わたくし、『悪役令嬢』を志望します!」
「……え?」
「え?」
聞き返されるとは思っていなかったわたくしは分かりやすく狼狽えました。
「あ、悪役ですか……?」
「は、はい。ご存知ありませんの? 悪役令嬢として転生し、自身に降りかかる様々な破滅の運命を回避し、なんやかんやあって、その転生者としては最良の結果にたどりつく……と、まあ至極簡単に説明すればこんなところですわ」
「いや、失礼、確かに最近多いですね、そういう方。ただ……」
「ただ?」
「ご自分から志望される方は極めて珍しいですね」
「そうなのですか?」
「ええ、ご令嬢では駄目なのですか?」
「ああ、それはもう飽きました」
「あ、飽きた?」
わたくしの言葉にアヤコさんが驚きます。
「ええ、平凡なモブ令嬢から始まり、人の良い友人ポジションの令嬢、儚げな雰囲気を身に纏う深窓の令嬢など、令嬢という令嬢は片っ端からこなしてきました」
「そ、そうですか……」
「ですからここら辺で、令嬢界の花形、強く気高い悪役令嬢として転生したいのです!」
「令嬢界というのが初耳ですが……」
尚も戸惑い気味のアヤコさんにわたくしは問いかけます。
「それで? そういうのはございませんか?」
「し、少々、お待ち下さい」
アヤコさんはご自身に前にある機械端末を操作されます。しばらくして、彼女が情報を提示してきました。
「……例えば、こういう異世界は如何でしょう?」
「ほう、なかなか興味深いですわね……」
わたくしは情報にざっと目を通してから、こう告げます。
「この異世界にしますわ」
「ええ⁉ よ、よろしいのですか?」
「? なにか問題でも?」
「い、いえ、随分とあっさり決められるのですね……」
「即断即決! 生き馬の目を抜く令嬢界では熟考を重ねている暇などありませんわ!」
「どこの界隈なのですか……」
「とにかく、それで進めて下さいますか?」
「……かしこまりました」
アヤコさんは端末を手際良く操作します。
♢
そのようなやりとりをかわしたことを思い出しながら、あらためてじっくりと周りを見渡してみます。どうやら今わたくしはまるい形をした建物にいるようです。天井はありません。それ故、青空がはっきりと見えるのでしょう。建物の中央に設置された石で出来た舞台の上にわたくしは立っています。その舞台を取り囲むように、大勢の方々が座席に座っていらっしゃいます。
「う~ん……」
わたくしは首を傾げます。令嬢界では熟考を重ねている暇などはありませんが、思慮深く行動する必要があります。わたくしは今一度、まわりを見回しながら、周囲から聞こえる声に耳を傾けます。その中で一際、大きな声が聞こえてきます。そちらに目をやると、男性が棒のようなものを片手に叫んでいらっしゃいます。どういう仕組みか、声を大きく響かせる為の道具を用いられているようです。わたくしはその叫び声に集中します。
「――おおっと! 悪名高きガー二家の令嬢! ティエラ! このコロシアムにぎっしりと詰め掛けた観客の期待をまたも裏切るというのか! 珍しくダウンしたかと思えば、すぐに立ち上がり、余裕たっぷりに観客席を見渡しています! なんとまあ憎らしいパフォーマンスでしょうか!」
「えっ⁉」
わたくしは戸惑います。コロシアム? ダウン? パフォーマンス? 今一つ耳慣れない言葉が耳に入ってきました。これは一体全体どういう状況なのでしょうか。わたくしは一呼吸置いて今度は周囲の方々の声に耳を傾けてみます。
「ちっ! 立ちやがった! あいつの負けに賭けているのによ!」
「しぶとい女だぜ! 貴族の地位にしがみつこうとした奴の親父によく似ている!」
「だから腹立つんだ! さっさと無様に這いつくばりやがれ!」
「いや、這いつくばるだけじゃ足りねえ! リングの上は治外法権! 不慮の事故だって起こり得る!」
「へへっ! そうだ! いっそのこと殺しちまえ!」
「おおっ! 殺せ!」
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
「おおっと! 観客席から過激なコールが飛び出しているぞ!」
「⁉」
その表情から大体の察しは付いていましたが、どうやらわたくしにははっきりとした敵意が向けられています。どういうわけかこのコロシアムに詰め掛けた大勢の方々から相当な恨みを買っているようです。これはいわゆる一つのブーイングというやつでしょうか。断片的ではありますが、情報を整理してみると、皆が皆わたくしの負けを望んでいる……悪名高きガー二家の令嬢……なるほど、なるほど……って、ちょっと待って下さいます⁉
「悪役令嬢ってそういうことですの⁉」
わたくしは愕然としてしまいます。
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