「うっ……」
わたくしが目を覚ますと、そこはそれなりに広い部屋にあるベッドの上でした。
「おおっ、良かった、お目覚めですか! お嬢様!」
ベッドの脇に目をやると、そこには初老の白髪頭の男性が立っていました。
「あ、貴方は……?」
わたくしの問いにその初老の男性は分かりやすくうろたえました。
「な、なんと! このじいやの事をお忘れになってしまったのですか⁉」
「えっと……」
「執事長、お嬢様は目覚めたばかりなのですから、もう少しお静かに……」
反対方向に目をやると、メイド服を着た女性が立っていました。
「そ、そうは言ってもだな! 長年お仕えした私のことを忘れてしまうなど……やはりもう一度専門医に診てもらうべきか……」
「あ~その、恐らく、一時的な記憶の混乱だと思いますわ。しばらくすれば思い出すはずです、きっと」
わたくしは頭を軽く抑えながら、そのように取り繕う。勿論、これは口から出た出まかせです。転生者のわたくしはこの初老の男性も冷静なメイドの女性のことも存じ上げないのですから。ただ、お医者さまに診てもらったところで、なにも意味はないだろうと判断し、そのようなことを口にしました。
「さ、左様でございますか?」
「ええ」
「……しかし、お嬢様、このじいや一生のお願いです、もうあのような危険で野蛮な格闘大会に出るなどお止めになってください」
格闘大会? ああ、あのコロシアムでの行われていたもののことでしょうか。どうやら、この執事長の反対を振り切って、この世界のわたくしはあの場に出ていったようです。かなり、いや、相当なお転婆です。
「……」
わたくしは沈黙を選びました。これまで幾度となく令嬢としての転生経験はあるのですが、そのほとんどが幼少時代からのスタートでした。そこでそれぞれの世界の貴族令嬢としての正しい所作や教養を身に付け、華々しい社交界へデビュー……というのが常でした。まさか、大の字になって鼻血を垂らしてのスタートなど経験したことがありません。情報を引き出す為にも、ここはしばらく黙っておくことにしました。
「……ですが執事長、お嬢様が格闘大会に出場することで、このガーニ家は完全なる没落を避けることが出来ました」
「メアリよ、その引き換えとしてまるで見世物のような扱いを受けているのだぞ。お前は心が痛まないというのか?」
執事長がメイドさんを嗜めます。このメイドさんはメアリと言うようです。
「……とはいえ、お嬢様が連戦連勝を重ねることによって、多額のファイトマネーを得られました。昨日の勝利で百連勝目、特別ボーナスも出て、当面は生活の心配もしなくてもよくなりました。現在、当家の家計は、お嬢様の双肩にかかっているのです」
「そ、そうは言ってもだな……」
「ならば、執事長が代わりに出場なされますか?」
「い、いや、無茶を言うな!」
「冗談です。私たちに出来ることはただお嬢様をお支えすることです……」
「ぬう……」
重苦しい雰囲気が部屋を包んだため、わたくしは大きな声でこう言いました。
「一眠りして大分調子が戻ってきましたわ。ちょっと屋敷内を散歩でも致しましょうか」
「かしこまりました」
メアリがわたくしに向かって恭しく礼をする。
「……執事長」
「な、なんだ?」
「お嬢様の御召し替えです。外に出て頂きますか?」
「あ、ああ、これは失礼」
執事長が慌てて部屋を出ていきました。わたくしはベッドからゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にあるそれなりに大きいクローゼットに向かいました。先回りしたメアリがクローゼットを開きます。
「こ、これは……」
わたくしは驚きました。クローゼットの中には華美なドレスがぎっしり……というわけではなく、数着の見慣れない服が下がっているだけでした。戸惑っているわたくしの様子を見て、メアリが口を開きます。
「ご主人様……お父上さまが失脚なされ、当家は財政的にも困窮したため、お嬢様の御判断でドレス類は数着を残し、ほとんど売り払いました」
「わたくしの判断で……」
「ええ、そうです」
「こ、この変わった服は?」
「他国で流行っている『ジャージ』というものです。近くの市場で安価で販売しておりましたので、何点か購入なされました。私は着たことがありませんが、動きやすいということで、最近はもっぱらそちらをお召しになられています」
「ああ、そう、そういえばそうでしたわね」
わたくしは尚も戸惑いながら、そのジャージの中から一着を選び、着替えました。わたくしは部屋を出ると、執事長が寄ってきました。
「ほ、本当に大丈夫なのですか?」
「ええ、それよりじいや、聞きたいことがあるのですが」
「な、なんでございましょうか?」
「この世界には魔法というものが存在しますか?」
じいやはややきょとんとした後、わたくしの問いに答えます。
「ええ、それは……そ、そういえば昨日の試合で……」
「そうです、ちょっと調べたいことがあるのですが……」
「か、かしこまりました、では、こちらへ……」
じいやの案内でわたくしは書斎に着きました。広い部屋に大きな本棚がいくつも並んでいますが、その中身はほとんど空です。
「蔵書の類はほとんど売り払ってしまいました……」
「そう、魔法に関する書物はありますか?」
「……こちらかと思います」
じいやが一冊の厚い本を棚から取り出してわたくしに手渡します。
「これは……なんと書いてあるのですか?」
まず題名が読めません。じいやも首を捻ります。
「古代文字で記してあるので、私にもさっぱり……」
「古代文字? 何故そんなものがここに?」
「亡き奥方様、お母上様が読んでおられました」
「母上が?」
「ええ、お母上様は魔法の心得がございましたので……」
「ふむ……」
わたくしは本をパラパラとめくってみます。当然の如く読めませんが、中から一枚の紙がパサッと床に落ちます。じいやがそれを拾います。
「これは……お嬢様の字ですね」
「わたくしの?」
紙を受け取って、見てみます。その紙に書いてある字の半分は読んで理解することが出来ました。メアリが呟きます。
「近頃はそちらの本とにらめっこされていることが多かったです」
「ほう……?」
わたくしはなんとなくですが理解しました。この紙は恐らく、古代文字を翻訳するために作成した文字の対照表なのでしょう。わたくしはどうやらこの古代文字で記された書物の解読を試みていたようです。わたくしはあるページに折り目がついてあることに気付いて、そのページを開きます。
「こ、これは……」
わたくしは驚きました。昨日の試合でわたくしが放ったあの謎の衝撃波を図解入りで示してあったのです。わたくしはそのページに紙を挟み、本を閉じて、近くにあった机の上に置きました。
「じいや」
「は、はい……」
「お庭に出たいのですが……」
「こ、こちらです……」
じいやの案内で外に出ます。思ったよりも広い庭が広がっていました。
「没落寸前のわりには、広い土地ですわね」
「……これでも元の六分の一ほどです。屋敷とその周辺は売り払わなくて済みましたが」
「そうなのですか……」
「仕えていたものにも大勢暇を出しました。十分の一しか残っておりません」
じいやは悲し気に呟きます。
「そう……大体理解してきましたわ」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
「お嬢様、本当に大丈夫でございますか? やはりもう少しお休みになった方が……」
「大丈夫です。少し一人にさせて下さる?」
「そ、それは……」
「心配はいりません。すぐに戻りますから」
「そ、そうですか……」
じいやとメアリが屋敷の中に戻りました。わたくしは顎に手を当てて考えます。
(どうやらこの世界のわたくしには亡き母親譲りの魔法の素養があるようですわね……正直言って、訳も分からない状態ですが、その魔法を本格的に習得しておいて損はないでしょう)
そのようなことを考えながら、わたくしは昨日の試合と先程見た本の図解を思い出して、その動きを再現してみることにしました。幸いにして動きやすい服装です。わたくしは簡単な準備運動をした後、早速やってみることにしました。
(えっと、確か……下……右斜め下……右……そしてパンチ!)
「はっ!」
右手を突き出してみましたが、何も出ません。代わりに顔から火が出ました。いい歳をした娘が珍妙な服装で屋敷の庭先で何をしているのでしょうか。それでも、もう一度やってみることにしました。しかし、結果は同じでした。わたくしは首を傾げます。
「う~ん、何が足りないのかしら?」
「ふむ……腰の入りが甘いの」
「きゃっ⁉」
「ぐえっ⁉」
不意にお尻の辺りを触られたわたくしは驚いて、振り返り様に強烈なひじ打ちをかましました。その一撃を喰らった禿頭の御老人が仰向けに倒れ込みます。
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