世の中には、『天才』が存在する。
大抵の人間は人生のある程度の段階まで、『もしかしたら自分は天才なのかもしれない』という根拠のない自信を抱いているものだと思うし、僕だってそうだった。だけど、僕の中にあった根拠のない自信が打ち砕かれたのは、10代という人生でも序盤の頃だった。
そんなことを思いながら、僕は音楽室の黒板の前でギターを演奏する一人の男を見る。
「よし、今のパートをもう一度全体でやってみよう」
僕が見ている男は、エレキギターを持って、バンド仲間たちに指示を出す。彼らは軽音部員で結成されたバンドで、僕が通っている高校内で絶大な人気を誇っていた。その証拠に、ただの練習であるにも関わらず、音楽室には彼らの演奏を聴きに来た女子で溢れている。
「ね、東くんすごいでしょ? イケメンだし、ギターもめっちゃ上手いんだよ」
「話には聞いてたけど、こんなにギター上手い人初めて見た! 駅前でギター弾いてる人たちより、断然上手いんじゃないの!?」
女子たちが小声で興奮した様子で話しているのを見て、僕みたいな平凡な高校生との違いを悟ってしまう。女子たちの目当てはバンドそのものというよりも、ギター担当の山田東だった。東は演奏の時もセンターに陣取り、まさにバンドの主役と言ってもいい存在だ。
「よーし、じゃあ今度は一曲通しでやってみようか!」
東がバンドメンバーに呼びかけて、曲の頭から演奏を始める。女子たちは邪魔にならないように静かに聞いていたけど、東のソロパートだけは違った。
「東くん、かっこいいよー!」
女子の一人が我慢できなかったのか、興奮した顔で東に声援をかける。それを受けて東は、爽やかな笑顔を向けた。
「やった! 東くん、ありがとうー!」
喜びのあまり、甲高い声を上げた女子は周りの女子から諫められて口を閉じた。そして、バンドが演奏を終えたと同時に、東は女子たちに声をかける。
「みんな、練習見てくれてありがとうー。今度の学園祭での演奏も、楽しみにしててねー」
優しい口調で語りかける東の姿に、女子たちはもうメロメロだった。そんな光景を見てしまうと、東があまりにも遠い存在に思えてしまう。 だけど、僕は東の中学時代の友達として……彼の傍にいなければならない理由があった。
十数分後、バンドの練習が終わって女子たちが音楽室から出て行くと、僕は東に声をかけようとした。
「東、おつか……」
「おい、東。なんでお前、さっきの演奏、勝手にアレンジしたんだよ」
しかし東はなぜか、バンドメンバーに詰め寄られていた。
「ああ、あれ? あっちの方がなんか、イメージに合うと思うんだよね」
「イメージに合うかどうか知らないけどよ、アレンジするなら勝手にやるなよ。事前に俺たちに話を通さないと、混乱するだろ」
話を聞いている限り、東がどこかのパートで他のメンバーに黙ってアレンジを加えて、そのことに苦言を呈されているようだった。
まずいな、このままだとまた、東の悪いクセが出てくるかもしれない。
「え? だって、事前に君たちに言ったところで、別に何も変わらないでしょ?」
ああ、やっぱりだ。
東の言葉に目を丸くしているバンドメンバーだけど、当の東はそんなことを気にしちゃいない。
「だってそうでしょ? 事前にアレンジすることを言ったって、君たちがそれに対応できるわけないじゃん。だって俺の方がちゃんと練習して腕前を上げてて、君たちは俺の言ったように練習しない。だったら俺が独自にやったほうが、曲全体が盛り上がるでしょ?」
「練習してないことはねえよ! 俺たちだって……!」
「え? だってさ、木村はこの前、デートの約束があるって言って練習に来なかったし、正木は練習サボってバイト入れてたんでしょ? そんなんじゃ全然上達しないよ」
「……」
東の言葉に、ドラムの木村くんとサイドギターの正木くんが黙ってしまう。
「だめだよ。もっと一心不乱に練習しないと。だってみんなまだまだ下手なんだからさ。あ、そうだ。今度の休日使って、音楽室で一日中練習を……」
「東、そろそろいいかな?」
見かねた僕は、東の肩を叩いて僕の存在を気づかせた。
「ああ、ごめん甲介。もしかして待ってた?」
「うん、ずっと待ってた。終わったのなら、もう帰ろうよ」
「そうだね。もうちょっとで片付け終わるから、座って待っててよ」
そう言った東は、楽器やスピーカーの片付けを再開した。
東たちバンドメンバーが片付けを終えると、最後に東が全体の挨拶で締めくくる。
「うん、じゃあみんな、明日またよろしく。ちゃんと家でもイメトレしておいてね」
挨拶を終えると、東は僕の前に歩いてきた。
「お待たせ、甲介。じゃあ帰ろうか」
「うん」
僕は東と共に音楽室を出て、下駄箱に向かう。東が靴を履き替えているのを見て、僕は声を上げた。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるから、そこで待ってて」
「ん? うん、わかった」
そう言って僕は来た道を戻っていく。廊下の途中にあるトイレには目もくれずに、音楽室に戻っていく。
音楽室の扉を少し開けると、予想通りバンドメンバーたちが愚痴っていた。
「東のヤツ、もうちょっと言い方ってもんがあると思うんだけどな」
「そうだよな。そりゃ確かにアイツのギターはすごいけどよ……」
それを見て、小さくため息をついた僕は、扉をノックする。
ノックの音を聞いたバンドメンバーたちは、会話を中断した。
「すみません……ちょっといいですか?」
小さく声を上げて、音楽室に入っていく。僕の顔を見たバンドメンバーたちは、少し警戒した顔になった。
「あ、えーと、君は……東の友達だっけ?」
「東と同じクラスの岸甲介です。さっきはその……東がすみませんでした」
深々と頭を下げる僕に対して、彼らは戸惑いの声を上げた。
「ちょ、ちょっと。なんで君が謝るんだよ」
「俺たちに怒ってるんじゃないのか?」
まあ確かに、普通に考えれば友達の悪口を言われている現場に出くわせば、怒るのが正解なんだろう。だけど僕としては、彼らの不満は痛いほどにわかった。
「いや、さっきの東は言い過ぎだと思ったから、友達として僕が謝りに来たんです。本当に、すみませんでした」
「待ってくれよ。岸くんだっけ? 俺たちも確かに練習サボってたりしてたからさ、東が怒るのも仕方ないよ」
「こっちこそごめんな。頭を上げてくれよ」
正木くんが優しく声をかけてくるのに応じて、頭を上げる。
「東は悪いヤツじゃないんです。ただ、音楽へのやる気というか、熱意が高すぎて、たまにああいう感じでストレートな物言いをしてしまうんですよ」
「ああ、それは俺たちもわかってるよ。アイツは真剣に音楽をやってるんだなって思う」
「そうなんですよ。アイツがまた変なことを言い出したら、僕から注意しておきます。だから……」
「わかったよ。俺たちだって、あんなことでバンド解散なんてしないよ」
朗らかに笑うバンドメンバーたちを見て、ほっと胸をなで下ろす。
「それだけ伝えたかったんです。じゃあ、僕はこれで」
「ああ、岸くん。ありがとうな。俺たちももう少し真剣にやってみるよ」
「よろしくお願いします」
もう一度頭を下げて、音楽室を後にした。
下駄箱に戻ると、イヤホンを耳にはめた状態で、ギターを弾くジェスチャーを繰り返す東がいた。
「東、戻ったよ」
声をかけても、こちらに気づく様子はない。熱中するといつもこうだ。
「東、あずまぁー!」
大きな声をかけてもダメだ。こうなると、ショック療法が必要になる。
「あずまぁー! 戻ったよ!」
パチンと顔を叩くと、ようやくこちらに気づいて、イヤホンを外した。
「あ、甲介か。ゴメンゴメン。イメトレに夢中になっててさ」
「それはいいけど、熱中しすぎて周りに気づかないのは危ないって言ってるでしょ」
「うーん。でもさ、俺としては練習できる時に少しでもやっておきたいんだよね。音楽とかは、一日練習サボると急激に腕が落ちるって言うだろ?」
「そうだけども。限度があるだろ」
「まあ、いいじゃないか。俺が危なくなったら、甲介が止めてくれるしな」
その言葉に、僕の心が少し曇っていく。
「さてと、じゃあ暗くなってきたし早く帰ろうか」
「うん……」
東が危なくなったら、僕が止める。
確かにそうだ。今日だって、東の無神経な言動で生じたバンド内の不穏な空気を、僕が頭を下げることで解消した。
仕方ないんだ。東はギターの天才だ。天才には普通の人間には見えない景色があるんだと思う。
だけど、だけど……
天才なら何をしてもいいのか。僕はその考えを、東と友達になってから何度も心に抱いていた。
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