あの日から、今日で一週間が経った。
この一週間、東の評判はそれまでの人気が嘘のように悪くなり、誰も彼に声をかけることをしなくなった。僕のクラスだけじゃなくて、他のクラスや一年生、三年生からも悪く言われる有様だった。
まさしく、「手のひらを返した」という表現がぴったりだった。あんなに東のことを持て囃していたのに、今では誰もが東のことを、『ただの無神経で気の遣えない人間』として認識している。
だけどそれは、皆が変わり果てたわけじゃない。おそらくは以前から東に対して、うっすらとそういう認識があったのだ。今までは東の長所、つまり天才だという要素がその認識を覆い隠していた。いや、皆が見ないようにしていたんだ。
だけど今はもう、皆の中で東は天才じゃない。だからこそ、今まで見ないようにしていた、言わないようにしていた不満が一斉にあふれ出た。悲しいけど、それが現実だ。
だけど、もし。
もし東が、最初から僕らと同じ凡人だったら。特に何の取り柄もない、どこにでもいるような男子高校生だったら。こうやって皆から責められる事態になっただろうか。
もしかしたら、皆に責められる前に、誰かが東を注意していたかもしれない。誰か一人でも、『お前、もっと相手のことを考えた方がいいよ』と言っていれば、東はすぐに自分の言動を反省したかもしれない。
だから、今のこの状況は――
「岸さん、こんにちは」
廊下を歩きながら考え込んでいた僕に、牧野さんが声をかけてきた。今日は彼女にも音楽室に来てもらう予定だったのだ。
「ああ、こんにちは」
「どうですか? 山田先輩の様子は」
「……あんな東は、見たことないよ」
この一週間、東は誰とも話さずに学校で過ごしていた。それだけじゃなく、ギターを触ることも、楽譜を見ることも、音楽を聴くこともしなくなった。休み時間は何も考えていないように窓の外を見ていたかと思えば、いきなり机に突っ伏して声を殺して泣いているような様子もあった。
有彦さんの演奏を聴いた後よりも、今の方がよほど辛い気持ちになっているのは間違いなかった。
「そうですか。そこまでいくと、私も『いい気味です』とは言えないですね」
「ここまで東を追い詰めたのは僕たちだ。東が今の苦しみを乗り越えられなかったとしたら、それは僕たちの責任だ」
「……でも、岸さんは山田先輩がそうなると思ってますか?」
その質問に対して、僕は即座に答えた。
「思ってないよ」
僕は東がこんなことで立ち直れないとは思っていない。責任逃れなんかじゃない。それほどまでの強さを、東に見てきたのだ。
今まで圧倒的な才能を見せてきた東が。周りを引っ掻き回してきた東が。この程度で挫けるのであれば。
そもそもそんな程度の男に劣等感を抱いていた、僕たちがチンケな人間なんだ。
だから僕は確信している。今から向かう音楽室に、必ず東はいると。
「さて、行こうか。東に会いに」
「ええ、行きましょう」
僕たちは音楽室の扉の前に立ち、深呼吸をした後、ゆっくりと扉を開けた。
結論から言うと、東は音楽室にいた。
そのことは特に意外じゃない。僕は彼が来てくれると確信していたし、今回の件を経て、東が何かしらの答えを出すだろうと思っていた。
だけど僕にとって意外だったのは、彼の姿勢だ。
東は音楽室に入ってきた僕と牧野さんを見るなり、その場に土下座した。
「あ、東!?」
「甲介! それに牧野さん! 本当に、ごめんなさい!」
いきなりの行動に僕たちは思わず立ち止まって固まってしまったけど、とりあえず扉を閉めて東の姿が廊下から見えないようにした。
それにしても、東が……あの東が誰かに頭を下げるなんて……
「山田先輩。いきなり謝られても困ります。頭を上げてください」
牧野さんは僕より冷静に見えたけど、それでも驚きは隠せていないように見える。声も少しうわずって聞こえた。
「牧野さん、俺……あの時、皆の前で『お笑い芸人に似てる』なんて言って、本当にごめんなさい。俺がバカだった。初対面の女の子にあんなこと言うなんて、あまりに考えなしだった。すみませんでした」
「それが、私に謝った理由ですか? わかりました。その謝罪については受け取ります」
しかし、今の謝罪は牧野さんだけじゃなく、僕にも向けられていた。
「じゃあ、岸さんに謝った理由はなんですか?」
牧野さんに促されて、東は僕を見る。目に少し涙を浮かべながら、東はもう一度頭を下げた」
「俺は、中学の時に甲介が書いた小説をクラスの皆に見せびらかしたんだ。そのことについて、謝りたかった」
「あ……」
僕が東と友達になった直後の出来事。とっくに忘れられていると思ってた。
頭を上げて、正座の姿勢になった東は、涙を流しながら語りだす。
「俺、この一週間、考えてたんだ。なんでいきなり皆が冷たくなったのかって。俺は何も変わってないはずなのに、なんでこうなってしまったんだろうって。でも、考えてみたら当たり前だった。皆に言われた通り、俺が無神経だったからだ」
「どうして、そう思ったの?」
「……正直、俺はずっと前から自覚してたんだ。はっきりと心の中で言葉になってたわけじゃないけど、心のどこかで自覚してた」
東は僕に目を合わせる。
「自分は何言っても大丈夫だって」
その告白は、自分の汚さを曝け出すものだった。
「どこかで、『俺は思ったことをはっきり言ってもいい』っていう考えがあったんだ。周りの皆が遠慮して言わないことを、自分だけは言っても大丈夫だっていう傲りがあったんだ。自分だけは皆を評価するようなことを言っても許されるって……そう、思ってた」
そのうち、東は嗚咽を含んだ声を発し、目から大粒の涙を流し始めていた。
「皆が、何も俺に言わないからって、いい気になってたんだ……うっ、くうぅ……」
「東、無理しないで」
「いや、ダメだ。ここで言わないとダメだ。おれっ……すごく傲慢だった……自分が出来る人間だって思って……周りを見下してた……うっ、だから、有彦さんに怒られたんだ」
「有彦さん?」
「昨日まで、俺は……『お前、全然大したことないよ』って言われたのは、ギターの腕のことだって思ってた……でも違ったんだ。あの人は……周りのことも考えずに、好き放題なことを言っている俺が……山田東という人間そのものが、大したことない人間だって、言ってたんだ……」
身体を震わせて、搾り出すような声で、東は自分の汚さと向き合っていた。
「当たり前だよ! こんな、こんな傲慢な人間が……大したことあるわけないよ……だから、皆も俺に愛想を尽かしたんだ……当然だ……」
「……」
「俺、皆に謝りたい。皆に謝って、一からまたやり直したい。誰もついてこないと思うけど、また、ギターを弾きたいよ……」
それを聞いた僕は、確信した。
もう、東は今回の件を乗り越えた。
だから僕は、東に目線を合わせて、彼の前に座る。
「なあ、東。君に伝えたいことがあるんだ」
「え?」
「有彦さんがね、学園祭の前に、こう言ってたんだよ」
そう、あの時。学園祭の打ち合わせで有彦さんが学校に来て、東の映像を見た時。あの人は言っていた。
※※※
「この東ってヤツ、悪い子じゃないな」
有彦さんは、確かにあの時、そう言った。まだ東に出会ってもいないのに、そう言ったんだ。
「どうして、そう思ったんですか?」
当然の質問だ。有彦さんがただ単に当てずっぽうで言った可能性もある。そう思った理由を聞きたかった。
「こいつの演奏は基礎がしっかりしてる。たぶん、繰り返し練習しているんだろう。それも、周りが見えなくなるほどに熱中して。俺にはそう聞こえる」
……一度聞いただけで、そんなことがわかるなんて。
「地道に練習を重ねているヤツを、俺は悪いヤツとは思わない。話を聞いた時点じゃ、才能に傲って天狗になってるヤツじゃないかと思ってたけど、違うみたいだな」
「じゃあ、有彦さん。山田先輩には問題がないって言うんですか?」
「いや? 問題だらけだよ。他のメンバーと歩調を合わせる気は感じられないし、『自分が、自分が』って気持ちで弾いてるからな。でもさ、それは彼からしても同じだよ」
「え?」
「たぶん、彼は周りの人が自分に付いてきてくれないから、自然と自分一人でなんとかしなきゃって気持ちになってるんだと思うよ」
確かに僕たちは、東に振り回されてきたかもしれない。
だけど僕たちは、東のことを理解しようとしたのだろうか。勝手に東を天才だと持て囃して、遠いところに置いていたんじゃないのか。
だから東は、僕たちの気持ちがわからなかったんじゃないだろうか。
「あ、でもさ。俺がそう言ってたってことは、東くんには内緒にいておいてくれよ」
有彦さんは、バツが悪そうな顔でそう言った。
「なんでですか?」
「だって、これから俺は彼の鼻っ柱を折る役目になるんだろ? それだったら、彼からしたらイヤな奴のままの方がいいだろ」
ああ、そうか。有彦さんは……
「いつか彼が、俺を叩きのめしに来るのを待っていたいしさ」
東のことを、天才だって、ちゃんと認めてくれてるんだ。
※※※
「有彦さんが、そんなことを……?」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いて、東はポツリと呟いた。
「……なんだよ。完敗じゃないか」
有彦さん、すみません。東にバラしてしまいました。
だけど、それでも東は大丈夫そうです。
「ねえ、東。僕も君の謝罪を受け取るよ」
「甲介……俺を、許してくれるの?」
「大丈夫だよ。君はもう、立ち直ってる」
よかった。やっぱり東はすごい人間だった。だって、ちゃんと自分の汚さと弱さに向き合うことができた。
そんなこと、誰でもできることじゃない。
「だからさ、あとは僕に任せてくれるかな」
「え?」
「君はこれから前に進める。だから今度は、僕たちが進む番だ」
そう、東への試練はもう終わっている。だから今度は……
僕たちが、周りの人間が、ちゃんと東に向き合う番だ。
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