学園祭が終了しても、東の行動に大きな変化はなかった。あの時言ったように、『もっと練習しないといけない』という決意を新たにして、放課後のギターの練習にも熱が入っていた。
だけど、東以外の人間には変化があった。そう、学園祭が終わってから、誰も東の練習を見に来なくなったのだ。
学園祭から五日後。僕が音楽室に入ると、東は一人でギターを弾いていた。
「あれ、今日も東一人なの?」
「ん? まあ、いいんじゃない? 学園祭も終わったわけだし、皆も少しくらい息抜きしたいでしょ。俺はあれだけ実力の差を思い知らされたわけだから、休んでるヒマなんてないと思うけど」
「でも、東だって少しは息抜きしたいんじゃないの?」
「いや全然。というかさ」
ギターを握る東の手は、少しだけ震えていた。
「ここで休んだら、ますます下手になりそうで怖いんだよ」
そう言った東の顔には、焦りのような感情が見えた。
こんな東を見るのは初めてだ。というか、有彦さんと出会ってから、初めてのことづくしだ。東が自分のことを『下手』なんて言うのも聞いたことがない。
確かに東の行動に大きな変化はなかった。だけど東の様子には変化が現れ始めている。それは良いことなんだろう。
だけどまだ、足りない。
その翌日。昼休みに購買に行き、教室に戻った時のことだった。
東はいつもであれば、昼休みには女子に囲まれて色々と質問攻めにあっているが、今日はそうではなかった。
なぜか東の前で、泣き崩れる女子と、彼女を取り囲んでいる女子たちが騒いでいたのだ。
「ちょっと、何があったの?」
僕は小声で様子を見ていた男子に状況を尋ねると、事の顛末を教えてくれた。
泣いている女子はこの前の学園祭で有彦さんの演奏を聴いて感動し、自分もギターを始めてみたいと周りに話していたそうだ。しかしその話に東が割って入り、こう言ったという。
『今から始めたって、あんな上手くなるはずないじゃん』
東の発言を聞いた女子は一瞬何を言われたのか理解できない様子だったけど、当の東は彼女に対してさらに、『というかさ、ギター上手くなりたいんだったら、休み時間に友達と話している時間なんてないよ。必死に練習しないと』と言い、ついに泣き出してしまったという。 そして今、東は彼女の友達である女子たちに敵意を込めた視線を送られている。
「東くん、ちょっとひどくない? いくらなんでも言いすぎじゃないの?」
女子の一人が東に詰め寄っていく。周りで傍観している生徒たちも、東を冷ややかな目で見ていた。それに対し、東は不思議そうな顔で言い放つ。
「いや、俺は事実を言っただけだよ。今から始めるなら、有彦さんには追いつくには死ぬほど練習しないとダメだよ」
「だから! あの子は別に有彦さんに追いつきたいなんて言ってないでしょ! なんでそんなひどいこと言うの!?」
「だって、有彦さんに憧れてギターを始めるんでしょ? それって、有彦さんみたいになりたいってことなんじゃないの? だったらこんな休み時間に友達と話している時間なんてないよ。当然のことだと思うけど……」
火に油を注ぐようなことを言う東だけど、その声は少し不安そうだった。僕にはその理由は推測できる。東にとって、周りから怒りを向けられる事態は今までになかったからだ。
だけど今、現実にクラスの大多数が東に敵対している。僕は正直、こうなるであろうことがある程度予測できていた。
その証拠に、東に詰め寄っている女子はこう切り出した。
「……前から思ってたんだけどさ、東くんてデリカシーないよね」
「え?」
「いや、はっきり言えば無神経だよ。相手の気持ちとか全然考えずに発言するよね」
「な、なに言ってるの? そんなの、言われたことないよ」
「それは、皆が君を天才だって思ってたからだよ!」
やっぱり、こうなったか。僕は有彦さんの演奏を聴いて、東を超える才能を持つ人間の存在が皆に知れ渡った時点で、こうなることを予測していた。
確かに東は有彦さんの実力を知っても折れなかった。それどころか、もっと努力しようと奮起さえした。
だけど周りのみんなはどうだろう。東は僕が見てきたように、無神経で相手を顧みない発言を繰り返していた。今までは皆も東のことを天才だと思っていたから、自分とは違う存在だと感じていたから、それを許容していた。東をすごいと感じていたから、東の言動に理があるのだと思っていた。
しかし、皆の頭には既に東を超える天才である、有彦さんの存在が焼き付いている。皆の共通認識において、既に東は天才ではない。
天才でなくなった東は――ただの無神経な男という要素しか残らない。
「アンタだって大したことないんじゃん! アンタがすごいって思ってたから、そこらへんの人と違うって思ってたから、皆もアンタが言ってることに反論しなかったんだよ! でも、アンタも大したことなかったんじゃん!」
いつの間にか東を糾弾する空気はクラス全般に伝わり、大勢の生徒が彼を取り囲んでいた。
「まず、あの子に謝ってよ! それに、この間の一年生の子にも謝りなよ! 有彦さんも言ってたでしょ!」
女子たちから次々と向けられてくる怒りに戸惑いながら、東は壁際に追い詰められていく。しかし東はそれでも謝ることはしなかった。
「ま、待ってよ。おかしいよ。どうしちゃったんだよ。今まで皆、俺を応援してくれてただろ!? 俺の演奏を聴いてくれてただろ!? それに誰も今まで、俺に注意なんてしなかったじゃないか! なんで今になってそんなこと言うの!?」
「だから! それはアンタが皆に大目に見られてたの! アンタのことを、皆が許してたの! それが無くなったってだけだよ!」
もはやクラス中が東の敵と化しているかのように、怒りが渦巻いていた。昨日今日で生み出された怒りじゃない。今まで皆の中にあった東への不満が、今回の件がきっかけとなり、洪水のように溢れだしたんだ。
「なんだよ……なんなんだよ! 俺は、どうすればいいんだよ……」
その場に崩れ落ちる東に向かって、男子も女子も次々と叫んだ。
「とりあえず謝ってよ!」
「謝れよ、東!」
「お前、この前俺に『君はイラストレーターの卵ですらないよ』とか言ったよな!? それも謝れよ!」
「俺だって、ひどいこと言われたぞ!」
皆の糾弾から必死に逃れようとする東は、僕の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
「こ、甲介! 皆が、皆が俺を追い詰めるんだ! なあ、助けてよ!」
「……」
「俺が危なくなったら、甲介が助けるって言ったじゃないか! だから……」
「東、今回ばかりは僕が助けるわけにはいかないよ」
「え?」
「今回は、君が自分で気づかないとならない。自分がなんで皆から責められているのか。僕がなんで有彦さんを呼んだのか」
「甲介……? なんで、なんでそんなこと言うんだよ?」
震える声で僕に助けを求めている東を見て、心が痛まないわけじゃない。だけど、こうでもしないと東は気づかない。今まで僕が彼の無神経さの尻ぬぐいをしていたこと。そして、今の自分が無神経さを許される立場にないということ。
それらを、自分で気づいて乗り越えないといけない。
「東、もし僕の言っていることの意味がわかったなら、一週間後の昼休みに音楽室に来てくれ。それまで、僕は君とは関わらない」
「ちょっと待ってよ甲介! 俺は、俺は!」
「きっと来てくれるって、信じてる」
僕の中では、東はまだ天才だ。だからきっと、気づいてくれると信じている。
だから今はまだ、彼に救いの手を差し伸べるわけにはいかなかった。
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