『肩の力を抜いてくれ』と言われた通り、体育館内の生徒たちは有彦さんたちのことにあまり興味がなさそうだった。中には携帯電話を眺めている人さえいる。
暗い中でそんなことをすれば、当然ながら壇上の有彦さんからも丸見えのはずだけど、特にそれを咎めるようなことはしなかった。まるで平然とした顔で、黙々と準備を進めている。
「さて、では始めましょうか」
その合図と共に、有彦さんの後ろでドラムを叩く音が鳴る。そして……
ズンッ。
一瞬、何が起こったのかと思った。
体育館が揺れたような感覚と、強制的に音が頭に入り込む感覚。それらが同時に僕の頭を揺さぶった。
目を見開いて、目の前の状況を確認する。そこにあったのは、壇上の有彦さんがギターを弾き、バンドが演奏を行っている光景。ただそれだけだった。
何も特別なことは起こっていない。事前の予定通り、バンドが演奏をしているだけだ。それなのに……
今の僕には、目の前で起こっていることが、まるで天変地異のような予期せぬ出来事のように思えた。
それほどまでに、圧倒的だった。有彦さんの演奏は上手いとか音が心地良いとかそういう次元じゃない。聴く者に問答無用でその存在を突きつけるような、絶対に無視できないような音楽だ。
東の時は、皆が歓声を上げていた。だけど今の演奏に対して歓声を上げる人はいない。いや、そんなことを出来る人がいない。
今、目の前で起こっている音楽を、雑音で乱すことなど許されない。そう思わされてしまっている。
気づけば僕は食い入るように壇上を見つめ、1フレーズも聞き逃すまいと曲に集中していた。おそらく皆もそうなんだろう。いや、そんなことを考える余裕すらなくなっている。
集中して聴いているうちに、一曲目がいつの間にか終わっていた。だけど有彦さんは皆の落ち着きなど待たない。いや、僕も待つつもりなんてない。早く次の曲を聴きたかった。
有彦さんたちが奏でる二曲目は、先ほどの曲とは打って変わって落ち着いた音楽だった。さっきの曲が徹底的に頭に入り込むものだとするなら、今の曲は頭に染みこんでくると言うべきだろうか。
でも、さっきと共通しているのは、誰も一言も声を発せないということだった。僕に至っては、呼吸すら忘れているかもしれない。
そして、あっという間に。僕たちの頭が完全に掌握された。
さっきまで東が奏でていた音楽が、どういうものだったか思い出せない。あれだけ絶賛されていたにも関わらず、今の僕には、東の存在が霞んで思えてしまう。それほどまでに、有彦さんの存在が頭の中を占めていた。
「……さて、どうでしたか?」
有彦さんが皆に感想を求める声を聞いて、僕はようやく演奏が終わったことに気づいた。周りを見渡すと、皆もあっけにとられて声を出せずにいる。唯一、隣にいる牧野さんだけは、拍手を鳴らしていた。
「さすが、有彦さん。やっぱりものが違いますね」
ものが違う。まさにそうだ。
彼女は知っていたんだ。有彦さんのこの音楽を。だから東の演奏を聴いても心を動かされなかった。当然だ。先にこれを知ってしまっては、東に衝撃を受けるはずがない。
牧野さんの拍手に遅れること一分ほど。僕はようやく拍手を鳴らし、周りがそれに続くように盛大な拍手を鳴らす。
「おいおい、なんだよ今の」
「あ、あれで、インディーズなの? 嘘でしょ?」
拍手と共にどよめきが体育館を包んでいく。
正直言って、想定外だった。曲を聴く前の僕の中ではまだ、東の方が上手いのではないかと疑惑があった。仮に有彦さんの実力が上回っているとしても、すぐに追いつけるものだと思っていた。
だけどこれはレベルが違いすぎる。上には上がいるとかそういう問題じゃない。別の世界にいるような感覚だった。
盛大な拍手を受ける有彦さんは、再びマイクを持って観客に応える。
「あ、あー……皆さん、ありがとうございます。えーと、ところで、山田東くん、まだいますか?」
名前を呼ばれた東は、舞台袖から現れる。だけどその顔にはいつもの笑顔はない。震えた足取りで、有彦さんに歩いて行った。
「今日は学園祭に招いてくれてありがとう。だけど、ひとつ言いたいことがあるんだよね」
そう言われた東は、身体を震わせながら有彦さんを見る。その顔はひどく怯えたように目が見開かれ、口が半開きになっていた。
あんな表情の東は初めて見る。いつも無邪気な笑顔を浮かべている東を知っている僕からしたら、あり得ない光景だ。
「東くんさ、ウチの美代子のことをさ、お笑い芸人に似てるって言ったらしいじゃない? しかも大勢の前で。年頃の女の子にそんなこと言ったら、相手がどう思うか想像できないもんかい?」
東は俯いて、唇を噛みしめている。だけど有彦さんは容赦しなかった。
「だから俺もさ、やり返すよ」
そして有彦さんは、東から視線を外し、背を向けて言い放った。
「お前、全然大したことないよ」
その言葉と同時に、東と僕、そして生徒たちに大きな衝撃を残し、学園祭の演奏は終わった。
日が沈み始めた夕方の教室は、既に薄暗かった。
その薄暗い部屋の中心で、東が一人で椅子に座り、ぐったりとうなだれている。
何と声をかけていいのかわからない。それ以前に、僕が声をかけていいのかわからない。そもそも東がこうなることを望んだのは僕だ。罪悪感を抱く資格すらない。
一方で、僕の中には暗い喜びがあった。あの東が挫折している。あの東が心を折られている。今まで周りの心を折ってきた東が、今度は折られる側に回っている。そのことを、ざまあみろと思う気持ちがある。
だけどその喜びは、思っていたより大きくなかった。考えてみれば当然だ。別に僕が東を上回ったわけでもないし、単純に東が落ち込んでいる光景は僕の心に与えたのは悲しみの方が大きかった。
しばらく黙っていた東は、やっと顔を上げた。
「甲介……ごめんね、こんな遅くまで付き合ってもらって」
最初に出た言葉は、僕への謝罪だった。意外と言えば意外だ。自分のことで手一杯のはずなのに。
「驚いたよ……本当に驚いた。世の中にはあんな人がいるんだ……あんなに、圧倒的な人がいるんだ……本当にそう思ったよ」
「東……」
「俺さ、初めて感じたよ。『悔しい』って」
「……!」
東が、悔しがっている。自分が負けたと感じている。
「有彦さんの言う通りだよ。俺は、全然大したことなかった。それがすげえ悔しい。もっと、もっと練習して、いつかあの人に追いつきたい」
その言葉と同時に、東の顔に光が戻っていく。薄暗かった部屋を、東の光が包んでいく。
「あのさ、甲介。俺、もっと頑張るよ。見ててくれ。俺は絶対、あの人のようになるから」
「東……もう、大丈夫なの?」
「大丈夫かって言われたら、そうでもないよ。でも、いつまでも立ち止まっていられない。自分はまだまだだってわかったんだし、これからもっと練習するよ」
「すごいね、東」
「え?」
本当に東はすごい。僕はあんな演奏を聴かされたのなら、もっと落ち込んでいるんだと思っていた。立ち直るのに時間がかかるのだと思っていた。
だけど東はその日のうちに立ち直った。そしてもっと実力を磨く決意をした。そんなこと、誰にでも出来ることじゃない。
ただ……
「だけどさ、東。たぶん君が辛いのは、これからかもしれないよ」
「え? な、何言ってるの?」
「……とりあえず、今日はもう帰るね。それじゃ」
「こ、甲介?」
東はすぐに立ち直った。だけどそれだけじゃ、まだ足りない。
おそらく東が本当の挫折を味わうのは……ここからだ。
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