世界は、幻想に満ちている――
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メアリ・ヴァン・スチュアトリカ第三皇女がクレヤード修道院に預けられていたのは10年も前の話だ。
クレヤード修道院は、帝国の北にある厳粛な修道院だ。主に皇族や貴族の少女たちが預けられる。そこで、教養や信仰心を学び、神に祈りを捧げながら、人生の次の分岐を待つことになるのだ。
位の高い貴族や皇族が女性を修道院に預けるのには理由がある。
第一は、いずれ他国の王子と婚約するときの花嫁修業。
第二は、婚約が決まるまでの間、傷物にされないように。
皇族の女性は帝国にとって、大事な手札だ。政略結婚や人質交換などの外交に使えるし、序列の早い兄姉に万一のことがあったときの予備。それが、どこぞの馬の骨に傷物にされてはたまらない。
そういう理由で、修道院は男子禁制。女性同士で色恋の真似をすることはあっても、それで手札に傷がつくわけではないし、彼女たちも最終的にはわかっているのだ。間違いを犯さなければ、自分たちは大切に扱われるということを。帝国側にとっては、万一の間違いを防ぐ環境さえ作っておけばいい。
いわば修道院は、帝国の作った箱庭だ。
「ねぇメアリ、例の噂知ってる?」
当時8歳のメアリは、ルームメイトのマリアンヌがそう言うのを、寝る前のベッドの中で聞いていた。
修道院は身分がそれなりに近しい2人から3人が一部屋で生活することになる。マリアンヌは皇帝の直径の血筋ではないが、名家アルドラゴの長女だ。皇女であるメアリの方が格上の家柄で、現在の修道院では彼女に近しいのはマリアンヌしかいない。
「また始まった。マリアンヌの、いつもの」
「茶化さないでよ、メアリ」
「また寝坊して、シスターに怒られても知らないからね」
メアリの正論も、おしゃべり好きなこのルームメイトには通用しない。
どうせ止めても無駄なのだから、早く寝るためにもさっさと話を終えてもらった方が良さそうだと、メアリはそう判断した。
「……噂って?」
「隣の部屋のリサとナターシャが、キスをしていたんですって!」マリアンヌは顔を赤らめながらメアリに告げた。
「ふぅん」
「なによ、気のない返事ね。興味ないの?」
「前々から思っていて、やっぱりという感じね」
「つまらないわね。メアリはそういう相手はいないの?」
「マリアンヌがいるじゃない」
メアリがいつもと変わらない表情で言うので、マリアンヌにはそれが冗談か本気かの区別がつかない。この皇女はいつもそうだ。
やぶ蛇になると思ったらしいマリアンヌは「じゃあ、こんな噂はどう?」と話を変えてきた。
「五大竜の一体が、近くに来ているらしいわよ」
――五大竜。
この世界ヴァラムヘイルにとって、竜とは幻想上の生き物ではない。
竜は人間よりはるかに知能が高く、普通の魔物よりはるかに強い。
竜1体を葬るのに1万人もの熟練兵士が必要とされている。
五大竜とは、竜の中でもひときわ強力な個体だ。
世界は五つの大陸があり、それぞれの大陸で最も高い山には、それぞれ竜が棲んでいた。
北のロミア大陸、黄腐竜ラドプム。
南のアミナバラハ大陸、赤焔竜イブシガル。
西のワガツ大陸には、深緑竜アマテ。
東のンドゥカムニ大陸には、紫蛇竜ミズチナ。
そして、中央の大陸ヴァルニアには、銀翼竜ファフニールが。
「銀翼竜が?」とメアリは驚きを口に出した。
メアリのいるヴァルニアの五大竜といえば、銀翼竜ファフニールだ。
銀色の綺麗で美しい竜とされている。
「そうなの。銀翼竜の動き次第では、ここから避難する計画があるんですって。シスターたちが話してるのをこっそり聞いたわ」
竜と人は、ずっと戦いを繰り返している。何百年もずっとだ。
竜による被害『竜害』によって亡くなった人間も数多く存在する。
一説によれば、かつて竜の怒りを買って滅ぼされた国もあるらしい。
「残念。もし竜に言葉がわかるなら、会ってお話してみたかったのに」
「まあ、メアリったら! なんてことを言うのかしら! 竜はとても危険なのよ!」
「冗談よ、マリアンヌ。私だってまだ死にたくはないわ」
メアリがそう言うと、マリアンヌは「そうよね」とほっとした顔を見せる。
(でも、話せるなら、1度は話してみたいわ)
食べられるのはごめんだが、面と向かって話を聞けるのなら、1度ぐらいは会ってみたいとメアリは思うのだ。
少なくとも、修道院よりもずっと広い世界を、竜は知っているのだろうから。
※ ※ ※
その夜、メアリは不思議な夢を見た。
森林の奥にある大きな湖の畔で、体を横たえている。
その湖に、メアリは見覚えがあった。
メル湖だ。何度か、ピクニックで訪れたことがある。
だが、何か違和感がある。
ああ、そうか。
木々や湖が、少し小さいように感じられる。
真下から見上げても天辺が見えなかった大きな木が、頭と同じ高さにある。
湖の向こう岸を見渡すことができる。
これはいったい、どういうことなのだろう。
(ああ、これは私の体ではないのだわ)
尻尾が生え、翼が生え、体は巨躯。
そして、銀色の個体。
メアリは答えにたどり着いた。
(『銀翼竜』……――)
これは彼の見ている風景なのだ。
ふと、その視線が自分のいる、修道院の方角に向けられる。
(呼んでいる……?)
理由はわからないが、メアリはそんな気がしていた。
(銀翼竜が、私を呼んでいるんだわ)
メアリは、ルームメイトのマリアンヌを起こさないようにそっと布団から抜け出すと、寝間着から普段着に着替え、隠してあった靴を履いて、窓から外に出た。
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