■□ ~コーガンの森にて~□■
ギドの街よりはるか東に位置する“開かずの森”へは、並の人間であれば徒歩数週間はかかる距離にある。その間は峰や湿地帯を越えねばならず、劣悪な道ゆえに馬車などでは通れない。魔物も多く、運搬するための獣の貸し出しも断られてしまう。
そのため、街の住人はおろか、旅人であってもわざわざ森に積極的に近寄ろうとする者はいない。ギルドでも冒険者の出入りは禁止している。何代か前のギルド長が決めたしきたりは、今も続いているためだ。森の魔物を刺激し、森の外の人間に被害が出ないようにするためと、一般には伝えられている。
そんな場所の中心にある“開かずの森”へ向かうことを検討するメアリ達だったが、まずもってどのような手段で向かうかが問題だ。
銀翼竜の翼であれば数時間もかからないが、今回はユーリヤもいるためその手段は使えない。
いったいどうするつもりなのだろうかとメアリが様子を窺っていると、ユーリヤ側から提案があった。
「あんた、ディムーンに乗れるか?」
ディムーンという名を初めて聞いたメアリは、首をかしげる。
『人を乗せる飛竜のことだよ。無論、乗れるとも』
五大竜のようにすべての竜種が人と敵対しているわけではない。
中には小柄でおとなしく、人に飼育されている竜も存在する。
彼らは竜としては脆弱だが、並の魔物よりは強く、乗り物としては重宝されている。
空を往来するための飛竜をディムーン、地を往くための地竜をダラサンと、人間社会では一般的に呼んでいる。
――という説明を、メアリは街を出るまでに銀翼竜から受けた。
「そんな方法があるのね。それで、そのディムーとやらに乗るとどのぐらいで森に着けるのかしら?」
「3日だな……というか、お前」ユーリヤは、じろりとメアリを訝しげに凝視する。「本当についてくる気か?」
「もちろんよ」メアリは躊躇なく答える。「きっと役に立ってみせるわ。こう見えても、体力には自信があるもの」
その言葉を聞き、ますますユーリヤの視線が訝しげに細まる。その目は、銀翼竜の方へと向けられた。
「おい。本当にこんな小さな子どもを連れて行く気か?」
その言葉にメアリはむっとしたが、ユーリヤの視線には本物の怒りがあった。これから向かうのは、命を落としかねない危険地域だ。しかも、件の冒険者たちと接触すれば高い確率で戦いになる。
そんな場所に、小さな女の子を連れて行くという目の前の冒険者の神経が理解できないと、ユーリヤの表情はありありと語っている。
『心配は要らない』ユーリヤの視線を真っ向から受け止め、銀翼竜は頷いた。『彼女は、森の精霊クトゥルアムルの加護を受けている』
「……ただのガキじゃなかったってわけだ」驚いたように、ユーリヤはメアリを見た。「だとしても、ガキを前線に立てるのは感心しない」
加護とは、信徒となった者が主から授かる恩恵である。加護の強さは主となる者の霊格に依存する。
銀翼が言う“森の精霊クトゥルアムル”とは、森の狩人が授かる加護の中では高位なもので、授かった者は森の中で方角を見失わず、また森の魔物は友好的に接するようになると言われている。
無論それは、ユーリヤを説得するための銀翼竜のただの方便だ。
メアリが実際に受けている“銀翼の加護”は、森の精霊よりもはるかに格上であり、あらゆる劣悪な環境への適応や魔物との意思疎通、基礎能力の劇的な向上などさまざまな恩恵をもたらす。
そうでなければ、彼女はアルギュロスの高山でとっくに死んでいただろう。
少なくとも彼女を連れて行くことで足手まといになるとは、銀翼竜は考えてはいない。
「だが、嫌なものを見ることになるかもしれないぞ」念を押すように、ユーリヤは今度はメアリに対して言った。
「レギンとまったく同じことを言うのね」
「今回の遠征の目的は、遊びでも観光でもない。面白いものなんて何もないぞ」
「……ある場所で、私はとても助けてもらったのよ」思い出すようにメアリは言う。「あなた、ラマドは食べたことがある?」
「羊の肉にチーズをかぶせて焼いたものだろう? 食べたことはあるが、それがどうした」
「温かかったのよ、すごく。私、温かい料理って初めて食べたの。街もすごくステキだった。みんな笑ってた。集落の長も、私と初対面だったのに、私のことをとても心配してくれて、私のケガを見てくれたのよ」
「いったい、なんの話をしているんだい?」メアリの話が見えず、ユーリヤは困惑する。
「その集落は、その勝手な冒険者たちのせいで困っているの。私は、力になってあげたいと思う。私にできることは少ないかもしれないけど、それでも私は、彼らのために何かしてあげたいのだわ」
「……」
「雑用でも荷物持ちでも構わないのよ」そう言って、メアリはユーリヤに頭を下げた。「どうか私の同行を許して頂戴」
「わかった、わかった」観念したように、ユーリヤは頭を掻いた。「好きにすればいい。ただし、私はお前を助けたりはしない」
「それで構わないわ」メアリは毅然とユーリヤを見据えたまま、そう言った。そこまでの決意を見せられては、ユーリヤとしても引き下がるほかにない。
その後、3人は町はずれにある建物へやってきた。入り口をノックすると、1人の老人が3人を出迎える。ユーリヤの顔を見ると老人は「入れ」と端的な言葉を告げた。
ユーリヤに続く形で、メアリと銀翼竜も建物の中へと入っていく。
『ほう』感心したように銀翼竜は頷いた。建物の中には囲いがあり、その中には1匹の竜がいた。竜種にしては小さい方だが、人間と比べて約2倍ほどの体高がある。
「2週間ほどこいつを貸して欲しい」ユーリヤは銀貨を差し出しながら老人に言った。「どこかからの予約は入っているか?」
「入っていない」老人はまたもしわがれた声で答えると、ユーリヤの手から銀貨を受け取った。「使っていいぞ。ただし、死なせたり逃がしたりした場合は、契約通り違約金をもらう」
「わかっているさ」
「ところでこの子、名前はなんて言うの?」竜は目の光が強く、メアリの顔をまっすぐに映し出している。メアリが手を掲げると、喜んでその手の上に頭を載せてきた。
「ラギだ」そう答えながら、ユーリヤは内心で感嘆の息をついていた。
竜は誇り高い。初見の人間に心を許すのは珍しいからだ。
「そう、よろしくね。ラギ」メアリが挨拶すると、ますますラギはメアリに顔を寄せる。
竜種の中でもラギは小さな飛竜だが、それでも人間3人を乗せて飛ぶには十分な体躯があった。ラギを外に出してから、鐙と手綱、それに櫓を小さな竜に着けて、そこに人が乗れるようにした。鐙や手綱なしに竜に跨がって操縦できる者はいない。これは竜の盗難を防ぐ意味でも必要なことだった。
「早速、出発しよう」
ユーリヤが手綱を握ろうとする。だが、銀翼竜が歩み出て、半ば強引に操縦役を買って出た。
『空の旅は慣れている。任せておいてくれないか』
ユーリヤは何か言おうと頭を掻いたが、結局任せることにしたようだった。代わりに彼女に任されたのはメアリとの同席だ。ユーリヤは露骨にため息をついた。
銀翼竜が手綱を握る。ラギは翼を大きく振るって徐々に上昇していき、そして気流に乗ったところで前方へと進み始めた。
「わぁ……」メアリの口から感嘆の息が漏れる。
銀翼竜に騎乗したときとは違い、左右に大きく揺れるし風も強い。速度もゆっくりで、森や遠くの山々を一望できた。
空から見下ろす光景は、何度見ても格別だ。
人は空を飛べないから、余計にそう感じるのかもしれない。
銀翼竜の背に乗っていたときは雲の中だったし、街や山は点にしか見えなかった。
今はそうではない。空から見下ろした街の景色がはっきりと見えるし、そこに住む人々の暮らし、森の中に暮らす獣や鳥までを俯瞰的に見ることができた。
「あまり身を乗り出すなよ」気づけばメアリは、櫓から上半身を乗り出していた。ユーリヤは正面に腰を下ろしたままの姿勢で言う。
「大丈夫よ」そう言いながらも、メアリは身を退いた。「それにしても、すごくいい眺めね。こんなときでさえなければ、ゆっくり観光したいぐらい」
「観光用なら、別の飛竜がいいだろう」ユーリヤはメアリの言葉に頷く。「冒険者用の飛竜は速度重視で荒っぽい。もっと乗り心地の良いやつを、今度紹介してやろうか?」
『申し出はありがたいが、その必要はないさ』銀翼竜が会話に入ってくる。『彼女は、とびきりの竜に心当たりがある。そうだろう?』
メアリは思わず噴き出しながら「ええ、そうね」と答えた。ユーリヤは「ふぅん」と頷いただけで、特に感心は示さなかった。メアリが良いところのお嬢様だと思っているため、とくに不自然には思わなかったためだろう。
それからは、お互いの役割について話したり、過去の冒険について話したりした。銀翼竜はほとんどしゃべらず、ほとんどはメアリがユーリヤを質問攻めにしていた。
聞き上手のメアリに乗せられて自分の経験や知識を話していたユーリヤだったが、さすがに1日経った頃にはすっかり話し疲れてしまい、メアリが何を聞いても反応しなくなった。
残り時間を外の景色を見て過ごしていたメアリだったが、さすがに森や山、湿地ばかりを眺め続けば飽きがくる。時々気流のせいで激しく揺れる櫓の中で、彼女は目を閉じて過ごすようになった。まぶたの内側に浮かんでくるのは、修道院や姉であるアレッタのこと、親友のマリアンヌのことだった。
彼女たちは、元気で暮らしているだろうか?
自分のことを心配してはいないだろうか?
そんな思いが浮かんでは霧散していく。
気づけば、メアリの頬には涙が溜まっていた。
そのメアリの頬を、固い指先が拭った。ユーリヤのものだった。武具を握り込んだ彼女の指先からは、女性らしいしなやかさは失われていたが、代わりに勇敢さと頼もしさが備わっていた。
「着いたぞ、起きろ」
いつのまにか寝入っていたらしい。目を覚まして櫓の中から出ると、すでに地面に着いていた。起き上がって外を見れば、銀翼竜が木に飛竜の手綱を縛っているところだった。
そして、目の前には不気味な洞窟があった。
中はまるで見えない。まるでどこまでも伸びた巨大な影の足元にいるかのようだ。
「この中だな、例の精霊の祠というのは」ユーリヤが言い、洞窟の中を覗く。洞窟が突然化け物に転身し、突然ユーリヤの頭をがぶっと食べてしまうのではないか。そんな妄想が、メアリの頭をよぎった。
『間違いないな』銀翼竜は屈み、泥の中に人の靴跡があるのを見つけた。『足跡はまだ新しい。追いかければ、追いつくことはできるだろう』
「なぜそう言い切れる? 3人が出発したのは、1週間も前の話だぞ」
『洞窟の中は通路が複雑だし、光も差し込まない。まともに探索しようと思ったら1カ月以上はかかる』
「まるで、洞窟の中を知っているような口ぶりだな」
『以前にも訪れたことがある』銀翼竜は断言した。『だが前に来たときは、こんなまがまがしい気配はなかったな』
「血の臭いがする」ユーリヤが鼻を鳴らした。「すぐ近くだな。そこか」
ユーリヤが暗闇の中のある方向を向けて、持っているランタンを照らしてみせた。
ぬかるんだ地面を越えていく。その先には、2つの体が倒れていた。
どちらも人間ではない。
コボルドと呼ばれる、頭が獣型の亜人だ。
片方はすでに息絶え、もう片方の者も背中の皮を剥がされて臓器を抜き取られていた。致命傷であることは明白だ。
「件の冒険者の仕業か?」ユーリヤが近づき、確かめる。
『おそらくは』銀翼竜が呟いた。『切り傷は刃物だ。皮膚にあるいくつもの切り傷からして、弄んで殺されたのだ……怖かっただろう、かわいそうに』
「……魔物とはいえ、惨いことをする」吐き捨てるように、視線をそらしながらユーリヤが言った。
それが自分たちが追っている、件の冒険者の仕業であることにはアタリがついた。
メアリは『見ない方が良い』と銀翼竜の指に、視界を遮られる。だが銀翼竜の指のすき間から、銀翼竜の表情は見ることができた。その顔には、自身の手足を切り取られたかのような悲痛さが浮かんでいた。
『妖霊族にお願いする。せめて彼らの魂を、安らかな眠りに就かせてあげてくれ』
洞窟の中に、わずかだがいくつかの灯りが浮かんだ。
ここは妖霊族の祠、だとすれば彼らが妖霊族と言われる者たちなのだろう。
メアリは、「妖霊族は死者の魂を案内する役割を持つ」と銀翼竜が言っていたことを思いだした。
『急ごう。手遅れになる前に』
その言葉に反発する者は、その場にはいなかった。
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