■□ ~メル湖のほとり にて~ □■
修道院を脱出したメアリは、西側の森へと踏み入る。
メル湖まではメアリの足で、普通に歩けば数時間かかる。早くしないと夜が明けてしまう。メアリは足早に森の中を進んだ。
このあたりには人を襲うような危険な魔物はいない。鳥や虫、せいぜいが森に棲む精霊ぐらいだ。精霊は時々イタズラで人間を迷わせようとするので注意しなければならない。
夜の森を見るのは初めてだ。
月の光が、葉のすき間から差し込む様は、薄いシルクのカーテンのようだ。それが、森の奥にまで延々と垂れている様子は幻想的ですらある。
「ホウ、ホウ」という鳥の声が聞こえる。あれはセミフクロウという夜鳥で、昔から森の守り神と言い伝えられている。
木には印をつけてある。湖にピクニックに来るときは、迷わないようにこの印をたどるのが習わしだ。それに従い、メアリは森の奥へとさらに足を勧めた。
だが、一向に着かない。
普通ならもう、とっくに湖に着いている頃合いだというのに、同じ景色がいつまでも続いていて変化しない。
(きっと、森の精霊のイタズラね)
森の精霊は直接人に危害を加えることはないが、人を騙すのは大好きだ。
きっと今も、メアリをからかって、近くで見ているのだろう。
「急いでるの。邪魔をしないで」
メアリは、以前にシスターに教わった、妖精を退散させるための言葉を思い出した。
「今すぐやめないと、石をカチカチ鳴らすわよ!」
メアリがそう言って近くの石を拾って手に取ると、彼女の後ろからすーっと、小さな灯りが通り過ぎていった。
その光はメアリから離れ、一目散に森の奥に飛んでいってしまう。
(追い払えたみたいね)
それから数十分歩いたところで、メアリは変化に気づく。
森の中が、やけに明るい。
それは月光だけでなく、木々が銀色に光っているためだと気づいた。
木々だけではない。土も、花も、虫たちも。
もう、木の目印は必要なかった。
灯りが強くなっていく方向へ、導かれるようにメアリは進んでいく。
森を抜けて、明るさが一気に増した。
月明かりに照らされた湖の畔は、一面が銀色に輝いている。
まるで銀の粒が隅々まで撒かれた砂丘のよう。
――まだ、夢の続きをみているのかもしれない。
ここまで歩いてきた疲れなどすっかり忘れ、おぼろげな足取りで、光の中心に向かい歩く。
そこには、ひときわ大きな固まりがあった。
山のように大きく、メアリが下から見上げても天辺まで視界に入らない。
銀色の輝きを放つその固まりは周囲の銀よりもひときわ目映い輝きを放っている。
手で触れてみると、ざらりとした感触と共に、手も銀色に染まる。
銀塊が動いた。
くるりと、青い2つの光がメアリの前に現れる。よく見ると、それは銀色のは虫類のような、巨大な顔だった。
『こんにちは、かわいいお嬢さん』
(銀翼竜だわ!)
顔だけでメアリの体以上の大きさがある。体は岩のように大きく、尻尾と2つの羽が生えている。足は太く、爪は大きい。手は少し短いが、4本の指にはそれぞれ巨大なかぎ爪がついている。巨大な尾はしなやかな大木のようだ。
彼の体は銀色に光っている。そして、あたりの銀色は、彼の体からあふれ出ているのだと、メアリは理解した。
不思議と恐怖はなかった。
今のメアリにあるのは、彼と話がしてみたいという純粋な好奇心だ。
「こんにちは、ドラゴンさん。私を呼んだのはあなたではなくて?」
『はて、呼んだ……んん?』
首をかしげる仕草が、人間のようで、メアリは笑いそうになる。
少し考えたあと、銀翼竜は合点がいったとばかりに『ああ……』と口を開いた。
『少し眠ってしまっていたようだ。私は眠ると、他の生物を呼び寄せてしまう性質がある。それが君を呼び寄せたのだろう』
「どうして、私だけが呼ばれたの?」
『私の話をどこかで聞いたかな? そして、会ってみたいと思ったのではないだろうか』
メアリは寝る前に、ルームメイトのマリアンヌと銀翼竜の話をしていたことを思い出した。
そして、1度ぐらいなら会って、話してみたいとも。
「思ったわ。私、あなたに会いたかったの。食べられなければ、だけど」
『人間を食べる趣味はないよ。竜は、魔素を食べて生きているんだ』
「魔素?」
『自然のエネルギー、とでも言えばいいのかな。火や水、風だったり、竜によって違う。私の場合は、こうして月の光を浴びるのが食事なんだ』
空に浮かぶ満月を眺めながら、銀翼竜が言う。
銀の光は、すべて月の光の反射だ。月が少し隠れると、銀が少し減る。
銀翼竜は気持ちよさそうにあくびをした。
「ご飯が食べられないなんて、かわいそうね」
『私が普通の食事をしたら、あっというまに星を食べ尽くしてしまうよ』
「竜は、世界を滅ぼす存在だって聞いたわ。なぜそれをしないの?」
『世界を滅ぼすつもりはないよ。ただ、見守っていたいだけさ』
「私たちは、竜は世界を滅ぼすものだって教わっているわ。人をたくさん殺してるって。だから、あなたたちとずっと戦っているんだって。あれは嘘の教えだったの?」
『人を殺しているのは本当だ。だけど、それは私たちを襲ったり、殺そうとした者たちだ。普通に暮らす人を、襲ったりはしない』
竜は人を殺すもの。
だからこそ、人間は何百年以上も竜を討伐しようと試みてきた。
けれど銀翼竜によれば、襲ってこなければ殺すつもりはないという。
今まで教えられていたことと違う銀翼竜の答えに、メアリは少し困惑した。
悩んだ末にメアリは、ひとまず保留にすることにした。
こうして話していても彼は穏やかだ。結論は、彼と話してからでもいいのではないか。
『それでお嬢さん。私に何か話したいことがあったのだろう? 何が聞きたいのかな』
「メアリよ。メアリ・ヴァン・スチュアトリカ。あなたはファフニールでいいのね?」
『ああ』
5大竜の一体、銀翼のファフニールが、目の前にいる。
メアリは、自分の心臓の鼓動が速まるのを自覚していた。
「ではファフニール。外の世界のことを教えてくださらない? 私、お城と修道院以外の場所を、見たことがないの」
『いいだろう、メアリお嬢さん。月光浴中は暇なのでね。私の方も、話し相手が欲しかったんだ』
銀翼竜が世界を語る。
銀翼竜の話は、メアリにとって新鮮で、素敵なものばかりだった。
最南端にあるという黄金でできた島。
1000年前の伝説の王、アルドラグスの武勇伝。
大魔道士ビアンキと、酒を酌み交わした話。
中でもメアリが興味を持ったのは、他の島にいるという竜の話だ。
「他の五大竜とも、ファフニールは知り合いなのね」
『頻繁に会うわけではないがね。前に他の竜と会ったのは500年も前だ。一堂に会したのは、何千年前かわからないよ』
「他の竜も、人間を襲ったりしないの?」
『攻撃されたりしなければ、基本彼らはおとなしい。中には、人間に紛れて生活している者もいる』
「ファフニールはどうなの?」
『私は人間が好きだ』ファフニールが少し苦笑したように、メアリは感じた。『頼まれれば助もするよ。対価はもらうけれどね』
「対価って?」
『労働や物資、信仰。なんでもいい。頼み事に見合ったものをもらうようにしている。対価をもらわなければ、自分では何もしなくなってしまうだろう?』
「そうね」メアリは同意した。「人間はワガママで身勝手だわ」
『ふむ』ファフニールは空を見上げて言う。『今日はここまでかな。メアリが帰る頃には、夜が明けてしまうよ』
「いけないわ! 脱走がシスターにバレちゃう!」
メアリは焦ったように立ち上がり、元来た道を引き返そうとする。
「今日は楽しかったわ、ファフニール。また来てもいい?」
メアリのその問いに、銀翼竜は静かに頷いた。
『もちろんだとも。しばらくはここにいるから、いつでも尋ねてくるといい。我が友、メアリ』
銀翼竜がメアリから顔を背け、寝転がる。すると、その体は徐々に透明になっていった。やがて、そこに大きな竜が寝ているなど、誰もわからなくなる。
『こうした方が見つかりにくいのでね。それにしても、我が友メアリ。君は、私が怖くないんだね』
「人間の方がよっぽど怖いわ。それではファフニール、また明日」
『おやすみ、メアリ。良い夢を』
※「石をカチカチする」
石は、火打ち石に由来する。
森に火がつくのを怖がって、イタズラ好きな精霊たちは逃げていく。
森の悪い邪気や魔を追い払う伝統的なおまじない。
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