メアリがケガをしたのは、アルギュロスの山で暮らすようになってからしばらく経ってからのことだった。
ケヒルという草を取りに行こうと、群生地に入ったときのことだ。食用と薬用に使える便利な草だが、葉が大きく集団で生え茂っていると地面が見えない。
そのせいでメアリは、急な斜面に気がつかずに足を踏み外してしまい、十ヤートに近い斜面を転がり落ちてしまったのだ。
「いたた……」
銀翼竜の加護のおかげもあってか、幸い命に別状はなかったものの、左手首が大きく腫れてしまっていた。
『これはひどい。2、3日もすれば腕は倍以上に腫れ上がってかなり傷むだろうね』
銀翼竜の言葉に、メアリは心底怯えた。
「そ、そんなのイヤよ。どうすればいいの?」
『コーマの集落に一緒に行こう』
「コーマの集落? なぜ?」
『その集落の長が、卓越した医術を使えるのだ。メアリのケガは、彼に診てもらえば治癒も早いだろう』
「ぜひお願いするわ」こうしている間にも、手のケガは熱を持ってズキズキと痛み出している。「お願い、早く連れていって、ファフニール」
『了解した。では、私の背中に乗りたまえ』
屈んでメアリが乗りやすいようにする。メアリは左腕をかばいながら、前と同じように銀翼竜の背中によじ登った。
メアリが背中に到達するのを確認すると、銀翼竜は大きな翼を羽ばたかせた。
『では行こうか』
「ちょっと待って、ファフニール」メアリはそう言うと、パンパンと手を2回叩いた。
「お呼びでしょうか、女王様」草むらの中から姿を現してラグーが言った。
「私は出かけてくるわ。留守をお願いできる?」
「おおせのママニ!」
ラグーがお辞儀をするのを見計らい、銀翼竜が空へと飛んだ。
「メアリはすっかり、彼らに気に入られたようだね」
「ふふん」
胸を張るメアリに、銀翼竜が口角を吊り上げた。
まるで、娘の自慢話に耳を傾ける母親のようだ。
「速度を出すから、しっかり掴まっているんだ」
銀翼竜が翼を使うと、あっというまに加速して、さっきまでいた山がはるか小さなものになってしまった。
■□ ~コーマの集落 にて~□■
集落からだいぶ外れた森の中に、銀翼竜は降り立った。
なぜ集落の近くに降りなかったのか、メアリが理由を尋ねると『この大きな体では集落の住民を驚かせてしまうから』だそうだ。至極まっとうだ。
銀翼竜は、わずかばかりメアリに目を閉じるように言う。
数秒後、許可をもらったメアリが目を開けると、そこには痩せた長身の男がいた。
灰色の装束を纏い、何かの動物の毛皮を羽織っている。
髪は銀色。立派なひげが生えている。
口元から覗く牙は明らかに人間のソレではない。
『こんなところか』それは紛れもなく、銀翼竜の声だった。
「その姿のまま、人の街に入るの?」お世辞にもうまい変装とは言えなかったのでメアリは尋ねた。
『今度訪ねるコーマの集落は、人の街ではない。人であの集落に入るのは、メアリを入れてほんの数名ぐらいだろう』
「集落なのに、人間がいないの?」
『精霊や亜人、魔族。色々な者がこの世界にはいる。今から行く集落で暮らすのはそうした、人の社会では存在を認められなかった者たちだ』
そんな話をしながらしばらく森を歩いた。
森の中は、植生が濃くて、昼間なのに薄暗い。
修道院の側にあった森と比べると不気味な感じがして、メアリは銀翼竜から離れないように歩く。
何かに見られている気配がするのだ。おそらくこの森に生息している人外の者だろう。
森を抜けた後は、1本道が続いていたので道なりに往く。
道は舗装や整備されたものではなく、誰かが歩いたことによってそこだけ平らになった地面だ。馬車は通れないだろう。道と呼んで良いのか微妙なところだ。
銀翼竜と2人で少しの間歩いた後、急に道が途切れる。その先には大きな木があった。
『着いたよ、メアリ』
「集落なんて見当たらないわよ」
『それは目で見える景色に囚われているからだ』銀翼竜は目を指さした。『心で見てごらん。今のメアリなら、できるはずだ』
メアリは目を閉じる。木々のざわめき、小鳥のさえずり。森の中の音がいっそう鮮明になる。
それと同時に、今まで聞こえなかった奇妙な音が聞こえてくることにメアリは気づいた。
(この音は、なにかしら……?)
『恐れないで』銀翼竜は言った。『心を落ち着かせて。心の目を、開くようなつもりで』
(心の目を、開く……?)
かすかだった奇妙な音が、大きくなってきた。
それは誰かの話し声だった。
誰かの歩く音だった。
衣擦れの音、息づかい。生活音。
「……あ」
目を開けたとき、目の前にあったのは木ではなく、建物の並んだ通りだった。
「集落だわ。建物が急に現れたわ」
『メアリも今後は、心で物を捉えることを覚えた方がいい』
目に頼って見ると、ただの木にしか見えないのに、見ることを意識しないようにすると、心の中に建物や道など、生き物の住む風景が浮かぶ。
不思議な感覚だ。
メアリは改めて、集落を眺めてみた。
お城で暮らしていたとき、何度か街に出たことがあるが、そのときに見た街の景色とは何もかもが違っていた。
まずは建物だ。人の街の建物は、石や煉瓦できているが、この集落の建物の多くは、太い樹木でできていた。齢数百年はあるかのような巨木に扉や窓のようなものがつけられているだけのシンプルな造りだ。上部には枝葉が生い茂っていて、遠目に見れば森にしか思えない。
これを建物と呼んでいいのだろうか?
答えは「イエス」だろう。取り付けられた丸や四角の窓からは、中で暮らす者の様子が見てとれるし、扉が開けばそこからは、料理の匂いも漂ってくる。
住民は大きさも形もさまざまだ。城の騎士より大きな二足歩行の者もいれば、メアリより小さいのに、ヒゲを生やした小人もいる。流暢にしゃべる獣、チャムのような妖精など、人間と似ている者の方が少ない。
『離れないように』銀翼竜はそう言って手をつないだ。『人間の子どもは希少だから誘拐されやすい。それに……』
銀翼竜は言いよどんだが、メアリは気づいていた。視線の中に、ありありとした敵意と警戒が見て取れる。その対象はメアリだ。
こういう視線を過去に向けられたことが何度かあるからすぐに気づいた。あれはたしか、皇帝の後続の馬車で、民衆の中を通ったときだ。多くは期待と羨望に満ちたまなざしだったけれど、少なからず睨み付ける者がいた。
第2皇女である姉に後で聞いてみると、「皇族には恨みを持っている者もいる」とのことだった。民が全員、皇帝を支持しているというわけではなかったことに、幼心にショックを受けたのを覚えている。
あのときに似て、心が締め付けられる感覚があったが、銀翼竜は『大丈夫』と小さな声で言って、メアリにフードを被せた。
銀翼竜に護られているというたしかな実感が、再びメアリの心臓の鼓動を平常に戻す。
銀翼竜の足取りは大人の男が歩くのよりははるかにゆっくりで、メアリのペースに合わせてくれているのがわかった。
ゆったりと歩く中、なんとも香ばしい匂いがメアリの鼻腔をくすぐる。
匂いの先には、食べ物を売っている屋台があった。燃えた薪の上に紐を結び、そこに肉を通して熱している。肉からは、チーズが火に溶けてジュウジュウと煙を立てていた。
これは人の街にもある。“ラマド”と呼ばれる食べ物だ。山羊の肉をミルクで煮込み、チーズをたっぷりつけたもので、城でも何度か出されたことがある。もっともそのときは、綺麗なお皿の上に乗っていて、肉ももう少し上品だったが。
『一ついただこう』
銀翼竜は一つ買うと、メアリに差し出した。
メアリはそこでようやく、自分の口元からよだれが垂れていることに気づいた様子だった。
「はしたないわ、私ったら!」
『ここ数日、果物や草ばかりの食事だったからね。肉が食べたくなるのは仕方のないことだ』
「ファフニールは、月の光以外の食事はとらないの?」
『食べられないというわけではないが。別にお腹は空いていない』
「食べましょうよ。一緒に食べた方が、きっと美味しいわ」
『ふむ』
銀翼竜は少し考えたあと、指をもう一つ立てて、追加でラマドを購入した。
メアリの見ている前で、豪快にかぶりついた。肉汁が零れ、香ばしさがいっそう漂う。
城ではこのような食べ方をしたことはなかったメアリは驚く。
『外で買ったものは、こうして食べるものだよ』
メアリは意を決して、銀翼竜がやったように、大きく口を開けて、がぶりと噛みついた。
驚きが、口の中に広がった。
とろりとしたチーズと柔らかい肉が絡む。
胡椒もよくきいている。
噛むたびに溢れてくる肉汁が口の中いっぱいに満ちていく。
熱い料理を食べたのは、メアリにとっておよそ初めての経験だ。
なにしろ城や修道院では毒味をされてから料理が出されるので、スープであろうとたいていは冷め切っているのだ。
「あったかくて美味しいわね」
『たしかに、悪くはない味だ』
銀翼竜が賛同する。
口を上に向けて、ハムハムッと顔を上下に動かす。
まるでトカゲが、丸呑みした小動物を喉に通しやすくするような仕草だ。
メアリは思わず笑ってしまう。
『なにか私の作法で問題があったかな?』
「ううん、そうじゃないわ。でも、一緒に食べると、やっぱり美味しいでしょう?」
『そこはよくわからない。一緒に食べたからといって肉質が良くなるわけでも、味が濃くなる訳でもないだろう』
銀翼竜はそう言った後、
『だがメアリがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。これからは私も、君と食事をすることを検討しよう』
真剣な顔でそう付け足した。
そんな風に真面目に悩む銀翼竜がおかしくて、メアリはますます笑ってしまうのだった。
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