――ああ、愛しの銀翼竜。
私はただひたすらに、あなたに会いたい。
■■■
その日、世界は歓喜に満ちた。
最後の竜である『赤焔竜』が、勇者によって討伐されたためだ。
これで、地上にいた5大竜すべてが討伐されたことになる。
人々は大いに喜んだ。
ある国では国を挙げて七日七晩祭りを行い、ある国では10年間、税金を免除することを約束した。別の国では国庫にあった酒がありったけ振る舞われた。
冒険者も、商人も、鍛冶屋も、平民も貴族も国王すらも――職業も身分も関係なく、五大竜の死を喜んだ。無論、討伐した勇者本人もだ。
勇者は莫大な報奨金と伯爵の地位、それにこの国の皇女を娶ることになった。
金、地位、妻。欲しいものはすべて手に入った。
だがそれ以上に勇者は、人々を恐れさせていたあの五大竜を倒し、世界が平和になったことを大いに喜んでいたのだ。
「ああ、実にめでたい」
ここは皇女の自室。パーティーの途中で皇女に誘われた勇者は、彼女の案内に従い、部屋へと招待された。
皇国一の美女と称えられる第三皇女メアリと、密室で2人きり。
勇者とて男だ。胸が高ぶるのを、抑えきれない。
「何がそんなにめでたいのですか?」
棚の中のワインを選定しながら、メアリは尋ねた。
「決まっている。全ての人々が、笑顔でいることがさ。世界中を旅してきたが、竜が生きていた頃の人々はみな、どこか虚ろで苦しんでいたからね」
「そんなものでしょうか」
「君だって、嬉しいだろう?」
勇者が尋ねると、メアリの顔に暗い影が差す。
「親友が殺されたのに、手放しに喜ぶ気にはなれませんわね」
「ああ……」その一言を聞いて、勇者は察したようだった。
世界を跋扈していた5体の竜を倒すために、何万人という兵士が犠牲になった。兵士が不足しているからと、戦場にかり出された農民もいる。畑仕事の主力が足りなくなったことで、その家族も大いに苦しんだだろう。
貴族にも犠牲は出た。特に武官の出自であった者は総じて戦いにかり出された。
そうした犠牲になった人々の中に、彼女の親友がいたのだろう。
「それでも、喜ぶべきだ。少なくともこれからは、竜による犠牲者が出ることはないのだから」
「そうでしょうか?」
「人間の時代だ」勇者は言った。「君が悲しい顔をしていたら、その人も悲しむよ」
「そうですね。彼が生きていたら、きっとそう言うでしょうね」
メアリは、2つ持っていたうちの片方のグラスを勇者に手渡した。2人は、グラスを合わせてチンと鳴らす。
「人々の笑顔に」
「散っていった盟友に」
同時にグラスの中身を、一気にあおった。
「ふぅ……」と、勇者は大きく息を吐いた。先ほどまでパーティーで飲んでいて、彼の酒の許容量はそろそろ限界に達しようとしていた。
「酔っておられるのですか? それでしたら、どうぞベッドをお使いください」
メアリに体を支えられ、ベッドに腰掛ける。絹のようなさらりとした肌触り。この地にしか生息していないクラームという水鳥の羽毛の弾力が、心地良い。
加えて、彼女が纏っているのだろう。甘くて蠱惑的な香りが鼻を刺す。
「勇者さまは、別の世界からいらしたとお聞きしましたが、本当なのですか?」
「ああ」
隣にメアリが座る。体が密着するほどに、互いの距離が近い。
「日本という国にいた。魔法がない代わりに科学が発達していた」
「カガク?」
「こちらで言う、錬金術をはるかに発展させたものだ。馬がいなくても走る鉄の車や、空を飛ぶ鉄の船がある」
「まあ! 鉄が空を飛ぶのですか?」
「ああ」
メアリが驚きに目を丸くする。公の場であったときは毅然としたしっかりした女性というイメージだったが、こうしてみると年相応に表情豊かだ。
新しい知識には驚き、悲しい話にはうつむき、関心事には深く頷く。軽くジョークを挟めば口元を押さえて上品に笑う。聞き手としてメアリは優秀だった。自然、勇者の話も弾む。
話に興じ、注がれるお酒もついつい進んでしまう。
「……っと」
深酔いに頭が揺れて、倒れそうになった。後ろはベッドだから平気なのだが、メアリが慌てて手をつかみ、自分の方に引き寄せた。
「大丈夫ですか? 勇者さま」
胸元に顔を引き寄せられる。もぎたての果実のような蠱惑的な香りが鼻をさした。
白い肌は綺麗で、柔らかい胸の奥からは、彼女の心臓の鼓動が聞こえてくる。
この香りも、肌も、心臓の鼓動さえも、今日から自分のものになるのだ。
酔いもあってか、勇者は高揚感を抑えきれなくなっていった。
「待って、勇者さま」
メアリを押し倒そうとする勇者の手を、メアリは強く拒んだ。
「私の親友の話を聞いてくださらない?」
勇者としては、肉を前におあずけをくらった犬の気分だった。衝動に任せて押し倒すこともできたが、彼の中の勇者としての正義と理性が、獣のような強引さを拒んだ。
「亡くなった親友のこと?」
「ええ」
メアリは、再びワインを注いだグラスを勇者に差し出した。
勇者はグラスを傾ける。まあいい。彼女はもう自分のものなのだ。機会はこの先、いくらでもある。
長く付き合うことになるからこそ、最初の夜の思い出は、特に記憶に残るものだ。強引な手段で思い出を汚すのは良いことではない。
女は記念日を汚されると一生根に持つ。かつてパーティーの一員だった女魔法使いが言っていたことだ。
「聞かせてくれるかな」
吟遊詩人の語りを促すように言う。
「その親友は、とても素晴らしかったのです。大きくて、強くて。そして、何より優しかった」
「僕よりもかい?」
「ええ」メアリはくすりと笑った。「あなたより、よほど」
メアリは髪をたくし上げた。臙脂色の、長く綺麗な髪だ。ランプの光でキラキラと流星のように輝いている。星の砂を一粒一粒、ちりばめているような輝かしさだ。
その下にある白いうなじが露わになった。
そこに刻まれた、紋様も。
「この紋様は……?」
赤く刻まれた十字と盾の紋様。見覚えがある。どこだっただろう。
だいぶ前に1度見たきりだ。
すぐに思い出せないのは酒による酩酊のせいだろう。
そして――思い出したときには、すべてが手遅れだった。
「がッ……!?」
グラスが手からこぼれ落ちる――勇者はこみ上げてくるものを我慢できずに、吐いた。先ほどのパーティーで食した馳走だが、赤に染まっている。血が混じっているのだ。
これは自分の血か? なぜ?
勇者は混乱する。その間にも、口からは血が大量に噴出し、手足が痺れ、吐き気がし、その場に立っていることができなくなった。
(毒を盛られた? いったい、誰が……)
「ああ」頭より高いところから、声が聞こえてきた。「ようやく、効いてきましたか」
自分を見下ろす視線が背中に刺さる。
その視線には、枯れた大地のような淡泊さと冷たさが込められていた。
「君が、これを……?」
「しゃべらない方がいいと思いますよ」
メアリが笑う。声のトーンは決して勇者を気遣っていないことは明白だった。
毒を仕込んだのは――彼女だ。
危機感が虫のように湧いて全身を這う。
「だれ、か――ッ」
叫ぼうと、口を大きく開くも、毒のせいか、枯れた声しか出ない。
「無駄です。誰も来ないよう、従者には言い伝えてありますから」
現在、城の人間は庭園でパーティーに夢中だ。今夜に限って言えば、見張りの兵士も外に出ている。大きな城の中は、メアリと勇者以外、無人なのだ。
彼女の邪魔をする者は、誰もいない。
「なぜ……こんなことを……」
勇者は必死に言葉を発するが、明確な答えは返ってこない。
代わりに紡がれたのは、先ほどの話の続き。
「親友の話が途中でしたわね。強くて優しい親友。ですが彼は、殺されました」
「竜との戦いで、死んだのだろう……?」
「――あなたに殺されたのですよ」
背中を踏みつけられた。
内臓を吐き出しそうだった。地べたに突っ伏し、自分の吐瀉物と血まみれになる。
勇者の頭を、靴底でぐりぐりとメアリは踏む。
「親友はあなたに殺されたのです。勇者サイガ。強くて大きくて、何より優しかった彼は、あなたの手にかかって死んだのです」
「人間を殺めた覚えは、ない」
勇者は断言した。
そうとも。
魔物も竜も数多く殺した。
それは人々を助けるためだ。
自分を傷つけてでも、誰一人犠牲者は出さなかった。
それは鮮明に覚えている。
無論、日本にいたときもだ。
そもそも、日本にいたときは人を殺す力などなかったではないか。
神に召喚され、力を手にし、すべてを人々のためにと思い捧げてきた。
その自分が、人間を殺すことなど、あるはずはない。
「私は、一言も親友が人間などと言った覚えはありませんよ」
驚くべきことが起こった。
メアリの髪の色が、みるみるうちに銀色に変わっていく。
その銀色を見て、はっと、勇者は思い出した。
先ほど見た、彼女の肌に刻まれた紋様。
十字に盾。そして何より、銀に輝く髪の色は――
「『銀翼竜』……――!」
「やっと思い出してくれましたのね」
少女の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「人類の敵として見なされ、あなたが討伐した5大竜が一竜の『銀翼竜』。彼は私の親友でしたの」
「君は、あのときの……? そんなはずはッ!」
メアリは頭を強く踏みつけて、彼を黙らせる。
赤く燃えるような瞳には、憤怒と歓喜が同時に浮かぶ。
「そう。私はたしかに、あのときに死んだはずでした。『銀翼竜』が、命を賭してかばってくれなければ……」
「く、そ!」
勇者は剣を抜こうとする。だが、それは彼女の部屋に入るときに取り上げられたことを思い出した。
そして彼女は、その剣を持っている。
振りかぶっている。
その切っ先を、勇者の背中へと押し当てる。
「君の目的は、なんだ、メアリ」
「復讐ですよ。銀翼竜を殺した者たちへの」
呼吸するような自然さで、彼女は吐き出した。
「銀翼竜がいたままなら、人々に安寧は訪れなかった……! 殺すしか、なかったんだ! そしてそれが……神の意志でもあった」
「では、人の方が消えれば良かったのです。ああ、それが神の意志であるというのなら、私は神と戦わなくてはならないようですね」
「人の身で神に抗うというのか。メアリ、お前は……――」
狂っている。
そう続けようとした勇者の背中に深々と剣が刺さり、それは心臓を正確に貫いていた。
苦しんでいた勇者がピクリとも動かなくなり、血だまりの範囲が広がっていく。
意識が、暗闇に溶けていく。
彼女の顔を見ることはできないが……
「あはっ、あははは、あははははは!」
おそらく見るまでもないだろう。
地獄に堕ちろ、と。最後に勇者は心の底から彼女に念じた。
メアリ・ヴァン・スチュアトリカ第三皇女。
彼女は、ただひたすらに狂っていた。
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