夜の海は空っぽだった。
季節の過ぎ去った海岸。暦通りに明るい月が煌々と照らしていればまだ救いようはあったのに、曇り空に覆われたこの地は今、どんよりとした沼のような様相を見せていた。ゴミは好き放題に散らかり、遠く彼方からの漂流物ばかりが海水浴を楽しんでいる。
もしも世界がおとぎ話のように優しかったなら、こんな醜い場所にすら風情を感じる詩人もいただろう。孤独の夜を慰めるように、パレードだって開かれたかもしれない。
もしも世界がゲームのように刺激で満ちていたなら、こんな空虚な場所にさえ事件をもたらす悪役もいただろう。灰色の空を彩るように、エンドロールだって流れたかもしれない。
けれどここは現実だ。誰もいないし、誰もこない。音楽は鳴り響かず、光はどこにも届かない。
夜の海は確かに、空っぽだった。空っぽだからこそ、俺にとっては唯一の避難場所だった。
……避難場所? いいや、そんなご立派なもんじゃない。ここは……そう、多分――掃き溜めだ。ゴミのような人生を送ってきた俺という屑が辿り着いた、最後の場所。
目の前に広がっているのは、まさしく三途の川だった。
「……よし」
誰も居ないことを良いことに、俺は俺自身を鼓舞するために小さな声で合図を送った。
腰掛けていたアスファルトの段差にスカスカの背負い鞄を置き、身支度を始める。順番なんてどうだっていい。靴を脱ぐ。上着を脱ぐ。足をよりあわせて靴下を脱ぎ捨てる。
これで準備は完了だ。……さすがに裸になる気にはなれない。
夜の砂浜は想像以上に歩きにくかった。単に足を取られるだけじゃない。暗くて良く見えないから、散らばっているゴミに足を傷つけられないよう歩くのが大変なのだ。
……いや、しかしこれは妙な話だな。今から三途の川を渡ろうっていう人間が、なぜ怪我を恐れているのだろう。全く、馬鹿げた話ではないか。
そんな皮肉的な自覚をした俺は、そろりそろりと慎重に進み始める。
足元に波が届くようになると、砂浜は沼地になった。わずかに沈む足と、感覚が麻痺するほどの冷たさ。そして何より、自分の足が汚れていく、という実感。全てが気持ち悪さとして襲いかかってきて――俺はある種の心地よさすら感じ始めていた。
ざざあ、ざざあ、と煩わしい波の音が響き続ける。
幾度となく押し寄せる波がジーンズの端を濡らし、じっとりと歩みを重くする。
ああ、俺はいよいよ死ぬんだな――自ら海に潜ろうとしているこの瞬間においても、この愚か者はどこかよそ吹く風だった。
だから、なんだと思う。
ハッと気づいた時にはもう、水の牢獄に囚われていた。
俺は――入水した。
月明かりすら届かない夜の海中で感じたのは、ただ純粋な恐怖だった。
死ぬのが怖い? そうじゃない。
――音が怖い。
耳に届くごぽごぽという、無意味で無遠慮な音の羅列が、死の安息を許してくれないから。
――冷たさが怖い。
夜の海は銀色に輝く雪景色よりも寒く感じられて、肉体ではなく心そのものを凍えさせようとしてくるから。
――引きずり込もうとする、波の力強さが怖い。
抗う気がないというのに、それでも尚容赦なく自由を奪い、逃げたいという気持ちを引き起こさせるから。
……。
…………。
………………。
「がはっ、……! はぁっ、はぁっ……」
いつの間にか、俺は生き延びていた。
暴力的な母なる海へと還ることに絶望的な恐怖を覚え、誰もいない砂浜へと逃げ延び、転がっていた。
「はぁ……何やってんだろ」
涙も流れてこない瞳を隠すように腕を被せ、乾いた笑いを吐き出そうとした。けれど出てきたのは笑いとも嗚咽とも取れない、濁った空気だけ。俺には、何も出来なかった。
泣くことも、笑うことも、生きることも、死ぬことも。
俺は本当に、空っぽの人間だった。
「はぁ、死にてぇ……」
馬鹿みたいな呟きが口をつく。
別に誰かに届けたかった言葉ではない。
それでも、その弱々しい本音を聞き届けてくれる誰かがいたのなら――きっと楽になれるのに。漫画みたいに、死神でも現れてくれればいいのに。
そんな風に考えた、ちょうどその時のことだった。
「では、あなたの命を預けてくれませんか?」
視界の隅に、ぱさりとはためく白い布切れが見えた。
思わず腕を退け、声のする方へと焦点を合わせる。
「もしもあなたが死にたいというのなら、せめてその最後の三日間を、預けてはくれませんか?」
見上げた視線の先。
上下逆さの世界にいたのは、純白のローブに身を包んだ、小さな少女だった。
「え、と……誰?」
素っ頓狂なセリフだったと、自分でもそう思う。
だって、あまりにも現実離れしていたから。
少女が突然現れたから、というだけではない。彼女は俺が今まで会ってきた全ての女性よりも、いや、それどころか画面越しに見た女性全てよりも――それこそ次元を問わず――美しかったから。
透き通るような白い肌。触れて確かめる必要すら感じないほどに彼女の肌は柔らかく、そして細く輝く絹糸よりも透明感に溢れていた。
目鼻立ちは少女らしい幼さを僅かに残しているが、浮かべた表情からは大人びた色気が感じられ――そのアンバランスさがかえって俺の目を掴んで離さない。
腰ほどまで伸びた銀髪は、隠れていた月がそのままこの地に降りてきたような静かな輝きを纏っており、金色の瞳は太陽よりも生命力に満ちている。
絶世の美少女、なんて言葉では表現しきれない。惚れることさえできない。
彼女の美しさは、命の輝きそのものであった。
「みことは、みことです。イキガミでございます。あなたに、命を届けにやって参りました」
第一印象とは裏腹に、どこか抑揚にかける声音で少女は名乗った。
ミコト――それが彼女の名前らしい。イキガミというのが何なのかよく分からないが、単なる電波少女、とはとても思えない。そう感じさせる何かを、彼女はもっていた。
「イキガミは、生きるべき定めにある人間を生かすための存在です。ですからアイザワさん、あなたの命を頂戴します」
俺の疑問を汲み取るように、ミコトは淡々と説明した。
だが当然、そんなことをいきなり言われたってすぐに理解できるわけがない。
「? この説明で、わからないですか。それはこまりました」
心の内を読んでいるかのように、彼女はほんの僅かに首を傾ける。
とりあえずいつまでも寝転がったままというわけにもいかないと思い、上半身だけ起こして少女に向き合うことにした。
律儀にも、ミコトは俺の目の前にちょこんと正座してくれた。せっかくの綺麗なローブが砂で汚れないかな、なんて見当違いのことをふと思ってしまった。
「ええっと、つまり君は……普通の人間じゃない?」
「はいです。みことはアイザワさんと違って、人間ではないです」
「ふむ……こんなちっちゃい女の子がこんな夜遅くに一人で出歩いてるわけもないし、嘘じゃない、のかな」
「みことはちっちゃくないです」
不思議な雰囲気を纏う真っ白な少女がほんのり頬を膨らませる。
声のトーンはあまり変わっていなかったが、自身が小柄であることは少し気にしているのだろうか。
「アイザワさんはあまり驚かないですね。ふしぎです」
「……現実感がなすぎるから、かな」
本当はもう一つ理由があったが、それは言うまいと思った。あまりにもくだらない理由だったからだ。
「それで、アイザワさんはみことに三日間をくれますか?」
「順を追って説明して欲しいんだけど……」
一体何が分からないですか? とみことは首を傾げた。
少女然とした、無邪気な所作。
本当にこの子は一体なんなのだろうと、俺は困惑して頬をかいた。
「えーっと……まず、イキガミっていうのは」
「イキガミはイキガミです。命を告げる、神の使者でございます」
神の使者。神様そのものではないのか。
まあ、こんな身長を気にするような少女が神様とか言われても信憑性に欠けるし、そのくらいの方が丁度いいのかもしれない。
「死にたいって呟いた時に現れたから、俺は最初、君が死神なのかなって思ったんだけど」
「死神さんはみこと達と対になる存在でございます。死神さん達は死の運命にある人間たちにそれを報せ、導くのがお仕事です。みこと達イキガミはその逆――生きる運命にあるのに選択を誤り、死に往こうとする人間たちに命を届け、導くのがお仕事です」
なるほど。
よく分からないが、なんとなくは分かった。
「つまり、君は俺が死のうとしてたから、生きろ! って励ましにきたわけだ」
だとしたら、全く馬鹿げた話だ。
俺は死にたくて死のうとしたわけじゃない。これ以上生きているのが疲れたから、消極的に死を選ぼうとしただけだ。
有難い説教を頂いたところで、生きたいなんて思うわけがない。
「いいえ、少し違うです」
だが意外なことに、彼女は首を振った。
そして、正座を解いてゆっくりと立ち上がる。
「イキガミは……あなた達に人間に強制的に命を与えることができます」
そう言って、虚空に手をかざす。
次の瞬間、伸ばした手の先には少女には全く似つかわしくない獲物が――不気味なほどに青白く輝く、巨大な太刀が握られていた。
「これがみこと達イキガミの仕事道具です。死神さんたちが持っている、命を刈り取る鎌とは逆のもの。死の鎖を切り裂く……えっと、活人剣というもの、です」
よく見てみれば、その剣は刃の向きが本来のものとは逆になっていた。
人を活かし、死に往く心を切り裂く逆刃の刀。
なるほど、これで俺は斬られるのか。痛くなければいいけどな――なんてまたしても嫌になるほど冷静な感想を抱いてしまっていた。
「ですが、みことはこれを使いません」
じっと刀に魅入られていると、少女は首を振りながら刀を虚空にしまいこんだ。
「アイザワさん、あなたのこれからの三日間を、みことに預けてほしいです。みことは頂いた三日間で、あなたに、命を。あなたが生きるべき道を示します」
空っぽになった手は、代わりに俺の方へと差し出されていた。
その手はあまりにも小さく、俺一人の体を支えるには心もとなく感じられた。
だから、その手を握ることまでは今の俺には出来そうもなかった。
「よく分からない……よく分からないよ」
これは偽らざる俺の本心だ。本当に、よく分からない。
死ぬつもりだったのに、死に損なって、頭の中がごちゃごちゃで。
「そうですか。でも、みことにも分かりません」
「ははは……なんだそれ」
乾いた笑い声。今度は、ちゃんと出せた。
笑ったら、なんだか馬鹿らしくなってきた。
「分かったよ……」
そう呟きながら、ゆっくりと、彼女の手を取ることなく。重い体を持ち上げる。
海水を吸い尽くした服がびちゃびちゃで、想像していたよりもはるかに苦労した。
「好きにしてくれ……三日間、君の言う通りに生きてみるから。それでダメだったら、責任を持ってさっきの刀を、ひっくり返してくれないかな」
もうどうにでもなれ、という気持ちだった。
別に目の前の少女の言葉を全て信じたわけじゃない。ただ、もう面倒になっただけ。本当に彼女にそんな力があるのなら、きっと何とかしてくれる。ダメでもまた、ここに戻ってくればいい……それだけだ。
だから頼む。そんなに眩しい瞳で俺のことを見つめないでくれ。
「わかりました、です。では、あなたのお命、みことがお預かりします」
そうして、俺はミコトに運命を委ねた。
夜の海は、相変わらずうるさいままだった。
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