空っぽの海に死神は踊らない

少女と過ごす、無かったはずの三日間
にしだやと。
にしだやと。

一日目

公開日時: 2020年9月1日(火) 08:00
文字数:5,152

「それで、どうしてここなんだ?」

「はい、アイザワさんの自宅に帰るにはもう安価な交通手段がないようでしたので。近場で宿泊する必要があると、みことは考えました」

「……なるほど」


 海岸から撤収した俺たちは、とある宿泊施設の一室にやってきた。

 予約なしで、少しばかりお金を出せば誰でも泊まれる部屋。看板のネオンライトが妙にうるさい、けれどだからこそ分かりやすくて助かる建物。

 値段の割に快適な部屋が用意されている大きなベッドの部屋に、俺たちは泊まることになった。


「アイザワさん、先にお風呂入るといいです。服は乾かしておくので」

「あ、あぁ」


 女の子のくせにこんな場所に来てもよく平然としていられるなと思ったが、それはやはり単に世間とずれているだけというよりは、本当に神の使いだからなのかもしれない。

 湯船に浸かりながら、じっと考える。


「ここなら、苦しくないだろうか……」


 海と違って、風呂の中に身を沈めるのはそれほど怖くなかった。

 静かだし、温かいし、波は打たないし。

 一分間、息を止めて潜り続けてみる。少しだけ苦しくなってきたが、恐怖は一切やってこない。徐々に意識も薄れていく。幸福な揺かごが、俺をどこかへ連れて行ってくれる予感がした。

 ……のだが、


「アイザワさん、失礼します、です」


 水面の向こうから聞こえてきた音に驚き、俺は浮上せざるを得なかった。


「なっ!?」


 酸素不足で混濁しかけた意識を、さらにぐちゃぐちゃにしてしまうように飛び込んできた情報。

 一糸まとわぬ乙女の柔肌が、俺の視界いっぱいを埋め尽くしていた。


「お湯加減はいかがですか。……少しのぼせているですか? お顔が真っ赤っかです」

「ばっ、おま! 前隠せ!!」

「……?」


 必死に叫んでもミコトは首をかしげるばかりで、俺は自分の手で視界を隠さざるを得なかった。


「っていうかなんで入ってくるんだっ!! 俺に先に入れって言っただろ⁉︎」

「はい。ですから、先に入ってもらってるです。みことは、後から入ってきました」


 ズレてる、なんてものじゃない。

 この少女は……本当になんなんだ?


 結局、その後もミコトが出ていくことはなく、「アイザワさんの命はみことが預かっているので」なんてどこ吹く風の彼女と一緒の湯船に浸かる羽目になった。

 幸いだったのは、疲れていたのと混乱したのとが大きくて、俺の身体が紳士的であり続けていてくれたことだろう。


「……はぁ、疲れた。もう寝ていいか」


 ローブを羽織り、風呂上がりの火照った体をベッドに横たえる。

 ミコトはベッドの端っこの方にちょんと座っていた。


「そうですか。アイザワさんは、こちらにはあまり興味ないですか?」

「……こちらって言うのは」

「性行為です。男女の営み、交尾、あるいは交合。英語ではセックス、と言います」


 幼い身体つきの少女の口から飛び出すにしては生々しい言葉の数々が、淡々とした口調で流れてくる。

 もはや驚くことも恥ずかしがることも俺には出来なくて、ただ一つ、天井に向かって大きなため息をつくことしかできなかった。


「……しないよ。さっきまで死にたがってた男が、女にちょっと誘われたくらいで発情するわけがない」

「そうでしょうか。みことの先輩がよく言っていました。『男なんておっぱい触らせて一発ヤラせれば刀抜く必要なんてないわよ』って。アイザワさんはもしかして……不能、なのでしょうか」

「俺は君の倫理観が少し心配になってきたよ」

「イキガミに人間の倫理観は不要です。イキガミの使命は人間を生かすことだけ、ですので」

「あっそ。……あと俺は不能じゃないから……多分」

「では、やはりみことの身体に問題があるのでしょうか。それはなんだか、不服です」


 自分の胸を見下ろし、わずかに拗ねたように呟く。

 感情に乏しいんだかどうなのか、よく分からない少女だ。

 そんな少女に振り回されてるんだから、俺もよくわからない男だ。


「そもそも、好きでもない女を抱いても男は虚しくなるだけだよ。……少なくとも俺の場合は、な」

「そうですか。では、やめておきます」


 生々しく口説いてきた割には、ミコトは随分あっさりと身を引いた。

 そのまま彼女は自然な動作で俺の隣に潜り込み、背を向け始める。


「それでは、今日はおやすみなさい」


 神の使いを名乗るのに眠るのか? というツッコミはあったが、何か言おうとする前に静かな寝息が聞こえてきた。

 なんだかなぁ、と思いつつも、文句を言うのも馬鹿らしい。仕方がないから、俺も彼女に背を向けて目を閉じることにした。

 視界が本当に真っ暗になると、意識もそれにつられてあっという間に沈んでいった。




 朝になった。

 俺は綺麗に洗濯され畳まれていた服に着替えると、逃げ出すようにさっさとホテルを後にした。

 昨日ここにくるまでは海水と砂をたっぷり含んで重かったジーンズが嘘のように軽く、歩くのも少しだけ楽になっていた。

 一体どんな手品を使ったのかとミコトに聞いてみれば、


「みことも一応神の端くれではあるので。物体の状態修復くらいはできるです」


 なんて事も無げに言っていた。

 お金を持っていない彼女が近くのコインランドリーに行ったとも思えないしそんな時間もなかったから、本当にそうなのだろう。


「それで、これからどうすればいいんだ? 家に帰ればいいのか?」

「はいです。でもその前に、朝ごはんを食べていくのがいいです。アイザワさんの身体はとても栄養を欲しています」


 言われた途端、急に空腹感が襲ってきた。昨晩は何も食べなかったから当然といえば当然だが……まあ、あと三日間生きなきゃいけないんだから素直に食べておくか。


「お前も何か食べるのか? といってもこんな早朝に開いてる店なんて限られてるけど」

「イキガミは食事を必要としません」

「ふうん」


 そんな風に強がっていたが、彼女が少しだけそわそわしているのが何となくわかった。

 歩きながら時々きょろきょろと周りを見渡し、飲食店を探している。


「ま、あれでいいか」


 駅のすぐ近くまでやってくれば、早朝とはいえど24時間営業のチェーン店が開いている。

 その中でも俺は最も手頃で腹も満たしやすい、牛丼屋にいくことにした。


「えっと、牛丼並盛り、サラダ付きのセットで」

(じー……)


 特にメニューを開くこともなく水を持ってきた店員に注文を伝える。

 それでとっとと厨房に戻って欲しかったのだが……変に空気の読める店員だったようで、その場で何かを待っているようだ。

 彼の視線の先には、カウンター席に貼り付けられた簡易メニューとにらめっこする少女の姿がある。

 どうやら、そういうことらしい。


「……あと、牛丼の小盛り、サラダ付きのセットで」

「……‼︎」


 やる気のない返答をして眠そうな店員が厨房へ戻っていったのを見送っていると、隣で一際きらきらした目の神様が尻尾を振っていた。


「ここでお前になにも買ってやらないとあの店員いつまでも待ってそうだったし。勝手に注文決めちゃったけど、食べてくれるか?」

「そういうことなら、食べてあげないこともないです」


 全く、素直でよろしいこと。

 命を預かるなんて偉そうなことを言っていた割に、ミコトは見た目通りの少女だった。

 ふと、俺にも妹とかがいたらこんな感じだったのかな、なんてつまらないことを考えてしまった。


「お待たせしましたー」


 牛丼が二人分やってくると、ミコトは目の前に現れたどんぶりと俺の顔との間で視線を行ったり来たりさせて、本当に食べていいのかと再確認してきた。

 答えるのも面倒だったから箸をとって渡してやると、ぱぁっと花を咲かせたような笑顔になって、嬉しそうに食べ始める。


「ほら、ご飯粒ついてるぞ」

「ん……とれましたか?」


 ごしごしと箸を持っていない手でほっぺたを拭うが、残念ながらご飯粒がついているのはその反対側だ。

 苦笑して、彼女の右頬に指をのばす。


「ほら、こっち。急がなくてもいいから、綺麗に食べろよ」

「……はいです」


 結局注意した後もちょくちょくご飯粒を散らかしていたのでその都度俺が頬をぬぐってやる羽目になり、夜勤明けであろう店員からさえ微笑ましそうな視線を投げられることになった。


「ありがとう、です」

「本当にそんなものもらって嬉しいのか?」

「はいです。みことはこういう店でご飯を食べたことがないので。初めて記念、です」

「そっか」


 店を出たミコトが両手でしっかり握っているのは、ただのレシートだ。牛丼並盛りと小盛りのセットが記載された、二人分のレシート。

 会計を済ませてそのまま捨てようとしたらじっと見つめていたもんだから、試しに渡してやったらとても嬉しそうな顔で受け取ってくれたのだ。

 こんなことで誰かに喜んでもらえるなら、俺の人生も捨てたもんじゃないかもな、なんてつい思ってしまいそうなくらい眩しい笑顔だった。


「んじゃ、帰るか」

「はいです」


 一日ぶりの自宅は、やけに静かで、広く感じられた。

 カーテンは締め切られ、掃除をサボっているため埃が積もり始めている。ゴミだけは惰性で溜め込まないようにしていたからミコトに見られても恥ずかしくはなかったが、かえって生活感の感じられない部屋が、死を想起させるんじゃないかと少し怖くなっていた。


「広いです。でも、暗いです」

「金だけはあったから。カーテンは……すまん、閉じたままでもいいか」

「別にいいです。今日はここでゆっくり過ごします」


 ミコトは何も要求してこなかった。命を預かるなんて大仰なことを言ってきた割に、彼女は何もしようとしなかった。

 適当にくつろぎ、喉が乾けば茶を淹れ、時折二、三言葉を交わし。

 俺が想像していた、説教じみた人生論を語ることは決してせず。ただ俺に合わせて、ゆっくりとした時間を過ごしてくれた。

 それはなんだか、久しぶりに感じたくつろぎであった。


「これ、なんですか?」

「ん? ああ……」


 ぼうっとしていると、ミコトが棚の一角をじっと見つめていた。

 好きだったアニメのブルーレイボックスだ。買ったはいいものの、結局配信サイトで見ることのほうが多いからもっぱらインテリアになってしまっているやつ。


「円盤だよ。アニメの」

「円盤……あにめ……?」

「その機械にいれて、テレビで見るんだ」

「なるほど、です」

「……見てみるか?」


 あんまり興味深げに眺めているもんだから、ついそんなことを聞いてしまった。

 こちらを見る目の輝きが、妙に眩しい。


「いいですか?」

「好きにしていいよ。どうせこの三日間はお前の言うとおりにするんだから」


 そう言うと棚からブルーレイボックスを取り出して、ぱたぱたと駆け寄ってきた。

 どうやら、準備をしろということらしい。

 仕方なく重い腰をあげ、プレイヤーに円盤をセットする。あとは再生ボタンを押すだけ、という状態にしてからソファに戻ろうとすると――元いた場所のすぐ横にミコトが座っていた。

 ……戻りにくい。

 別にテレビの正面に座りたいほど俺は今アニメを見る気分じゃなかったのだが、かといってミコトを避けるみたいに他の場所に座るのもどうかと思う。

 さてどうしたものかと、頭をぐしゃぐしゃとやって、少しだけ迷ってから――結局、拳一つくらいスペースを空けてミコトの隣に座ることにした。


「人間は、本当に不思議です」

「ん」


 全話数の半分ほど視聴を終えたところで、ミコトが不意に呟いた。

 食い入るように見つめていた彼女かはじめに口にする感想にしてはおかしなものだと俺は思った。


「人間はなんでも作ります。生活を豊かにするために、誰かを幸せにするために。それはよく分かるです。でも、それは現実世界で生きていくためで……こんな風にありもしない世界を想像して、創造するなんて。神さまだってしないことです」

「そうなのか」

「はいです。みことにはよく分かりません。必要のないものを生み出すなんて、意味がないです。でも、おかしいです。みことはこの、あにめ、というものが、もっと見たいと思いました」


 確かに、生きていくのにアニメなんて見る必要ないだろう。

 でも、必要ないものを全部切り捨てていったら……そんなのは空っぽじゃないか。

 画面に目を向けると、ちょうど主人公が挫折を覚えるシーンだった。順調に成長を続け、勝ちを重ねてきた彼女が絶望的な敗北を経て、自身を振り返るシーン。自分はなんでこんな場所にいるんだろうと、自問自答している。


「おかしくはないんじゃないの。見てて楽しいって思うんなら」

「……それもそうです」

「ほら、喋ってないでアニメに集中しろよ。こっから山場なんだから」


 俺の言う通りに黙り込んだミコトを横目に、続くシーンをぼんやりと眺め続けた。

 アニメの世界なんてのは現実と違って都合よく進むもので、挫折を覚えた彼女もすぐに自身の原点を思い出し、より強く成長して復活を遂げていく。

 ああ、一体俺と彼女とは、一体なにが違ったのだろう。

 隣の少女をチラリと見て、必要のない思考に溺れていった。

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