「村陰花々里、だね?」
1ヶ月以内の立ち退きを言い渡されてしまった古めかしいアパートを見上げて呆然と立ち尽くしていたら、背後からいきなり声をかけられた。
聞き覚えのない若い男性らしき声にフルネームを呼ばれて、条件反射のようにビクッと身体が跳ねる。
だってこのところ、学校やバイト先以外で人から名前を呼ばれても、ろくなことになった覚えがないんだもの。
お母さんが倒れたと病院から電話がかかってきた時もそう。
つい今し方だって、バイトから疲れきって帰ってきた途端ここで大家さんに呼び止められて、退去の打診をされたばかりなのよ。
***
恐る恐る背後を振り返ったら、高そうなスーツに身を包んだ、オールバックの若い男が立っていた。
誰このイケメン。
私の知り合いにこんなハンサムな青年なんていないはず。
ホストか何かの客引き?
いや、そもそも私、ホスト遊びなんて出来るゆとりなんてないの、この安普請のアパートを悲壮感たっぷりに見上げてる時点で察して欲しいんだけど?
あ、それか……もしかしたら借金取り的な?
最近のヤクザ屋さんはチンピラでございって雰囲気ではないと聞いたことがある。特に上層部は。
お母さん、私が知らないところで何か良くないお金を借りていたりなんてこと……ないよね?
借金のかたに身売りしろ、とか言われても私、男の子とおつきあいしたこともないような干物女子よ?
そんなあれやこれやの警戒心が思いっきり顔に出てしまっていたんだと思う。
「そんなに警戒しなくても。――俺は御神本頼綱。……縁あってキミのお母さんのことを知っている」
お母さんと知り合いだと言われてもピンとこない。
だって四十路半ばを過ぎたお母さんの知り合いにしては、随分と若く見えるんだもの。
胡散臭いこと極まりないじゃない。
「ああ、知り合いと言っても友達というわけじゃないよ? キミのお母さんが20代の頃、うちの父親がやっている病院に勤めていらしてね、その絡みだ」
言われて、私は少し肩の力を抜いた。
お母さんは看護師だから。
病院に勤めていたと言われたら信じるしかない気がしたの。
「お母さんが倒れられたとお聞きして、遅ればせながら先日入院先へお見舞いに行かせて頂いたんだ。――それで……キミのことを頼まれてね。俺も、むかし彼女に可愛がってもらったよしみで断れなかったんだよ」
そう言ってふっと笑ったその男性に、私は思わず見惚れてしまう。
こうして見ると、とても整った顔をした人だ。
オールバックにセットされた髪の毛の、ところどころが後れ毛のように落ちてきているのでさえも色気に感じられてしまうような。
「失礼ですが……えっと……御神本さん?は……今、おいくつでいらっしゃるんですか?」
今、この人は母に「お世話になった」ではなく「可愛がってもらった」と言った。
とすると、母とこの人の接点があったのって、彼がまだ子供の頃?と思ってしまって。
「――27だよ? 確か、キミとは9つ離れているはずだ」
そこまで言ってふと私に視線を転じると、「あぁ、それから俺のことは頼綱と呼ぶように」と謎の提案をしてくる。
「あ、あの……目上のよく存じ上げない方をいきなり下の名で呼び捨てにするような度胸、私にはないんですけど」
言ったら、「俺もキミのことは花々里と呼ぶからおあいこでいいだろう?」とか。
ダメ、話の通じない人だ。
「呼び捨てられるのも呼び捨てにするのもイヤです!」
こういうタイプにはハッキリ言ってやらないとダメだ。
キッと睨みつけるように御神本さんを真っ直ぐ見上げてそう言ったら、予想に反してクスッと笑われてしまった。
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