「さて、ここで一つ質問をしようと思う」
そう言って男は、自分の右手の掌に小さな炎を発現させ、左手の掌に透明なコップを発現させた。詠唱や魔法陣無しに魔法を発現させるという行為自体が高等技術であるため、一部の生徒達から感嘆の声が漏れていた。
「この右手の炎は、諸君らが実技で初めに習う魔術である火球だ。これを、左手に発現させたコップで覆うと、この炎はどうなると思う?そこの君、答えてみてくれ」
前の方に座っていた男子が指された。
「炎は消えると思います。炎は酸素を消費して燃えるので、コップで覆うと外から酸素を取り込めなくなるからです」
男子は自信なさげにそう答えた。
どうやら、指された男子は普通科からの転入組みたいだ。
ここ、国立ノーブリジェンス学園には、魔術だけでなく一般教養も身に付けておきたいと思う学生が、一年間だけ普通科で学び、二年次から魔術科に転入できるという制度がある。
普通ならその答え方で正解なのかもしれないのだけれど、ここは魔術を学ぶ場。魔術には、科学的な常識には収まらない超常的な常識がある。
「理由も結果も魔術師として相応しくないな。では、君はどう思う?」
おっと、私が指されてしまった。
「それは、魔術の定義によると思います。先生がその炎の事を”何らかの物質の激しい酸化現象”だと定義していて、コップに”空気を通さない”という定義が含まれているのなら炎は消えますが、先生が炎を"揺れ動く不定形の熱源"とだけ定義してたり、コップに”空気は通り抜ける”という定義が含まれていれば、炎は消えません」
魔術とは、魔術師の定義によって発現する現象全般の事を指す。つまり、魔術は概ね、魔術師が思った通りの現象になるのだ。
「その通りだ。魔術は、魔術師の定義によって発現する。同じ炎を定義していても、術者によって炎の性質は異なる」
そこまで話して、男は炎にコップを被せた。透明なコップの中で、炎は消える様子なくメラメラと燃え続けていた。
「私はこの炎を”揺らぐ赤色”とだけ定義して発現させた。だから、熱くも無ければ燃え広がりもしない」
そう言うと、男はコップを消して、炎の中に自分の左手を入れた。
炎を消し、無傷の左手を生徒に見せてから、男は続けた。
「これまでの授業から諸君らが理解できるのは、先ほど発現させた魔術的な炎が、一般的な炎とは異なる性質を持っているという事だ。更に詳細を述べるならば、一般的な炎が持つ、高熱を発する、燃え広がる等といった様々な性質を、私が発現させた魔術的な炎は持っていない」
男は黒板に炎の絵を描き、その周囲に、高熱、燃え広がる、明るい、etc...と書いてから話を続ける。
「炎に限らず、この世の全ての現象は、一次的な現象の集合体と考えられる。ここでいう一次的な現象とは、光る、動く、といった最も単純な現象の事を指す。どの現象を一次的な現象と定義するのかという問題は、今も議論の種になるが、今回の講義内容とは関係性が薄いので、これ以上の言及はしない。しかし、この一次的な現象の定義についての問題は、”原初言語”という論理魔術における大きなテーマの一部であり、非常に面白く奥深い分野だ。興味がある者は調べてみるといい」
そう言って咳払いを一つした男は、炎の絵の上に『自然現象』と書き、その隣のまだ何も描かれていない黒板の上方に『魔術現象』と書いてから、話の軌道を本筋に戻した。
「自然現象とは、一次的な現象が自然によって特定の集合体となっている現象の事を指す。諸君らが普段目にする諸現象は、この自然現象である。それに対し魔術現象とは、魔術師が一次的な現象を任意に組み合わせる事で発現させる現象だ。ゆえに、先ほどのような自然には存在しない熱くない炎を、魔術であれば生み出すことができる」
私が魔術を習った時は、炎を発現させる際、自然にある炎をイメージするように言われ、その通りにイメージすることで炎を発現させた。
だが、男の話によれば、単純な現象をパズルのように組み合わせることで、自然にはない事柄を現実に発現させることができるらしい。
「一次的な現象の組み合わせにより魔術を発現させるのは難しい。そのため多くの魔術師は、自然にある現象をそのまま発現させている。だが、科学が台頭し、魔術師で無くとも様々な現象を発現できるようになった現代において、自然現象を引き起こすだけの魔術師はやがて、見世物小屋以外での就職ができなくなるだろう」
もしかしたら、この言葉はジョークなのかもしれないけれど、笑う人はいなかった。
皆、薄々気付いているのだ。科学の台頭によって、現代の魔術師の価値が以前ほど絶対的なものではなくなってきているということに。
「ああ、真剣に受け止めた学生もいるかもしれないので言っておくが、低スキルの魔術師にも見世物小屋以外の就職先がある。魔術学校の教師や、軍の魔術部門など、魔術自体を欲している団体があるからだ。だが、多くの人間にとって、魔術は手段の一つに過ぎない。魔術と同じことが科学でも可能になれば、より簡便な方が選ばれるし、あらゆる観点において科学が魔術を超えた分野では、魔術師の存在意義は無くなる」
男は間を置いてから続けた。
一呼吸分ほどの短い静寂だったのだけれど、やけに長く感じた。
「だからこそ、我々は魔術について学び、研究し、進化させていかなければならない。かつての賢人達が残した歴史に胡座をかいているだけで、魔術師が自惚れられる時代は終わりつつあるのだから」
正論だった。
これが、多数決のためだけに国会にいる政治家や、科学を聞きかじった馬鹿な学生が言った言葉なら、誰も気に留めはしないのだろうけれど、目の前にいる魔術師の確信に満ちた語り口は、その言葉が純然たる事実であるのだと、力強く裏付けていた。
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