オリジン・ベクターの魔術講義

魔術の深淵を覗くこの男は、天才か、怪物か
具体的な幽霊
具体的な幽霊

ラボラトリー①

公開日時: 2020年10月6日(火) 18:45
文字数:6,068

 休日、私とナナは懐かしい木のにおいが漂う廊下を歩いていた。

 ベクター先生の研究室である『基礎魔術定義研究室』は、普段私達が通っている本館から少し離れたところにある第三分館の二階の隅にある、らしい。少なくとも、調べた限りはそうだった。

 休みの日ということもあるけれど、第三分館は静寂に包まれていた。

 この第三分館は、元々ノーブリジェンス学園の本館だったのだけれど、学園の規模が大きくなるにつれて、次々と別館ができたため、今ではほとんど使われていない。


「本当に、ここに研究室なんてあるのかしら」


 ナナが疑問を抱くのも当然だけれど、第三分館の一階には警備員がいて、その人は私達の他に何人かの人が入っているのを見たと言っていたのだから、誰かはどこかにいるのだ。


「そんなこと、行ってみないとわからないでしょ。ほらあった」

 

 辿り着いた場所には、『基礎魔術定義研究室』と書かれた扉があった。思いっきり蹴れば壊せそうな木製の扉だった。

 まさか、本当に蹴り破るわけにはいかないので、私は扉をゆっくりと三回ノックした。


「こんにちは。論理魔術学部二年のリーナ・オランジュと、ナナ・エレヴェンです。研究室を見学しに来ました。入室してもよろしいでしょうか」


 初めて、私達以外の足音が聞こえた。

 その足音は、小さいけれど確かに近づいてきて、一瞬聞こえなくなると、扉やゆっくりと開いた。

 現れたのは、長い黒髪が綺麗な女の人だった。


「こんにちは。ようこそ、先端にして異端の魔術研究室へ。私はイロハ・ナチュラと言います」


 私とナナより少し身長が高く、大人びた雰囲気を纏っているナチュラさんは、黒縁眼鏡の奥にある漆黒の瞳で、私達を品定めするかのように見つめた。


「部屋にあるものを変に触ったり動かしたりしなければ、入ってもらって大丈夫よ」


 ナチュラさんに続いて部屋に入ると、本のにおいがした。

 目を惹くのは、そこかしこに整然と築かれた本の塔。他にあるのは、アンティークな机と椅子くらい。黒いパンツに灰色のセーターを着た、シックな風貌のナチュラさんは、この部屋によく馴染んでいる。

 机の上には、魔法陣が描かれた紙や、開かれたままの本が置かれ、年季の入った鉛筆や万年筆、コンパスや定規がコップの中で立っていた。どの道具も古ぼけてはおらず、長年の使用を経た味わいのようなものが感じられた。

 目を惹くものが多くて目線を右往左往させていたら、ナチュラさんに笑われた。

 馬鹿にされたとは思わないような、なんというか、透明な笑い方だった。


「道具が古いでしょう。ここにある物のほとんどは、ベクター先生の私物なの。ここに来たってことは、ベクター先生の授業を受けたことがあるんだと思うけど、あの人の教えてることって、年寄りが嫌いそうでしょ。だから、学園からあんまり予算が貰えなくて、備品を買えなかったんですって」


「でも、なんだかオシャレです。ただ年老いただけの古臭い感じじゃなくて、風情っていうか、雰囲気っていうか、そんな感じの存在感がある気がします」


「ありがとう。ベクター先生が聞いたら喜ぶと思うわ」


 ナチュラさんは迷いなく部屋の奥へ向かい、近くの机を手の甲で数度叩き、私達に向き直った。よく見れば、本と紙束の山の隙間から、人の頭らしきものが僅かに動いて見える。


「紹介するわ。この研究室のエース、ソル・フォーゲル君です」


 机から立ち上がったのは、ダークブロンドのぼさぼさ髪の男性。

 

「イロハ、彼女達は?」


 きょとんとした顔で私とナナを見るフォーゲルさんは、ナチュラさんよりも更に身長が高く、着重ねた服の上からでもわかるほど痩せぎすで、梟みたいな人だった。


「ごめんね。この人、一度何か始めると周りが見えなくなるの」


 ナチュラさんは、私達にそう言って謝った後、フォーゲルさんに私達の事を説明した。


「へぇ。この研究室を見学しに来るなんて変わり者だね。君達も、ベクター先生の語る未来に惹かれた口かな」

 

 説明を受けたフォーゲルさんは、机に置かれていた細いフレームの眼鏡をかけて、私達をまじまじと見つめた。


「何が知りたい?せっかく来てくれたんだ。僕が言える範囲の事なら、何でも答えてあげよう。ただ、この研究室を視界に収めるためだけに来たってわけじゃないんだろ? 」


 そう言って、口の端を少しだけ吊り上げたフォーゲルさんは、両手の五指を顔の前で合わせた。


「この研究室では何を研究していて、その研究で何が起こる可能性があるの?」


 素早く口火を切ったのは、ナナだった。

 他人との無駄な会話が好きではないナナにとって、フォーゲルさんの提案は願ってもないことだったのかもしれない。


「研究内容は人によるね。例えば、僕は魔力の存在とその性質について研究しているし、イロハさんは魔術によって発現させた現象の特異性について研究してる。ベクター先生はベクター先生で、俺達とは違う研究してるし。まあ、基本的にやってることは、魔術を科学的手法で理解していこうってこと。これらの研究が上手くいけば、最終的には、魔術は特別な人間が起こす奇跡から、適切な訓練さえ行えば誰もが後天的に獲得できる技術に過ぎないことが証明されるだろうね」


 至って平静な声音でフォーゲルさんが言った言葉に、私は身震いした。彼の言うことが現実になれば、世界中の魔術師の家系が魔術界で持っている絶対的な権威が失墜するだろうから。

 かつて、選ばれた人間のみが扱える絶対的特権だった魔術は、近年になって訓練さえすれば誰にでも使える技術となった。しかし、その訓練の手法はとても科学的とは言えないものだったため、今でも魔術は限られた人間のみが扱える奇怪な現象だというのが、一般的な認識となっている。だが、魔術は技術の一種であると科学的に証明されれば、魔術の神秘性は地に堕ち、魔術師は単なる職業の一種になるだろう。


「あなたは、魔術が選ばれた人間のみが起こせる奇跡から、ただの技術に堕ちる確率はどのくらいだと思っているの?」

 

 質問するナナの口調は、前の質問の時よりも真剣なものになっていた。

 無理もないだろう。私も、ベクター先生の講義を聴いていなければ、もっと動揺していたと思う。


「俺達からすれば、魔術は既に単なる技術だよ。だから、授業で教えられるんじゃないか」


 即座に答えたフォーゲルさんの口調は、ナナとは真逆の軽々としたものだった。


「じゃあ、魔術が技術に過ぎないことの証明って、どういうことなの?」


 切り返すナナの口調は、鋭くなっていた。

 でも、フォーゲルさんは依然として飄々としたまま、彼女の問いに答える。


「それは魔術が、既存の魔術師から直接教育を受けることでしか得られない特権的な知識から、公になっている文献を読むだけで得られる民主的な知識になるってことだ。奇跡とは、一般に知られていない現象発現方式のことを指す。普通、マッチを擦って出す炎を奇跡とは言わないだろう。だから、炎の魔術をマッチのように、水の魔術を水道の蛇口のように、一般の人々が認識するようになれば、魔術は特権階級者が持つ奇跡から、一般人が持つ技術となる」


「それって、魔術師であることの価値が無くなるってことですか?」

 

 咄嗟に口をはさんでしまった。

 だって、フォーゲルさんが言っていることはつまり、魔術という知識が特別でなくなるということだと思ったから。

 それが事実なら、ベクター先生が言っていたような見世物としての価値も、魔術師にはなくなってしまうのかもしれない。

 

「そんなことはないよ。専門家っていうのはどの分野でも必要とされるからね。むしろ、魔術が一般化した方が、魔術師の需要は増すんじゃないかな。誰だって、よくわからないものは使いたいと思わないだろ? でも、魔術の仕組みがもっと透明化されれば、科学技術と正当な競争ができるようになる。後は、リーズナブルな方が選ばれるだけだ。例えば、大きな物を動かす時、科学技術を使うとしたら、ショベルカーなんかの大型機械を使うことになるけど、魔術師なら、身一つである程度までの大きさの物体を、機械よりも緻密に動かせる。でも、魔術師を集めるより、ショベルカーとショベルカーを操縦できる人を集める方が、今のところは簡単だから、魔術師は建設現場で働いていない」


 一度、話すのを止めたフォーゲルさんは、真剣に話を聴いている私達を見てから、続ける。


「つまりさ、魔術の知識の民主化っていうのは、魔術が科学と同じ土俵に立つってだけで、魔術そのものの価値が無くなるなんてことはありえないんだよ。もし仮に、魔術の価値が無くなるとしたら、それは、全ての魔術が科学の劣化であることが証明された時だけど、そうなったなら、魔術師は潔く科学者に全てを明け渡すべきだ。形骸化した知識を捨てられないのなら、自分ごとゴミ箱に入るしかない」


 私は、今まで自分の内側で構築してきた常識の数々が壊れていく音が聞こえていた。

 フォーゲルさんは、魔術のみを追求してきた私とは全く異なる世界を見て、考えて、生きてきたのだろう。今の私には、その程度のことしか完全に理解したとは言えなかった。

 

「……でも、仮に魔術の知識が民主化されたとしても、本だけで魔術を習得するには、よっぽどの才能がないと無理です」


 しばしの間隔が開いてから、ナナが口を開いた。

 そして、フォーゲルさんはゆっくりと考えてから話し始めた。


「今はそうかもしれないが、将来もそうだとは限らない。なぜなら、俺やベクター先生が、魔術の抽象度を下げるからだ。大抵、理解することが難しい概念っていうのは、概念の抽象度が高かったり、複雑だったりするんだ。……逆から言った方がわかりやすいな。つまり、理解するのが簡単な概念は、単純なんだよ」


 そこまで言ったフォーゲルさんは、机に積もっている本の一番上にある一冊を手に取った。


「これが本ですって言われたら、わかりやすいだろ」フォーゲルさんは、本を持っていない方の手で、炎を発現させる。「それに対して、これが魔術ですって言われても、ピンと来ないと思わないか?」


 フォーゲルさんは炎を握り消し、本を元あった塔の先端に戻してから続けた。


「魔術や科学みたいな体系化された知識を学ぶには、問答無用で納得しなくちゃいけない前提条件がある。例えば、魔術を学ぶのなら、難解な呪文を完全に理解して詠唱すれば、魔術を発現させられるっていうのが前提だ。詠唱しても魔術が発現できないのなら、呪文の理解が足りないか、詠唱がへたくそなのか、魔術師としての才能がないかのどれかだと言われる。それに対し、科学を学ぶには、この本が本であることを認めるだけでいい。つまり、観察した事実をありのままに受け入れられさえすれば、科学を学ぶ才能があるということになる。魔術よりも後発の学術体系である科学が、現在では主流の教養となっているのは、これが主な原因だ」


 話を聴くナナの表情は、真剣そのものだった。

 一呼吸分の間を置いてから、フォーゲルさんの話は結論に入っていく。


「ゆえに、魔術が誰にでも簡単に行使できるようになるためには、魔術を学ぶための前提条件を単純化する必要があるんだ。そのために、俺達は魔術を科学的に解析し、抽象的で複雑な概念を単純化するための手がかりを掴もうとしている」


 そこまで言ったフォーゲルさんは、私とナナを見て微笑んだ。


「君は才能という言葉を使ったが、現代科学において、才能は三つの能力に分類される。一つ目は、遺伝子による先天性の能力。二つ目は、充分な質と量の努力を継続的に行う能力。そして三つ目は、己の能力を信じる能力だ。一つ目は紛れもなく天賦の才だが、それ以外の二つが才覚の要因となっている天才に対しても、全てが天賦の才によるものだと結論付けてしまいがちだ。その方が、自分の弱さに向き合わなくてよくなるからね。この事実を認める勇気を持てば、少なくとも愚者からの脱却はできるはずだよ」


 話が一通り終わり、頭から熱が出ているのを感じていると、後ろから声がした。

 

「中々面白い話だが、研究室を見学しにきた学生にするにしては、内容が抽象的過ぎではないか。君も自分で言っていただろう。単純な方が理解しやすいと」


 振り返ると、黒の中折れ帽を手に持ち、灰色のジャケットを着たベクター先生が立っていた。


「理解する努力を怠るような人間には、俺だってそうしますよ。でも、彼女達はそうじゃないでしょう。真剣に話を聴きに来た人間には、なるべく本質に近い言葉を使わないと失礼だと思います。内容を具体的にすると、その内容が持つ本来の価値を誤解させかねません」


「なるほど、確かに一理あるな。だが、魔術の単純化を研究する君が、話を単純に言い換えられないようでは、説得力がないとは思わないかね」


「確かに、そうかもしれませんが......」


 フォーゲルさんを言い負かしたベクター先生は、手に持っていた帽子をポールハンガーにかけ、代わりにハンガーにかかっているローブを手に取った。


「休日の学園に用事があるんですか?」


 そうナチュラさんが言うと、ベクター先生は軽く首を振りながら、


「この間の授業のことで、信仰魔術学部生の親からクレームが来ているそうだ。生徒を脅し、自由に講義を受ける権利を侵害したとね。応接室で待たれているから、対応してくれと言われてしまったのだよ」


 と苦笑いした。

 おそらく、イントロダクションの始めに言われた「論理魔術学部以外の生徒が受講すると、魔術の行使が上手くできなくなる」的な発言が問題になっているのだろう。論理魔術学部である私ですら一瞬ひやりとしたのだから、他学部の生徒ならそれ以上の衝撃があったに違いない。

 まあ、だからといって親が文句を言いに学園へ乗り込んでくるのは違う気がする。


「それは、お気の毒です」


 ナチュラさんは、ベクター先生に微笑みを返した。


「それは私が、かね」


「もちろん、学園と親御さんがです。人間は野生の生物と違って、噛みつく相手に毒があるかどうかは噛みついてみるまでわかりませんから」


「毒があろうとなかろうと、噛みつかれる側はたまったものではないのだが」


「自分が加速すると、停滞している周囲の空気との摩擦が生じるのは必然です。加速するには邪魔かもしれませんが、空気がなければ人間は生きていけません」


「ならば、私は自分の周りの空気と共に11.2km/sまで加速して、真空空間に至った方が良いのかもしれないな」


「その宇宙船ができたら、私も同乗させていただきます」


 途中から、私にはよくわからない話をしていたのだけれど、ナチュラさんとベクター先生の間では、会話は成立していたらしい。

 会話している間にジャケットを脱いでハンガーにかけ、ローブに着替え終えたベクター先生は、私達の方を見た。


「せっかく来てもらったのに申し訳ないが、私は仕事が入ってしまっている。代わりに、彼と彼女に好きなだけ質問するといい。ここの研究生は優秀だ。きっと、君達の望む知識を与えてくれるだろう」


 そう言い残し、颯爽とローブを翻したベクター先生は、研究室から出ていった。


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