怠惰な大家の備忘録

殺戮怪異の赤髪少女
暖暮凜
暖暮凜

其の三「どこにも、いかないでよ?」

公開日時: 2022年4月11日(月) 12:00
文字数:2,948

もう塞ぎこむことはなくなりました。そして潔く、人々との交流を諦めました。好きなことを続けても、努力を重ねても、結局は離れていきます。自分の才覚を呪いました。

「母乃は、母乃のままでいいんだよ」

兄の言葉が、ひどく心に刺さりました。そのままじゃいけないことが、生まれてからの10年でわかってしまったから。そして、よくしてくれた彼に、嫌悪感を抱いてしまったから。

そんな自分と、自分を受け入れられない世間が、嫌になりました。

「ねえ、お兄ちゃん」

ある日の午後。お兄さんが受験を間近に控えた、1月下旬のこと。

「ん? どうかした?」

部屋での勉強を終え、一息つこうとリビングに降りて、ホットミルクを作っているお兄さんに、母乃はなんてことのない質問をしました。

「神様、っていると思う?」

唐突な質問だったため、彼は少し戸惑います。

「……どうだろうなぁ。天使なら、僕の目の前にいるけど」

「気持ち悪いしそういうことじゃない」

これくらいの返しができるほどに、『対話のキャッチボール』を上達させていました。

「辛辣だなぁ。まあでも、ちゃんと考えるなら、いてくれた方が助かる、かな」

「……どういうこと?」

チンッ、という完成音が鳴ります。彼は「あつぅ」と言いながら、マグカップを取り出して、シンクの脇に置く。「染みるわぁ」と彼は感想を述べてから、続きを答えました。

「だって、なんか嫌なことがあったり、自分に都合が悪いことが起きたとき、相手のせいにしなくてもいいじゃん? 神様のせいにできれば、万事解決、的な」

「そういう、もんなのかな」

ゆっくりと丁寧にマグカップをお盆にのせ、そして彼は母乃が座るテーブルの正面に腰を下ろしました。私も欲しいな、と母乃はその香りに負けて、ふと考えてしまいます。

「逆に言えば、それが神様なのかもしれないけどね」

良いこと言った、みたいな表情を浮かべたものの、そんな彼には目もくれず、母乃は「うーん」と彼の言葉を巡らせました。

「……はきだめ、ってこと? それって神様があまりにも可哀想じゃ」

なんと言おうか、とお兄さんながらに悩みつつも、本心に近い言葉を探ります。お兄さんにとって母乃とは、確かにかけがえのない妹ではあるものの、妹である前に、一人の対等な人間なのです。そこだけは、外せない考えでした。

「でもさ、人間って、『こいつなら何してもいい』っていう存在を持っていないと、死んでしまう生き物だからさ。それくらい脆弱で、貧弱なものだから」

小さな体躯に入っている脳みそをフルに回しながら、彼女は結論付けます。

「人を傷つけないための、苦肉の策ってこと?」

「そうそう。だからこそ、神様は崇めてもらえる。いつも助けてくれて、ありがとうございます、ってね。強い人は、神様なんていないと言えるけれど、全員がそう言えるわけじゃないからさ。そんなもんだよ、人間なんて」

そっかぁ、と母乃は少し納得した様子を見せますが、やはりどうにも心のつっかえが取れないようで、間を空けて、彼女はぼそりとつぶやきました。

「……神様は、どう思ってるのかな」

「どうって? あぁ、良いように使われて、ってこと?」

本当に心優しい子に育ったなぁ、とお兄さんは安堵します。

「そう。人間の努力でどうにかなるようなものも、自分たちのせいにされたら、たまったもんじゃないような気がするんだけど」

「まあ、確かに。否定したいけど、できないところではある。でも実際、僕も利用しちゃったりしてるし、強くは言えないんだよね」

母乃にとって、彼のその行動は意外だったようで、「……お兄ちゃんでも、そういうことってあるの?」と少し前のめりになりました。

「そりゃああるよ。お兄ちゃんは弱い人間だからさ」

ハハッ、と溌溂に笑いましたが、しかしネタに取ってもらえなかったみたいです。

「……そんなことないよ、お兄ちゃんは、すっごく優しくて、すっごくいいひとだもん」

「ありがとう、そう言ってくれて」

それから、母乃は自ら冷蔵庫のところまで、とことこと歩きだし、牛乳を取り出して、コップに注ぎます。ひたひたになった牛乳を丁寧に持っていきながら、「ねえ、お兄ちゃん」と話を持ち掛けます。「どうした?」とそれより牛乳の方が気にかかっていたお兄さんは、適当な相槌を打ってしまいます。

「いっつも私ばっかりが相談事を持ち掛けてるわけじゃない?」

よいしょ、とこぼすことなく、彼女はテーブルに置きました。それにほっとしたお兄さんは、「僕はそれが嬉しいんだけどね」と冗談交じりに返しました。

「だからさ、今度はお兄ちゃんの悩み事とか聞かせてよ」

「えー、いいよ。母乃に心配かけたくないし」

「いいから、ほら」

母乃の圧力に負け、お兄さんは「……わかったよ、しょうがないな」と渋々答えることにします。「よしっ」と母乃は喜びを表し、それから姿勢を整えます。

「妹が天使すぎて、勉強に集中できないんだ」

「それに対するアンサーは、そのロリコン思想を早く捨てることだよ」

「小学生がロリコンとかいう言葉を覚えてはいけません」

「じゃあ小学生に天使とかいうのやめてください」

はぁ、と母乃はため息をつきます。お兄さんは、幸せそうに微笑みました。

「まじめなやつ、まじめなやつ!」

「わかったわかった。……さっきさ、神様の話をしたじゃん?」

彼の笑顔は、少しずつ本物から偽物へと動いていきます。

「うん」その微動に、母乃は違和感を持つも、完璧な答えにまではたどり着けません。

「それで、神様の役割は、『こいつなら何してもいいっていう存在になること』って言ったじゃん? 結構強めに」

「言ってたね。それが、どうかし……もしかして」

「若干、そんな感じなんだよね、今」

へへっ、と彼は苦笑いを浮かべます。恥ずかしさと情けなさに溺れそうな彼の瞳は、少しだけ大きく揺らぎました。「……どうして抵抗しないの?」という妹の言葉が、痛い。

「そういう人たちの顔を見てると、『ああ、こいつらの役に立ってんだなぁ』って思えるから、かな。悪い奴だとは思うんだけど、それに浸る自分も自分だなって思っちゃって、変に怒ったり、抵抗したりできないっていうか」

「お兄ちゃんはさ、人とコミュニケーションを取る才能があると思うの」

「おお、どうした。いきなりすごい褒めてくれるじゃないか」

「だから、その人たちは嫉妬して、利用してやろうって考えになってるんだと思う」

「ああ、確かにそれは言えてるかも」とお茶らけてみるが、やはり後悔してしまう。

「私とは違う。私は、離れていった。でもそれは、彼らがまだ成長していないから」

「……君もまだまだ子供なんだけどね。ただ、言わんとしてることは分かるよ」

「お兄ちゃん、お願いだからさ」

母乃はその鋭い眼で、お兄さんをとらえます。

「どこにも、いかないでよ?」

お兄さんは、妹との約束を果たせなくなるほどに、精神が蝕まれていました。限界が来ていたのだ。担任の話を聞くと、どうやら、彼は死ぬ直前、妹について吐き気がするほどの暴言を吐かれたそうです。それで、今までの鬱憤などがすべて、解放されたのだと。

そして、彼は張本人と殴り合い、そして二人同時に、窓から落ちたと言います。

『ごめんな、母乃。お兄ちゃん、弱くて、ごめんな』

それが、緊急搬送先の看護師が聞いた、最後の言葉だそうです。

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