『おおきくなったら、おとうさんのおよめさんになったげる』
母乃もまた、そんなありふれた言葉を、まっすぐに紡ぐことのできる少女だったそうです。
母乃は4人家族でした。少し体の弱い母親と、頼れる父。それから、年の離れた兄がいました。多くのお金を持っていたわけではないけれど、優しくそして暖かい家族の空気は、幸せの具現化ともいえるものでした。
いつか、母親のように寛大な心をもつ女の子に育ってほしい、という意味を込めてつけられた母乃は、雪が止むことのない季節に生誕します。その日だけは、地球が祝福するかのように晴れ渡り、きっと彼女には加護があると家族みんなで祝いました。
特に嬉しかったのはお兄さんで、まるで我が子のように母乃との時間を大切にしました。
彼には、彼女はいません。好きな人ができても、振られてしまう。いつだって「いい人」どまりの彼に舞い降りた天使は、彼にとっての生きる糧となっていました。
ちなみに彼の名誉のために言っておくが、彼は年上好きだそうです。
『困ったら、一緒に考えような』
お兄さんはいつも、彼女に告げていました。それは、彼なりの子育ての答えでもありました。考えることを大切にさせようと努力した彼の、その努力が実ったのか、母乃は人一倍考える子供のとなりました。とはいえ、子供に対して哲学的な問いは早すぎるため、その思考力は、良好な人間関係の構築へとシフトされていきます。
しかし、人間関係を円滑にできれば生きていけるというのが、子供社会というわけではありません。子供社会はもっと複雑で、もっと怪奇ですから。
母乃は、その波にのまれ、死にかけました。
「ママがね、母乃ちゃんとは遊ぶな、って言うの」
小学校1年生の時です。唐突にその言葉を投げられてしまった母乃は、その少女にその旨を尋ねます。しかし、思った返答は返ってこず、というより、本人もよくわかっていない節が見受けられました。母親の言うことなど聞かなくてよい、と言うわけにもいかず、「……そっか、ごめんね」と返すほかなかったそうです。
暗い気持ちのまま帰ると、家族を心配させてしまう。そう考えた彼女は、学校から家までの道のりを、少しゆっくりと歩きました。一人で帰る道は、いつもの道とは違う感覚がして寂しかったが、我慢できないほど子供ではありませんでした。
彼女はもう、子供ではありません。
「母乃とかかわるな」
このお達しは、やがてクラス全土へと渡っていきます。一部、彼女を好き好んで止まない少年たちは、その葛藤の中で不器用な優しさを見せていたものの、それ以外のクラスメイトは、全員が無視や誹謗を絶やさないようにしていました。
ゲテモノを見るような瞳。言葉の節々に混ざる侮蔑。自分や自分の所有物から匂う異臭。痛む体。傷む心。本心からの優しさは、やがて取り繕うための姑息となっていきます。
静かに崩れ落ちる幸福が、彼女の心身をさらに蝕みました。
「どうして、そんなことをするんだ」
そんなことは、訊けるわけもありません。訊いたところで、幸せになどなれないから。考えることを習慣づけ、そして考えることが日常となっていた彼女は、気づけば未来予知ができるほどに考え込むようになりました。未来は変えられるというけれど、未来は変わらないのです。変わりようがないのです。変わるのは、未来をとらえる自分の方です。
「……私、私」
それでも彼女は繕い続けました。いつか、元に戻ると信じて、一生懸命つなぎとめました。何をされても、バラエティ番組のようにリアクションをし、そして笑いにつなげようと言葉を紡ぎました。なんとかして、自分が可哀想にならないように、必死でした。
「ねえ、先生。ちょっといいかな」
ある日。帰りの会のすぐあと、クラス委員長が、すうっと手を挙げました。普段は静観するような彼女でしたが、この時ばかりは、強い意志を持って勇気を出して、手を挙げていました。何だろう、より、やめてくれ、の方が強かったそうです。
「……どうかしました?」先生は優しく問い返します。
「少し、お話がしたくて」委員長は、鋭く返します。
「……わかったわ。ここで構わないかしら?」
「……はい」
母乃は、理性と倫理観のはざまで揺れ動き、そして最終的に本を読むふりをして、教室に残ることにしました。興味深い物語だったため、話半分になっていったことは、母乃自身も驚きでしたが、それでも彼女の耳に、話の大切な部分は聞こえていました。
「だからっ、どうして先生が何も言わないんですかっ!」
「どうにもできないのよ、私じゃ」
「教え子がいじめられているんですよ! 教え子が、苦しんでるんですよ!」
「わかってるわよっ! ……でも、でもいじめを告発したら、私はもとより、彼女の居場所がなくなるわ!」
「……どういうこと、先生」
「こんなこと、何度も何度もあったわよ。被害者も加害者も、どっちを飛ばしたところで何も変わらない。結局いじめが起きた時点で、私たちにはもうどうにもできないのよ」
「……そんなはずは、だって私たちは」
「できないわよ。嫉妬で生まれたいじめは、どうにもならないの」
「……そうかも、しれないけど、でも何もしないのは」
「待ちましょう。あなたも、標的になるわ」
先生の言葉を理解できないでいる委員長と、先生の言葉を理解できてしまう母乃にも、その差はあったのだと突きつけられる一幕でした。委員長は委員長で頭がいい。正義感が強く、きちんとした言葉を覚えている。しかし、そこまでなのです。純粋無垢で、間違っていないと思えるのが彼女の良さではあるが、そこまでなのでした。
「委員長」
立ち尽くす委員長に、声をかけます。母乃の声に、委員長は「……いたの」と返します。
「ありがとうね、でも大丈夫だよ」
「……でも、そんな風には」
「ひとつだけ、約束してくれるかな」
母乃が見える世界は、もはや現在の世界ではありません。未来に起こるだろうすべてが見えたうえで、彼女はその言葉を口にします。
「完璧に、忘れてください」
その言葉は、やはり小学校1年生には届きませんでした。
「……やだ」
「い、いや、やだじゃなくて」
「やだもんっ! みんなで仲良くしたいもん!」
「そんなこと言わないでよ。私は、今のままで十分」
「そんなわけないもん!」
「どうしてそんなこと言うの! 私が楽しいって言ってるのに!」
「嘘だもん!」
確かにその言葉は嘘です。嘘を見抜く力は、やはり委員長にも残っていました。
「そんなのに騙されません! 私は、私と同じように嫌な思いをしている人を、見捨てたりなんかしません!」
委員長はこの性格であるがゆえに、少し嫌われていたんだそうです。母乃ほどではありませんが、それでも十分、心に深い傷を負ってしまえるほどに深く、傷つけられていました。
「だからやめようって、これ以上互いに傷を増やすだけだって」
「そんなことないもん! ちゃんと、わかってくれるもん!」
涙ながらに、号哭にかき混ぜて、彼女は本音をぶつけます。その態度に、その姿勢に、母乃は思わず言葉を止めてしまいました。
そして数日後。学年集会が開かれました。
委員長はほどなくして、クラスメイトとの事故により、息を引き取りました。
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