ストックホルム症候群という状況に陥ってみると、本当に平常心に固執して、敵も味方も正義も不正もわからなくなるのだな、ということがわかりました。
「王手っ!」
「うわぁ、さっすが母乃ちゃん! 完敗だぁ」
それから。私は、保健室に海亜ちゃんを連れて行ったあと、母乃の遊びに付き合うことになりました。彼女はいろいろなことをして遊びたい、という話でしたが、さすがに海亜ちゃんを一人にしたくないという私の要望に応えて、保健室で遊ぶことを許してくれました。
さて、保健室で、しかも二人で遊ぶことと言えば、ボードゲームかカードゲーム、あるいはしりとりくらいしかなく、すぐに飽きてしまうのではないかという危惧もありましたが、しかし、そこはなんというか、年相応で、すべての遊びを全力で取り組もうとする少女の姿が、そこにはありました。
「母乃ちゃん、一つだけ訊いてもいい?」
「ん? どうしたの?」
「母乃ちゃんの力、みたいなのがあれば、こんなの最初から勝てるってわかるんじゃ?」
母乃は鬼才と呼ばれていたそうです。それは、決して運動神経だけでなく、芸術的センスや、情報処理能力なども加味された愛称です。そのため、彼女はこんな遊びの数々を、適当にやっていたとしても勝てるはずなのです。なのに、どうしてそこまで熱中できるのか、私には疑問でした。その疑問を投げてみると、彼女は「うーん」とうなり、それから純粋なまなざしをこちらに向け、「頭を使ってないから、じゃないかな」と返しました。
「偶然とか奇跡とか、そういうのが楽しいから」
彼女は、そう結論付けたのでした。
「大家娘も、わかってくれるんじゃないか?」
「……うーん、ちょっと具体例が思いつかなくて」
「ああ、そういうことなら」母乃はそう言うと、「スポーツって、どうしてこんなに盛り上がるんだと思う?」という、一見つながっていなさそうな話を持ち出すのでした。
「……スポーツ? うーん、興奮するから?」
「奇跡や偶然が多いから」
「……いやいや、でも実力差とか、戦術差とかあるんじゃないの?」
「君はある1チームが何十連覇もしている大会を見に行こうと思うかい?」
「……確かに。で、でもそういう大会にだって、お客さんは」
「それは、その1チームが負ける瞬間を見たいからだよ。そういう奇跡を、望んでいるから、彼らは足を運ぶ。奇跡の瞬間を目の当たりにしたい、ってね」
「……なるほどぉ。でも、それが今回の話にどうつながるの?」
「いや簡単な話、君が私に勝てる瞬間がどこかにでもあれば、君は楽しくなるだろう?」
言われてみれば、母乃と対戦しているさなか、多くの種目で勝てそう、という場面はありました。例えばオセロで、例えば麻雀で、例えばチェスで、例えばババ抜きで、例えば大富豪で、例えば野球盤で、例えばテーブルサッカーで、例えば将棋で。
結局は負けてしまったけれど、それでも勝てそうな瞬間はありました。
「そういうときの、皆の顔を見るのが大好きなんだ。だから、私は頭を使わない。適当に置いてみたり、適当に動かしてみて、そこに生まれた隙をつこうとするみんなの姿を見たいからね。邪魔になる頭は要らないってことよ」
母乃はそう言うと、私に「ねえ、私のこと、ちょっとは怖がらないでくれた?」と尋ねてきました。いやまあ、あなたが人殺しをしたり、親友の足を切り落としたりしたから怖がっていたんですけど、結構あなたのせいなんですけど。
そう考えた矢先、ふと彼女にほんの少しだけ、同情のようなものを感じました。
もし、彼女が元からそんな性格ではなかったのだとしたら。
もし、彼女がどこからかこんな性格になったのだとしたら。
「本当は優しい子だったんだね。っていうか、もしかして生前はお姉ちゃんだったり?」
私がそう返すと、彼女はふふっ、と笑い、そして「どうかな?」と疑問を残しました。
「……それじゃあ、君たちをもとの場所に戻そう。ありがとう、楽しかったよ」
「いやいやこちらこそ。危うく、変な誤解を持ったまま君を敵対視するところだったよ」
母乃の瞳は、なんとなく潤んでいるようにも見えました。しかし、その本心を探るには、どうにも時間がありませんでした。
「なあ、大家娘」彼女は姿勢を取り直し、そして背筋をピンと伸ばしました。
「な、なんでしょうか」私も自然と綺麗な姿勢を取ろうとします。
「もしさ、私のことを倒せる方法がわかったらさ」
彼女はその聖惚の瞳で、私にそう告げたのでした。
「私を、殺してください」
私は、どういった答えを出せばいいのか、わかりませんでした。しかし、彼女にはきっと大きめな、しかもかなりの問題があることも、同時に把握できました。
「責任もって、私たちがあなたを導きます」
私が言えるのは、それくらいのことでした。
「……そっか」そう言うと、彼女は姿勢を崩し、「これで、ようやく終わるんだぁ」と息を柔らかくしました。
「ほんとに、よかったぁ」
私はそんな彼女の姿を見て少し安堵したとともに、「あのぉ、ちょっと訊きづらいんだけど」と疑問に思ったことを投げてみました。
「どしたん?」母乃は食い気味に、前のめりに私の方を向きました。
「いやその、君のことを嫌っている人、ももちろんいるわけじゃないですか?」
「……まあ、そうだね。それがどうかしたの?」
「いやほら、そっちの方が討伐方法を練りこんでるんじゃないかなぁって思うわけですよ。どうして、私たちなのかなぁって」
すると、母乃は少し考え始めました。しまった、と私は身構えましたが、彼女は淡々と、「彼らの手法って、わかりやすいっていうか、愛がないんだよね」と返しました。
「……愛がない?」
「あるいは、愛憎というか。要は、『とどめの一撃』が刺せないんだよ」
「……なるほどぉ?」
「私って、死ぬことはないの。永遠に肉体は残り続けるの。でも、その事実を受け入れない。彼らは、私のことを消滅できると思い込んでいる。だから、彼らには私を殺せない」
「……それじゃあ、っていうのも違うような気がしますけど、君のことを嫌う人たちのことを、殺さなくてもいいんじゃないの?」
「ああ、それは」
彼女はあっさりと、当たり前のように告げるのでした。
「だって、これからの世界に、害悪でしかないもん」
「……害悪?」
「才能がない、なんていう些細なことで、才能がある人間を折り殺す。そんな人たちが、世界に有益なわけがないじゃないか」
彼女は乾いた笑いを浮かべました。
「あなたの目的は、そういうこと? それで、私のクラスメイトを殺したの?」
「天才を貴べとは思っていないが、人間を貴べない奴は死んだほうがいい」
この異常な偏想も、彼女が子供である所以なのでしょうか。
静かに私は声を落とし、「そっか」と音を鳴らしました。
「それじゃあ、私と海亜ちゃんは殺されないわけだ」
「……すごい自信だね。好きだよ、そういうとこ。でもなんで?」
「だって、私たちは、溜まり物だからね。ピラミッドの隅にある、塵屑の」
「……そりゃあまたずいぶんなご謙遜を」
「事実なんだ、これが」
私はようやく、彼女に心を開くのでした。
海亜ちゃんが目を覚ますのと、ほぼ同時に。
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