しかし、とはいえやはり、西連寺さんの疑問はぬぐえません。なぜなら、先ほどまでクラスメイトを見捨てようとしていた人間が、突然、知らぬ女性のことを想って、必死になって救おうとしているわけですから、納得っちゃ納得です。
「……ねえ、どうしてそんなに助けようとするの? クラスメイトは助けるそぶりすら見せなかったのに。家族とか好きな人とかならまだわかるけど」
西連寺さんは、何かしらの事情があるのだ、と踏んでいました。しかし、奨太郎さんのご家庭の事情は、決して裕福でも貧困でもなく、複雑なものですらないのです。
「怪異に成る条件って、たったひとつなんだ」
トーンが低くなる奨太郎さんに、注目が集まります。教頭先生は運転中なので、半々くらいの意識を向けます。
「……多数派が知らない、ってことなんだ」
「多数派? みんなが知らない、ってこと?」
奨太郎さんは、西連寺さんの反応を聞くや否や、「怪異に成る特徴として、知らぬうちに、その人に災厄が降りかかり続ける、っていうのがある。クラスメイトの場合は、それはまず起きえない。なぜなら、」と続けますが、その最後の答えは、西連寺さんが紡ぎました。「ニュースになり、みんなが知ることになるから、ってことね」西連寺さんの答えに同意しつつ、「ただ、奥さんはニュースにならない。正確に言えば、ニュースになる前に、怪異に成るといえる」と返します。
「……どうして? だって、最近のマスメディアなら、その辺すぐに察するわよ?」
「現状ですでにリーチだからだ。第一報の時点で、奥さんが怪異に成る条件は揃う」
確かに、いくら早いマスメディアも、第一報から犯人の奥さんが流産させられているという事実には、到達できません。
「僕らの仕事は、退治するのと、未然に防ぐというものがあるはずだ」
「……確かに、失念していたわ」
怪異の専門家を二人乗せた車は、閑静な住宅街と、喧噪の繁華街をすり抜け、存在感をいかんなく発揮する病院へとたどり着きました。
「……でも、どうするの? なんて言って説得するの?」
すると、駐車場に止めた教頭先生が、「……僕が説明するよ」と告げました。上司としての責任、というものでしょうか。それを聞くや、「それじゃあ、僕らは万が一に備えておきましょう」と西連寺さんに合図を送りました。
教頭先生を先頭に、専門家二人がバックアップに回るという態勢を組んで、彼らは病室へと向かいます。この作戦が奏功したところとして、病院側に話を通しやすいというのがあったようです。教頭先生は、ふう、と大きくため息をつき、それから二人に目で合図を送ります。ゆっくりとその扉を開き、純白室に目を慣らし、そして向き合います。
「……久しぶり、調子はどうかな」
教頭先生が尋ねると、奥さんはゆっくりとこちらを向き、「お久しぶりです」と微笑んだ。儚い笑みに、耐えられそうになかったのは、奨太郎の方だった。
「君の、教え子だよ」教頭先生は、その朗らかな声で、そう告げます。
二人は知らなかったようなのですが、主担任・副担任制度が導入されていた二人のクラスは、担任がこの教頭先生、副担任がこの奥様だったのです。
「……そっか、二人は私の」
体調不良ながらも、なんとかして上半身を起こします。そこは、なんというか、先生としての意地なのでしょう。教え子の前で、弱いところは見せられないという。
「それで、今回は、どんな用なのですか?」
か細い声で、三人に尋ねます。これから、あんな重い話をしなければならないのか、と教頭先生は心苦しかったそうなのですが、しかし彼女のためにもと、自分を奮い立たせます。
「落ち着いて聞いてほしいことがある」
教頭先生は、時に言葉を慎重に選びながら、なるべく彼女を傷つけないように、話を紡ぎました。時折、彼女の切ない表情が突き刺さることもありましたが、なんとか最後まで伝えることができた頃には、奥さんも「……お話しくださり、ありがとうございます」と微笑んでいた。何度も見てきた辛切な微笑は、しかし奨太郎さんの心に深く傷を作ります。
「……実は、昨日。旦那が、お見舞いに来たんです」
奥さんは、ゆっくりと前日のことを思い返します。窓に視線を預け、その先の青空に思いを馳せながら、その瞳を潤ませ、そしてこぼします。
「来週、ようやく終えられそうだ、って言っていたのは、そういうことだったのですね」
奨太郎さんと西連寺さんは、注意深く彼女の動向を見つめます。諦めから来る怪異も、今まで何度か見てきているのでしょう。
「……あの、警察に通報をしましょう。調査してもらいましょう」
奥さんは、静寂に針を落とします。
「何もなければ、それで構いませんし、何かあるなら、ちゃんと償ってもらいます」
奥さんは、奥に潜んでいた強さを、ようやく取り戻します。人を想う、人を愛するというのは、実は自分を愛することよりももっと、強くなれるのかもしれません。
「私が最後まで、見届けますから」
その矢先でした。
「おい、なにしてる」
視線を向けると、そこには化学教師が、大きな荷物と、土産物を持って立ち尽くしていました。「……お前ら、何してんだ」という力の抜けた声が、病室に響きます。
「また傷つけるつもりなのか!」
化学教師は、勢い其のままに教頭先生に襲い掛かろうとします。互いに30代で、それなりに筋肉の揃った二人なので、どちらも対応に遅れはなかったそうなのですが、それより速かったのは、西連寺さんだったそうですね。
「おい先公。奥さんの前で暴力は、やめないか」
高く上がった右かかとが、化学教師の眉間の寸前で止まっています。そのつま先は、教頭先生の眉間の寸前で止まっています。
『……ジャージでよかったぁ』と、奨太郎さんは安堵していたそうです。
そして、奨太郎さんは奥さんの注意をそらすように、他人事のように「あなたの教え子、格闘技得意なんですよ」と微笑みました。「そ、そうなんですね」と少し引いていたのが、なんか可哀想だったそうで、「すっごく頼れる相棒です」とフォローしたそうです。
「なんで、あんなクソガキどもを助けようって思うんだ」
化学教師は、こないだの余裕そうなそぶりは一切見せませんでした。しかし、それが、それこそが彼の本来の姿だったのです。
「……もうやめませんか?」
奥さんは、彼に向かってそう告げました。
「私のためにやってくれようとしたのは、とてもうれしいです。それだけは、あなたと結婚してよかった、って思えます。ただ、やり方は間違っています。ですから」
奥さんは、涙を流しません。彼に支えられてきたことを思い返しつつ、今度は自分が支えなきゃ、という思いからでしょう。
「今度は、二人で考えましょう。復讐じゃない、爽快な人生を」
化学教師は、膝から崩れ落ちます。その姿は、子供のようでした。
「思いやれなくて、悪かったな」
教頭先生は、頽れ、泣きむせぶ化学教師の肩を抱き寄せます。奨太郎さんは、西連寺さんに視線を合わせると、『よかった』と口の形で伝えてきました。
西連寺さんも、ずっと緊張されていたのでしょう。
すると、奥さんの手がするりと西連寺さんのもとへ動いていきます。気づいた奨太郎さんが「どうかされましたか?」と尋ねると、「いいえ、なんでもないわ」と微笑みました。
「教え子にも、こんな優しくて、強い人がいてくれて、嬉しいなと思っただけよ」
奨太郎さんは、『でしょでしょ?』と舞い上がる気持ちを抑え、西連寺さんに告げます。
「よかったね、先生に褒められちゃって」
照れくさそうな西連寺さんは、それはそれは可愛かったそうですよ。
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