「"魂の不在"……」サトルはいきなり出てきた難しそうな哲学に思わず復唱してしまった。
「亡くなった配偶者様の体を見て、ハナレさんは思ったそうなのです。ここにもう、妻はいない。妻の魂は、天へと昇った。と」
普段耳に入れることはなかった父の思考にサトルは思わず聞き入れてしまう。
「しかし、ここで思わぬ事態が起こる」
サトルは、何かを察した。槙野の薄い目から発する視線は、人ごとではない、これから貴方が関わる、そんなメッセージが込められている気がした。そして、その予感は的中する。
「若返りの薬、です。貴方が、ハナレさんに無断で投与したことで、事は加速した」
「!」
「進行していく若返りに、魂は追いつけなかった。既に、天の上の方に向かっていた魂が、下に引き摺り込むのは困難だったのです」
「僕のせい、と言いたいのですか……? 僕は、母さんも父さんもずっと生きていてほしかったんだ……! でも母さんは死んだ。父さんは抜け殻になった。僕は怖かった。その時父さんにも死の影が見えた。失いたくない、そう思って、僕は勉強した。調べてみると、その当時は若返りの仕組みはもうすぐ解明される、そんな段階で僕は嬉しかったんです。僕たちが知らないだけで、世界は大きく進歩していた。人類はもうすぐ全てを手に入れるんだ、と。でも、到底僕は解明できそうもない。当たり前ですよね。だから頼んだんです、大手の製薬会社に。コネクションを伝って、その成分が欲しい、と。秘密裏に取引して、僕は手に入れた。そして、秘密裏に、それを、試供品に入れた……。信憑性もなくて、僕も信じられなかった。だけど、奇跡が起きたんだ。試供品を父さんに渡す前日の夜、取引した製薬会社が、若返りの薬を開発したってニュースが出たんだ。本物と確信した。高額な買い物だったけど、その価値以上の買い物だったのかもと。そして、父さんに食べさせた。父さんは若返った。本当に嬉しかった。涙が出るくらいに。どんどん元気な姿を取り戻していっていたんです。なのに、喜んでいるのは、僕だけだったなんて……。父さんは、喜んでいなかったのですね…………寿命じゃなくて、自ら死を選ぶなんて……僕は、なんてことを……僕が……父さんの死を早めてしまったなんて…………」
サトルは目から雫を垂らした。父は、自分の思い描く父さんとはかけ離れていた。
「僕は……どうしたらよかったんですか」
「辛いお気持ちをお察しします。人間の本来の姿とはそういうものなのです。人生には区切りが必要なのです。若返りの薬は、所詮肉体の再生だけです。魂は、若返らない。人間には、いずれ死が必要になる。死を求める、そんな時代が来ようとしているのです。生物の営みの根底を覆された時、思考もまた、根底が崩れる。そして、革命が起こるのです。これからは、死を怖がり避ける時代から、死を自ら欲する新たな時代に突入します」
槙野は、至って真摯に対応していた。しかし言動はエスカレートしていく。
「死を、欲する? そんなことが」
「いずれ、そうなります。数十年後は、違う世界でしょう」
「父さんはそれを信じたのか」
「はい。そして私どもの提案に同意していただき、記念すべき弊社最初のサービス利用者となりました」
「お前らが殺したのか!! よくも父さんを!!」
「――笹沼サトル、貴方、邪魔なんですよ」
突然フルネームで呼ばれ、サトルは目を見開いて驚く。その開かれた目に映し出されていたには、先ほどの温和な雰囲気から一転、血相を変え、獲物を狙う鋭い目つきをした野生の肉食動物のような、人間だった。
「貴方と、同じではないですか? 笹沼ハナレは、貴方の試供品であり、私どもの試供品にもなった。貴方が若返らせなければ、私どもも、残酷な、それもまだ試行段階にも入っていないような最終手段に出ずに済んだのですよ。貴方が時代を先取りしすぎたせいで、私どもは抑止力を行使するしかなかった。利益に支障が出るんですよ。本当に困ったものだ」
言い返す言葉が思い浮かばない。槙野の言動は、サトルの理解の天上にある。
「私ども『葬儀屋』は若返りに以前から勘づいておりました。貴方だけだと、思いましたか?」
「僕たちが知らないだけで、世界は大きく進歩していた……?」
「各企業と情報戦を繰り広げつつ準備を進めてきました。ただでさえ大変であるのに、貴方のような邪魔が入った。私どもは死を取り扱うビジネスをやっている訳でありますから」
「死がビジネスだと……!? そんなことがあってたまるか!!」
「だから言ったでしょう? これからは新たな時代に突入すると。時代の変貌と共に、私どもも主体的に動かなければならない。ハナレさんのように、死を望む者に対して、質のよい死を提供しなくてはならない」
何を言っても理解できない言葉の羅列に圧倒されてしまうサトルは、顔を大きく歪ませた。それほど、人類のあり方の根底を覆す時代に突入していることを、サトルはようやく理解した。
「貴方は、葬式についても不平を垂らしていたようですね」
「!?」
「なぜ他人が勝手に決める?もっと大規模にして、知人を呼びたかった、と」
「何が言いたい……」
「貴方だけを呼んで、あんな小さな部屋でお見送りとなったのも、貴方が若返りをさせたからですよ? 未だ世間に広く知られていないのに、あそこで知られたら、混乱してしまうでしょう? 解剖されてしまうかもしれません。貴方の気分が損ねるのを最低限に抑えるためにも、私どもは最大限の配慮をしたつもりです」
サトルはもう何も言い返せなかった。
「私どもからの報告は以上です」
「くそっ……そんなことがあってたまるもんか……」
「自殺はあまり良い印象を持ちません。しかしこれからの未来、自殺という事柄は端に置かれ、その理由によって印象が左右されます。貴方に"魂の不在"以外の理由での自殺はさせません」
「お前に何がわかる!? 家族がいなきゃ僕はもう何もない!!」
サトルは台所の包丁を自身の首元に向けた。しかし、槙野は未だ平静を保ったままだ。
「貴方は死のうとしてますね? 長年携わっていればわかります。それが本気かどうかも」
「うるさい!!」
「なにより、貴方程度の人間が、自ら命を絶つなど、できるはずがない。貴方はまだ生きたいでしょう? 貴方はどれだけ死にたがろうと、ハナレさんのような域まで達していないはずですから。そして、そんな自殺に価値はない」
槙野はゆっくりと近づいていく。
「心の底から死を欲していますか?」
「くるな! 本当に……! 喉切ってやるぞ!!? ここで死んでやる!!」
サトルの脅しも虚しく、ジリジリと両者の距離を詰めていく。
「貴方の内側にある衝動は、天を望んでいますか?」
「やめろ……!!」
そして、2人の拳二つ程度の距離にまで迫った。
「否。若い貴方の魂は、まだ肉体からは離れようとはしない」
槙野は、サトルの喉元にあった包丁の刃ではない部分に手をやり、ゆっくりとサトルに降ろさせた。
サトルはその場に膝をついた。
「僕は……もっと愛されたかった……家族以外、心から愛しい温もりを与えてくれる人がいないと思ってた……なのに、家族さえも与えていなかったなんて……」
「はい……心中お察しします。愛は一方通行とはよく言ったものです。先ほど邪魔と申しましたが、貴方は私どもに貴重な経験をもらいました。若返りを悩む人への対応という、何物にも変え難い貴重な経験です。未来の私どもにおいて、最高の財産になるでしょう。
私たちは感謝しているのです。だから、今度は、貴方のために、何かできる事はないか、議論したかったのです。私どもが、総力を上げて、貴方の望みを叶えます。それくらいのことを貴方はしたのです。恩返し、と言えば聞こえは良いかと」
俯いていた顔を、見上げた。それは、『葬儀屋』に一縷の希望を見出すように。サトルには、少しでもいいから、今は望みが欲しかった。
「なんでも、叶えてくれるのか……?」
「えぇ、貴方が欲するのなら、存分の愛を与えましょう。そして、来る未曾有の時代を、共に乗り越えましょう…………笹沼サトルさん?」
槙野が去った後、サトルは無心で外に出た。すでに空は光の屈折で赤色に照らされていた。本当に何も考えず、ふらふらと街をさまよっていると、いつしか、父と最後にともに行ったあの遊園地が目の前にあった。吸い寄せられるかのように、色とりどりの風船で飾られた入場門をくぐる。
夕方にもかかわらず、辺りは、楽しそうにアトラクションで遊ぶ人たちで溢れていた。彼らの後ろ姿に生きようとする意志を感じた。晩年の父からは感じることのできなかった、生の喜び。彼らを見ることで、あのときの小さな父の背中が異常だったとさらに痛感した。体が若返って心の老いが加速するとは、全く想定していなかったのである。しかし、結局若返りをしなくても、いずれ寿命が尽きていた。ハナレの死を防ぐことは、不可能だった。
そして、サトルにハナレの本物の愛は向けられていなかった。それがいかに悲しいか、計り知れる者はいない。サトル自身でさえも、わからない。愛とは何か。小難しい哲学を知る必要があるのかもしれない。いずれにせよ、父に対して、今は何一つ共感することはできなかった。
「もう一回行ってみようぜ!」
「え、また!? やだよ怖いもん」
「いいじゃんかよ! それに、お前の可愛い顔も見たいし!」
「ちょっと……! 恥ずかしいじゃん」
近くのお化け屋敷から出てくるカップルに目が留まった。死ぬかもしれないという恐怖を疑似体験し、出てきたときにはどこか快感を覚える。人々は、恐怖を欲する本能が備わっているのかもしれない。望んで恐怖の元に向かう、逆説的な本能が。その先に見出される快感を求めて。
恐怖は、願望と同じだ。
我々は、心のどこかで、死という恐怖を望んでいる――。
しかし、人は死のボーダーを簡単には超えない。
それでも父は超えた。
だが、父は、本当に死の先の快感を求めたのだろうか。
彼の自殺の先に、楽園は存在するのだろうか。
今のサトルには、父を到底理解できそうにない。少なくとも、サトルの純然たる魂が、『死にたい』と高らかに叫ぶまでは。彼に共鳴するかのように、天は薄暗い雲で覆っていった。そして、ひどく鋭い雨を降らせ、1人取り残されたサトルを困らせた。
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